2025.03.17
「名画を見る眼 Ⅰ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はデューラーの「メレンコリア・Ⅰ」とベラスケスの「宮廷の侍女たち」を取り上げています。まずデューラーの銅版画から。「この版画は、つねに『メレンコリア・Ⅰ』という名前で呼ばれてきた。『メレンコリア』というのは、ラテン語の『メランコリア』と同じで、英語で言えば『メランコリー』、すなわち『憂鬱』ということである。だがそれでは、この一見雑多な画面の何が『憂鬱』なのだろうか。~略~このメランコリアの周囲に配された種々雑多なものが、いずれも学問や技芸の象徴であることに気づく。鋸や鉋その他の大工道具は、言うまでもなくものを『作る』ためのものであり、コンパスや、天秤や、時計は、ものを『測る』道具である。魔方陣の数字は数学の遊びであるし、球や多面体は幾何学であつかう対象である。つまりここでは、憂鬱質をあらわすこの女性像は、芸術家、ないしは知的活動に従事する者として登場してきているのである。もちろん、そうは言っても、社交的で活発な多血質と正反対の性格である憂鬱質の人間に、世俗的な成功は望めない。むしろ、現世の富や世間的な幸福には無縁で、人びとには認められず、ただ独り自己の創造の道を歩むというのが創造的芸術家の運命である。」次にベラスケス。「同じ写実主義と言っても、ひとつひとつの対象を綿密に、精妙に描写するファン・アイクの世界とは違う。15世紀のフランドルの画家たちは、たとえ遠くにあるものでも、自分たちが手に取って観察したように正確に再現しなければ気がすまなかった。しかしベラスケスは、すぐ眼の前のものでも、あくまで人間の眼にそう見えたように描き出そうとする。ファン・アイクの世界が実在するものの世界だとすれば、ベラスケスの世界は人間の眼に写った仮象の世界だと言ってもよい。~略~その絶妙な感覚というのは、正確な計算の結果というよりもむしろベラスケスの天性のものであったろう。生まれながらにして絶対音感を持っている人がいるように、生まれながら正確な色調の感覚に恵まれている人というのがいる。ベラスケスは、たしかにそのような天才のひとりであった。」今回はここまでにします。