2024.12.13
今日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「さあ、身近なものより出来るだけ手に余るもの、自分より大きく捉えきれないものの前に立ちましょう。李禹煥」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「手を道具としか思わない画家の絵はつまらないと、韓国出身の美術家は言う。事物は眼前に見える部分だけではなく、『それにまつわる見えない部分を含んで』在る。描くという行為は事物のその見えない部分を見る訓練としてあり、画家は手で人の内と外とを行き来しながらより確かなリアリティを探しているのだと。『余白の芸術』から。」絵画や彫刻が写実的な説明要素のある作品から象徴性や抽象性を獲得した作品に変貌した時から、眼に見える範囲を超えた空間をそこに現前させ、自分より大きく捉えきれないものを提示してきました。作られたモノは単なる装置に過ぎず、そこから鑑賞者は何かを感じ取っていくのです。これは日本古来の書に似ています。書かれた墨の部分より、余白として残された部分に、書家が本来主張したいものが在ると解釈すると、余白は空虚なものではなくなり、それを残さざるをえなかった意味が見えてきます。現代の芸術作品は、どれもそうした見えない部分を表現しているといっても過言ではありません。私の作品も陶彫で作られたモノをひとつの断片として、さらに大きな世界を見取っていただきたいと考えています。私はテーマに「発掘」という言葉を掲げています。嘗て栄えた都市が地中深く眠り、それが徐々にカタチを現わしていくことで、捉えきれないものがそこにあることを示唆しています。それは人の世の移ろいであったり、文化の隆盛であったりした幾星霜の蓄積を、自分の中で再確認していく作業にも似ています。素材を焼き物にしているのも、出土品が時間に耐えてきた様相を表現できるからで、自然にあった土を使い、何か創作してきた痕跡が残ってきたことを、自分なりの造形言語で語ってみたいと思っているのです。「大きく捉えきれないもの」を考えることは全ての現代芸術に言えるのではないしょうか。