2025.01.22
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」の中の単元「雑密・純密・左道密教」について気になった箇所をピックアップします。「雑密とは『雑部の密教』の略語である。~略~彼(空海)がもちいた表現は『両部』である。すなわち、『大日経』系統の経典にもとづく胎蔵部、および『金剛頂経』と『理趣経』系統の経典にもとづく金剛頂部を、まとめて両部とし、それ以外を雑部とするという具合に、ジャンル分けしている。」さらに両部のことを純密とも称しています。「純密の場合は、法身が法身そのものの状態で、説いた教えなのである。法身そのものを、密教の用語では自性法身という。自性というのは、独自の性質もしくは本性を意味する。この自性法身には、理智の別がある。理法身は胎蔵大日如来、智法身は金剛界大日如来である。~略~雑密の場合は、法身が法身そのものではなく、特殊な瞑想状態に入って、三種類のホトケに変身し、その状態で説いた教えということになっている。三種類のホトケというのは、受用身、変化身、等流身を指す。~略~空海の『両部の密教』と『雑部の密教』という二項対立は、密教の機能を基準にしていた。そこには、経典の成立年代という基準はなかった。ところが、明治以降になって近代的な仏教学が導入されたために、経典の成立年代という新たな要素が加わった。その結果、前期密教に雑密、中期密教に純密という分け方がされるようになる。」ここで本書は左道密教について触れています。「左道と右道の場合は、左道が負で、右道が正になる。つまり、左道とは、邪な道である。ということは、左道密教は邪な密教ということになる。蔑称といっていい。では、正しい密教、すなわち右道密教とは何かといわれれば、それは純密に該当する。すでに指摘したとおり、純密という言葉もしくは考え方は、一つは『未熟な密教』にほかならない雑密に対し、もう一つは『邪な密教』にほかならない左道密教に対して、日本の密教界がみずからの優位性や正統性を強調するためにもちいてきた。」本単元では密教の構造部分に触れた箇所で、見慣れない語彙もありました。今回はここまでにします。