2024.10.24
昨日、東京上野の東京都美術館で開催している「田中一村展」に行ってきました。副題を「奄美の光 魂の絵画」とあって、奄美大島の自然を日本画の常識を覆す構図で描いた代表作品は勿論のこと、奄美大島に辿り着くまでの画業の変遷がよく理解できる展示内容で、私としては大変満足を覚えました。若い頃は千葉県で苦行していた時代もあり、図録にはこんな文章がありました。「昭和13年(1938)5月、29歳の時、母方の親戚である川村幾三氏を頼って千葉市千葉寺町に家を建て、姉と妹、祖母とともに移った。以後戦時をはさんで約20年間、畑で野菜を育て、鳥を多数飼い、内職もこなしながらも、周囲との繋がりや支えを得て、南画家と自認し絵で生きる暮らしが貫かれた。~略~一村のスケッチは、日本画家たちのシンプルで美しく巧みな、人に見せられる写生画、といったものの対極にある。多くが断片となって伝わり、スケッチブック12冊以外に160枚近いそれらを、再度整理して紹介する方法を考えることは、今回も課題として残された。」この時代の作品は骨太の画風が目立っているように私には感じられました。そして奄美大島に移ってから画風が変化してきます。「当時の”新しい日本画”で特に風景画といえば横位置で考えられ、『額面』で4:3の比率の長方形の画面が大勢を占めていた。しかし自らの絵に集中しようとしたとき、それをおいて選択したのは、やはり伝統的な縦長構図だった。奄美前期のことに細長い画面は、若き日の画に立ち返ったようだし、一連の大作は、スケッチブック2枚分。生涯描いた正方形の色紙ならば3枚分、といった比率で考えていける。ちょうど前景・中景・後景を組み合わせるように。~略~重層するモチーフは画面上では一切重ねず塗り分けられ、手前からの微光でモチーフが浮かび上がると同時に、後光がさしているように見せる。金色を輪郭に意識的に用いるなどして光の方向や効果を齎す。モチーフに肉薄し、描いた各部分を取り出しては整え合成し、さらに作品の画面全体を構成していく。こうして一株あるいは一群の植物に各態を描き一図に複数の季節や時間、場所を混在させる。」(引用は全て松尾和子著)田中一村の絵は見てすぐに判る独創性があり、そのデザイン性も優れていると私は感じています。とりわけ奄美大島で制作された作品は、人に迎合したものではなく、作家が真に追求したかった世界がそこにあると思いました。