2024.07.25
過日、ドイツの芸術家アンゼルム・キーファーの雛型作品による展覧会を見に行きました。キーファーは1945年生まれで、本作の監督ヴィム・ヴェンダースも同年の生まれ。つまり第二次大戦が終結し、ドイツ・ナチスの支配が終わった年でした。彼らは廃墟の中で育ったわけで、造形作品が廃物を集めてスケールの大きい世界を構築するのは、そんな環境とは無縁ではないはずです。ともかく工場のような広大な空間に置かれた作品は、灰と鉛で描かれた歴史の負の産物のように見えました。映画「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」を観て感じたことが、図録に掲載されたヴェンダース監督の言葉によく現れています。「私たちはまた、アンゼルムの幼少期の場面を再現し、彼の歴史を掘り下げていった。その過程の中で私たちは、過去と現在の境目を曖昧にした。芸術と向き合う時は、自分で自由を確立しなければならないため、私たちはその自由を利用した。そうしなければ、目の前で起こっている卓越の一部になることはできない。」日本でアンゼルム・キーファーを知る人は少ないと私は思っています。私も嘗て箱根にある彫刻の美術館のギャラリーで大規模なキーファーの展覧会をやっていたので、記憶に留めていたのに過ぎませんが、先日の東京での小規模な展覧会といい、今日の夕方に出かけた映画といい、それなりに鑑賞者がいたのには驚きました。キーファーの作品には思わず惹き込まれる要素があります。それは廃墟には未来が見える、何かが始まる場所なのだと言うキーファーの言葉があるからなのかもしれません。私も今は実家の大黒柱を自分の創作に使おうと喘いでいるところですが、キーファーの素材に対する解釈に何かヒントがもらえればいいと考えていました。私はキーファーと違って、戦後になって世相が落ち着いてから生まれたので、戦後間もない惨事は経験していませんが、それでも自身の振り返りをして、自分が今までどう感じて、この日本で生きてきたのかを問うてみたいと思います。創作活動は小手先ではないということを改めて感じさせてくれた映画でした。