2024.11.15
昨日、「ミュシャ展」を見に府中市美術館を訪れた折に、久しぶりに見ておこうと思った野外彫刻がありました。1点は保田春彦「球を囲う幕舎」のステンレスによる巨大な作品で、もう1点は若林奮「地下のデイジー」。これは鉄による独特な表現をしている作品です。私が大学で彫刻を学んでいた時代に、保田先生と若林先生が共通彫塑の教壇に立っておられました。府中市美術館所蔵2点のうち若林先生の「地下のデイジー」に私は惹かれていて、その設置の発想に衝撃を受けたことを思い出すのです。美術館が用意した同作品に関わるパンフレットによると「若林はしばしば作品の一部を意図的に隠そうとしました。作品の中に別の作品を収納してしまったことや、《地下のデイジー》のように、地中に埋めてしまったこともありました。《3.25mのクロバエの羽》(1969年)は、大阪の万博公園に、幅約8メートル、奥行き約5メートルの屋根だけ見せて、1メートルほどの天井高のある鉄製の箱を地中に埋めてしまった作品です。こうすることで若林は、残されたもの、見えているものの一方に、失われたもの、あるいは私たちには見えていないものがある、ということを示そうとしたのです。」これは世の中に存在する物体は全て、その一部しか視界に入ってこないため、物体の裏の部分は想像で補っていると私は解釈しています。つまり立体の見えない部分は、仮想して背面はこうなっていると脳が認識しているに過ぎないと考えているからです。私が現象学や存在論を学び始めた契機がここにあります。私の作る「発掘シリーズ」も作品の一部を床上に配置したりしています。これも埋もれた部分を敢えて鑑賞者に想像してもらおうと考えているのです。私は若林先生のように実際に制作して、それを地中に埋めることはありませんが、物体(作品)は一部分しか見えておらず、全体像は想像の産物として認識しているという考え方に賛同しています。私は「地下のデイジー」を見て、久しぶりにその考え方が頭を巡りましたが、作品プレートがない野外彫刻を鑑賞者がどう見ているのか、ましてや作品のほとんどを地中に埋めてしまっている作品なら、少し出っ張ったマンホールくらいにしか見えないのではないかと思いました。