2025.04.29
「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第2章 ロマン派の風景画」について気になったところをピックアップしていきます。初めにロマン派について。「自然に対するこの『新しい感受性』が、いったいどこから生まれてきたのか、それを簡単に断定することは容易ではない。それはロマン派の『現実逃避』のひとつの現われにはちがいないが、しかし、現実に対する不満がそのまま新しい感受性を生み出すわけではない。むしろロマン派の場合、自然に対する新しい感受性が逆に現実を逃れようとする傾向を助長したとも言える。~略~いずれにしても、ロマン派において明確なものとなるこの新しい自然感情は、中世の伝説の騎士たちのように、薄暗いドイツの森の奥や、霧に包まれたイギリスの湖畔からやって来た。古代以来のヒューマニズムの伝統を受け継ぎ、デカルトの合理主義に養われていたフランスよりも、異教の英雄たちがなお生き続けているようなゲルマンやアングロサクソンの土地が、神秘的な自然感情に満たされたロマン主義の発祥地となったことは、自然の成り行きであったと言ってよいであろう。」ここで3人の画家が登場します。まず、ターナー。「ターナーの風景画においては、主役はもはや山や湖ではなく、嵐、吹雪、風雨、雪崩、波浪、洪水など、自然の威力そのものである。ほんのわずかの色調の変化で驚くべき多様な効果を生み出すことのできる稀有の色彩画家であったターナーが、自己の色彩表現の総決算として描いた最晩年の《光と色》《影と闇》といういわば彼の美学宣言のような作品においてすら、彼は人類の破滅をもたらしたあの『ノアの洪水』のイメージを思い浮かべずにはいられなかったのである。」次にコンスタブル。「ターナーとはまた違った意味で、自然の鋭い観察者であった彼にとっては、毎日のように見なれている自然も、つねに新鮮な輝きと無限の変化に満ちているものであった。『この広大な世界に、同じ日は二度となく、同じ時間も二度とない。そして天地創造以来、一本の樹に同じ二枚の葉はない』と断言する彼は、同じ風景を何回となく描き出しながら、そのたびにそこに新しい魅力を見出していた。」最後にフリードリヒ。「フリードリヒは、われわれ見る者を、彼自身の感じとった自然の神秘へ参加させようとする。彼の作品の登場人物が、海辺の岩の上で月の出を眺める人々も、巨木の生いしげった山中で遠く蒼白い月を見つめる男女も、あるいは朝日に向かう婦人や、窓辺から港を眺める少女にいたるまで、いずれもつねに画面では後姿だけを見せていて、決してわれわれの方を向こうとしないということは、はなはだ暗示的である。彼らはわれわれに向かって語りかけるのでもなく、われわれに自然を提示するのでもなく、ただわれわれをともに誘って自然の広大な世界に引き入れてしまうのである。」今回はここまでにします。