2025.03.16
日曜日はいつも創作活動に関することを書いています。今回は陶彫による新作のことではなく、視点を変えてみます。先日、池袋の大手書店の芸術書のフロアをブラブラ歩いている時に、昔は頻繁にこんなことをやっていたなぁと懐かしさが湧いてきました。大学で彫刻を学んでいた頃は、それは人体塑造という習作であって、創作的なものをあまり感じなかった自分が、卒業間近になって創造的立体とは何だろうと思うようになりました。人体塑造に喜びを見い出せなかった自分は何をしたらいいのだろうと考えていました。その頃、どこかで読んだ書籍か、あるいは誰かの言葉か忘れてしまったのですが、立体造形とは空間を創りだす哲学だという言葉が頭に残っていました。素材に向き合う実技とそれを裏づける理論。だから自分探しを書籍に求めているのだというのが、その時私が到達した自論でした。読書は小学生の頃に何か読んだとは思いますが、実家は祖父が大工、父が造園業で、何代も続く職人家庭だったので書籍らしいものが全くない家なのでした。都会から嫁にきた母が、私が中学生になった時に百科事典全巻を買ってくれました。これが私のツボに嵌り、何度も事典を眺めたり、読んだりしていました。中学生で仲良くなった友人の影響で海外の翻訳推理小説を競って読むようになり、そこから背伸びするような読書癖が始まり、小遣いを貯めて宮沢賢治全集も買って読みました。最初は知識への飢えだったのかもしれず、そのうち高校生になり、現代詩に興味を持ち、さらに芸術の専門書へと進んでいったように思います。私の書棚は小説より評論の方が圧倒的に多く、実家から現在の自宅に引越しした際に、処分してしまった書籍もあります。現在は夜の時間帯に書籍を開きます。私は紙の手触りが好きで、ざっと読んだ後にもう一度振り返って読み直したりしています。昔読んだことのある埃を被った書籍に手を出す時もありますが、昔の記憶とは異なる印象や理解がある時は、ちょっぴり嬉しくなります。私の買った全集は全巻揃っていないものが多く、古本価値としては無いに等しいのですが、私にとっては重要な書籍なのです。