2024.09.27
今日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「気力は眼に出る。生活は顔に出る。教養は声に出る。土門拳」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「さらに秘められた感情は口のまわりに、年齢や悲しみは後ろ姿に出ると、写真家は言う。なるほど伏せておきたいものにかぎって自分には見えないまま他人の眼に晒されている。なんと無防備なこと。ただ『本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする』と、写真家は私どもを慰めもしてくれる。『風貌』から。」いろいろな情景を切り取って写真に定着する写真家は、人が気づかないところをよく注視しているものだと私は思います。私が懇意にしている写真家も私の彫刻に対して、同じような視点を持っているのでしょう。これが彫刻ならば、自分と距離を置いて見られるのですが、いざ、自分自身となると話は変わってきます。自分が普段からどのくらい前向きに物事を考えているか(気力は眼に出る)。自分が今までどう生きてきたか(生活は顔に出る)。自分の度量にはどのくらいの幅があるのか(教養は声に出る)。これは人事評価に使えるなと私が疚しいことを考えてしまうのは、3年前まで勤めていた校長職の後遺症かもしれません。評価はともかく、人はそんなところを見ているのだということを肝に銘じておかなくてはなりません。さて、伏せておきたいものに後ろ姿の悲哀がでてしまうことがあるそうですが、こればかりは自分では何とも出来ません。加齢に伴い、その人の背中を見て、何か思うことがあるのは、亡き両親を見ていた私には痛々しさを感じざるを得なかったのです。後ろ姿は無防備、確かにそう言えることです。それをそのまま魅力と捉えるか、それとも後ろ姿にも美学を見いだしていくか、因みに後ろ姿が歳をとっても美しいのは剣道の有段者に多いと私は感じています。役者もそうかな。私は無防備だらけなので、今更どうにも出来ません。