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「洋楽受容と日本近代」のまとめ②
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「4 洋楽受容と日本近代」の後半部分をまとめます。「日本で最初に管弦楽による演奏会を行なったのは軍楽隊である。それは器楽を用いての洋楽を最も早く輸入したのが軍楽隊だったからである。~略~明治16年11月に東京日比谷に鹿鳴館が開館し、そこで西洋舞踏会が催されるようになり、陸海軍の軍楽隊が出張してその演奏を行なった。鹿鳴館での仕事は、にわかづくりの皮相な西洋かぶれだとはいえ、洋楽の受容に大きな刺激となったことは否定できない。」やがて日本にもソリストが登場してきます。「寺田延は、明治22年に文部省から海外留学を命じられ、ボストン、ヴィーンに滞在し、帰国後、ディートリヒの後任教授として音楽学校に迎えられた。演奏においても名声を馳せ、その後のわが国の洋楽の発展に大きな影響を与えている。」音楽家が自立する時代を迎え、同時に音楽による美学が現れてきます。「音楽家が宮廷などのお抱えの音楽師の身分から脱して、独立した『』としての自覚を持つようになったのはそれほど古い話ではない。『音楽美学』もまた、ロマン派の音楽が成立してくる近代という時期と歩調を合わせるようにして現れてくる。~略~カント以降のいわゆるドイツ観念論の哲学思想の流れで、初めて音楽を諸芸術の中でも最も根源的な芸術として位置づけたのがシェリングであり、さらに『すべての芸術は音楽の境地に憧れる』と語り、音楽を芸術の中の芸術であると評価するに至ったのが、他でもないケーベルがその研究に没頭したショウペンハウアーの『意志と表象としての世界』の芸術哲学であった。」私は嘗て「意志と表象としての世界」を読んでいましたが、音楽の位置づけに関する項目は頭から抜け落ちていたため、再読する必要を感じました。何しろこの書籍は広義にわたって思想が述べられているため、私には死生観が印象に残っているのでした。「日本近代における西洋音楽の受容の問題については、これまでさまざまな角度からの研究がなされてきているが、今回の試みはとくに芸術学の視点から、明治初期の伊澤修二によってわが国が近代国家としての対面を整えていく過程で、児童のための啓蒙教育の一環として始まった音楽教育が、いつどのようにして芸術としての音楽への自覚を深め、またこれを裏付ける音楽美学という理論研究が始まったのかという、その歩みを辿ろうとしたものである。」