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「密教と顕教」について
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」に入ります。その中の最初の単元「密教と顕教」について気になった箇所をピックアップします。密教と顕教は空海によって二項対立としていました。顕教とは、真言宗と天台宗の一部「天台密教」を除く多宗派全てのことを指しています。ということは私が先祖から拝んでいる浄土教は顕教になるわけです。「密教と顕教という二項対立に使われるときに限っては、顕教の顕は『表面的な』とか『皮相な』という意味として使われている。さらに説明を加えれば、誰の目にも『あきらかな』ゆえに、『表面的な』とか『皮相な』という意味になる。現代の社会であれば、誰の目にも『あきらかな』ことはとても良いことなのだが、こと伝統的な宗教の世界では、誰の目にも『あきらかな』ことは『表面的』で『皮相な』ことになってしまう。その根底には、真理がそう簡単に誰の目にもあきらかになるはずがないという発想が横たわっている。」さらに空海は「弁顕密二教論」の中で次のように述べています。「まず、顕教は、ホトケが相手の素質に応じて説いた教えである。いいかえると、素質に乏しい者でも理解できるように、簡略化してある。対して、密教は、ホトケが自分と同じ素質をもつ者を対象に説いた教えである。つまり、真理そのものにほかならない。~略~また、密教と顕教では、悟りに至る具体的な方法にも大きな差がある、と密教は主張した。というより、密教にいわせれば、顕教には悟りに至る具体的な方法がないに等しい。空海はこう語る。『顕教の浅い教えは、《太素》とか《本草》などの医薬書を引用して、この病気にはこの薬が効くというふうに、薬の効能をいい立てるだけのようなものである。密教の秘法は、処方箋によって薬を調合し、実際に病を治すようなものである。』(『性霊集補闕鈔』巻第九「宮中真言院の正月の御修法の奏状」)ようするに、顕教は理屈だけだが、密教はすこぶる実践的という主張である。」今回はここまでにします。