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赤坂の「英一蝶」展
英一蝶(はなぶさいっちょう)という日本画家を私はよく知らず、テレビ番組でその人物像や画風を知りました。東京赤坂のサントリー美術館で開催されている「英一蝶」展に行こうかどうしようか迷っていたら、閉幕近くになってしまい、慌てて同展に出かけていった次第です。英一蝶は主に元禄年間に活躍した絵師でした。出目は狩野派で、筆さばきが巧みだったことが作品を見て理解できました。街の風俗を得意としていたようで、私は「雨宿り図」が愉快で、作品の前に長く立ち止まっていました。人物像は単に絵師ではなく、幇間(ほうかん)もやっていたようで、これは所謂太鼓持ちの芸人です。図録によるとこんなエピソードが語られていました。「もうひとつの一蝶の顔が幇間(太鼓持ち)である。40代の初め頃は名代の幇間として大仏師民部、医者の息子村田半兵衛とともに、貴顕の家に出入りし、諸侯浪費を促すものとして、幕閣上層部からにらまれるまでになっていた。そして、将軍綱吉の生母桂昌院の甥、本庄資俊に取り入り、茗荷屋の遊女大蔵を900両で身請けさせ、100両を祝儀としてばらまかせるに及び、当時流行の生類憐みの令を風刺した浮説『馬の物言う』の流言にかかわったとして逮捕された。~略~また、桂昌院の縁につながる六角広治に菱屋の小わたを身請けさせるに及び、元禄11年(1698)再び入牢となり、一蝶は三宅島へ、民部、半兵衛は八丈島へ流罪となった。」(安村敏信著)その後、将軍代替の大赦によって、一蝶は江戸に戻ってきますが、島では絵師として代表作を描いていて、また江戸に戻った58歳から73歳で没するまで旺盛な制作を開始して、画名が広がったようです。浮世を写した巧みな作品の数々とその生命力の逞しさに私は驚きますが、犯罪者としてのエピソードは、その犯罪の状況こそ違えど、西洋宗教画家カラヴァッジョの生涯が私の脳裏を過りました。画才は人間性を問わず、その人に備わっているもので、後世に作品を残さなければ、単なる犯罪者で終わるところを、美の女神は人を選ばず、その人に使命を与えるものなんだなぁと改めて思った次第です。