Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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週末 土の存在感を思う
日曜日になりました。日曜日は創作活動について述べていきます。私が40年以上も扱っている素材は土で、土から離れて木彫や石彫をやっていた時期はありません。一時的に木彫をやっていたことがありましたが、再び土に戻っています。大学に入る前に小・中・高の授業で触っていた土と、彫刻と言う専門の勉強の中で扱う土はまるで違っていました。まず大学では回転台の上に心棒のついた土台をのせて、針金や棕櫚縄、小割などで人体塑造の心棒を作ります。そこに粘土を貼り付けていきますが、可塑性のある粘土は空間にデッサンをするには優れた素材です。最初に塑造を体験した時は、粘土を愛おしむような扱いはなく、ひとつの素材として人体を正確に把握するための道具でした。私の中で粘土に対して気持ちが変わってきたのは、塑造された人体を石膏で雌型を取り、そこに別の石膏を流し込んで、保存のきく石膏像に換えた時でした。大学では暫くこの方法で作品を保存していましたが、粘土は粘土、石膏は石膏と別の表現になってしまうことに嫌気がさしていました。それが樹脂になってもブロンズになっても同じではないかと思っていました。粘土を固めて保存することはできないか、これが粘土を陶土に換えた理由です。塑造した作品は乾燥させて、窯に入れる、そこから自分独自の表現を求めた旅が始まったのでした。器などを轆轤でひく陶芸と違って、陶彫は焼成との闘いでした。焼成があるからこそ制作工程が存在し、タタラと紐作りの併用を思いつき、内側をがらんどうにするからこそ、つぶれないように重力のことを考える、つまり常日頃から放置できない状況になっているのです。それでも窯から出た時の陶彫の存在感は、私にとって格別です。陶土は焼成によって石化するので、その変貌が嬉しくて今まで付き合ってきていると言っても過言ではありません。