2024.07.11
「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)の第7章「《反・書物》の行方」の気になった箇所をピックアップしていきます。本章が最終章になります。「シュルレアリスムが瀧口を育てたのは間違いなく、イマジネーションの豊富さや柔軟さからいっても、瀧口はシュルレアリストの一人に数えたいと思うが、瀧口が抽象やアンフォルメルの画家と引き合い、現代美術の先端に戦後も留まることを可能にしたのは、詩人としての瀧口の本来の資質や言語観も含めた詩的精神風土が、実際どこに向かって開かれていたのかということを深く考えさせるのではないだろうか。」最晩年の著作に関する文章もありました。「『余白に書く』を読み返してみると、死の2,3年前頃(つまりアントニ・タピエスとの仕事を終えた頃)から、瀧口の文章は抽象度が増して、より難解で観念的になってきている。身の回りの現実が少しずつ滑り落ちていき、瀧口は見たいものだけを見て、書きたい言葉だけを書くようになったのだ、という印象を受ける。」瀧口にとって書物とは何だったのか、最後に本章のテーマに触れています。「瀧口は『ノート』から分裂して生まれた『稲妻と徘徊抄』のほかに、『内』にも『外』にも存在しない『本』を現象として想定し、白紙の詩篇を実際に箱にしまうことで、実は目に見えないもう一冊の本を残していたとは考えられないだろうか。『絵も言葉もない本なんて何の役にもたたない』というアリス(不思議の国のアリス)の言葉のなかにある真実とは、この《反・書物》において、自分を飲み込もうとしている結末への反抗が示されているということなのではないだろうか。瀧口は《書物》への反抗を通じて、なおも『来るべきポエジィ』(『ジョアン・ミロ』1936年)を求めようとしていたのである。」今回はここまでにします。