Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「時間と運動の美学 」について➀
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅳ 時間と運動の美学 」は大きなテーマを扱っているため、分割してNOTE(ブログ)に掲載していきます。本単元が音楽、バレエ、演劇、映画というような時間で展開する表現を述べた後に、未来派が登場してきますが、私はデュシャンを論じた箇所に興味を持ちました。「造形芸術が運動を展開しつつある動きとして再現しようと欲するようになった。これは、彫像や絵に課せられた限界からいえば、逆説的で、矛盾しており、不可能のようにさえみえる。まるで、運動の暗示や運動の仄めかしでは物足りないかのように、(バロック派とその後継者やロマン派がそれで満足し、そこから力強いダイナミズムのすばらしい効力をひき出したのに対して)芸術家たちは、絵や彫像に、運動自身を象ろうと狙ったのである。われわれは、時代的に同じな立体派と未来派に、似たような傾向を見いだす。1910年から11年のフェルナン・レジェのある種の絵とか、とくにマルセル・デュシャンの非常に重要な注目すべき作品『階段を降りる裸体』(1912)、『急速な裸体にかこまれた王と女王』(1912)は、立体派に関するかぎり、そのもっともよい例だ。」次にバウハウスに関する論考に注目しました。「純粋な運動が、それ自体のために提示されることができたのは、抽象芸術によってだけであった。ここで、具象的なものだけが支配するように思われる分野ー映画とかバレエとかーにおいてさえも、抽象芸術の場所が与えられ、その固有な探究が追求されたことを考えてみるとおもしろい。抽象バレエに関しては、デッサウとワイマールのバウハウスでなされた仕事をあげることにしよう。バウハウスの仕事は、第一に、それにたずさわった人達のすぐれている点において(そこにはウァルター・グロピウスやライオネル・ファイニンガーに加えてクレー、カンディンスキー、モホリ・ナギーといった偉大な抽象作家たちがいる)、第二に、そこで展開された考え方の点において、現代のもっとも興味深い運動のひとつに数えることができる。実際的な目的の面ではバウハウスは、実用芸術の工房学校であり、厳格で秩序ある機能体であった。そして、芸術上の面では、純粋な、本能的な、むしろ抽象的な形態に帰ろうとする意志を持っていた。」今回はここまでにします。