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「分かれ道」のまとめ①
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「四章 分かれ道」の前半部分をまとめます。この章から山下りんの帰国から帰国後の生活に入っていきます。「ぺテルブルグを出立したのは明治十六年三月七日の午後一時半、汽車はまず独逸()の伯林(ベルリン)に向かい、九日の朝には着く予定と聞いている。帰路は誰の差配によるものか、任期を終えて帰国の途につく公使、柳原前光伯爵の一行に随行する形で、書記官がりんの世話をしてくれる。与えられた部屋は一行とは異なる中等室だが、往きの船中とは雲泥の差だ。」帰国の途中でりんはパリにも立ち寄っています。「石畳の道はペテルブルグよりも細く複雑で、しかし町の建物や店の様子は遥かに洗練されている。これには驚いた。ペテルブルグは西欧に近いだけあってひときわ美しい都であると聞いていたし、りん自身もそう思っていた。けれど巴里の町を行き交う人々の様子は段違いに垢抜けている。ただ、歩いていても、ロシア人のように親しげに話しかけてくる者は一人とていない。~略~この美酒、仲間、そして満点の星々。誰にも気をかねずに言いたいことを言い、したいことをする倖せよ。これぞ仏蘭西人の掲げる『自由』なるものなのだろうか。ただ、記者の言うルウヴル美術館には行ってみたかった。あのエルミタージョの本家本元のような美術館であるらしい。惜しいことをした。」帰国後は兄や母と再会し、また夫と石版印刷所を営む政子にも会い、りんは駿河台の教会に身を寄せることになったのでした。「我々は皆、お前さんが立派な聖像画家になってくれることを大いに期待しているよ。みごとな聖像を描くだけでなく、多くの人にその技術を教えてもらいたい。すなわち帰国後、ここに聖像画のアトリエをつくって男や女の弟子を集め、日本正教会のために充分な画を供する人になってもらいたいのだ。さすれば、この点において他国に援助を仰ぐ必要がなくなる。今は距離があるだけに、その援助を受けるだけでも並大抵ではないからね。」これはニコライ主教の願いでした。日本でもロシアで入手した聖像画の模写を始めたりんでしたが、描き方はロシアのそれではなく、ルネサンスの描き方になっていました。模写を続けていくうちにりんはロシアの生活を思い出し、自分に真の信仰心があったのかどうか自問自答を繰り返します。「己がわかって、おののいている。わたしには神を想う心がない。修道女たちはそれを感じ取ったのだ。見抜かれた。わたしにとって、聖像画は芸術の一分野に過ぎなかった。けれど彼女たちにはすべてであった。芸術と信仰。最大の行き違いはそこにあった。それがこうも、悲しいなんて。」今回はここまでにします。