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「印象主義の超克」について
「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第8章 印象主義の超克」について気になったところをピックアップしていきます。「印象派の画面は、多彩な虹の七色の交錯する万華鏡の世界になってしまった。そこには、合理的な空間構成の意識もなければ、形態把握の意志もない。あるのはただ、ほんのわずかの色調の差異にも鋭敏に反応する繊細な感覚世界だけである。われわれが、モネの晩年の作品を前にして、ほとんど目まいにも似た陶酔を覚えるのも、そのためであろう。~略~ルノワールとセザンヌとは、気質から言っても、画風から言っても、正反対と言ってもよいほど大きく違っている。陽気で、開けっぴろげで、社交好きなルノワールは、生涯を通じて若い女性の健康な肉体を愛し、そこに見られる生命の輝きを歌い続けた。ルノワールの作品においては、静物や風景でさえ、明るい、熱っぽい生命の賛歌を歌っている。それに対し、人一倍人間嫌いで、社交下手のセザンヌは、アカデミー・シュイスに通っていたころを別にすれば、裸体のモデルを直視することができないほど内気な、内向的な性格であった。~略~しかしながら、印象派との関係という歴史的観点から見るなら、ふたりのあいだには、意外に多くの共通点が指摘される。ふたりは、いずれもモネやシスレーとまったく同世代であり、画学生としての修業時代には、新古典主義の支配する官学派に反撥して、ドラクロワの激しい色彩表現やクールベのねっとりした力強さを好んだ。」ここで2人の画家について、それぞれの記述がありました。まず、ルノワール。「ルノワールにとっては、自然そのものも、決してただ眼で眺めるだけのものではなく、いわば肌で感じとるなまなましい実体であった。一本一本の草花にも、温かい生命が流れており、大地はしっかりと手応えのある存在として、われわれに迫ってくる。」次にセザンヌ。「同じように印象派の洗礼を受け、同じように古典的世界への復帰を手がかりとして印象派を『超克』しながら、その後セザンヌのたどった道は、ルノワールの場合とは大きく違っていた。セザンヌは、色彩の眩惑のなかに失われてしまった世界を、ルノワールのように全身の感覚で受けとめてひとつの豊潤な世界にまとめ上げるかわりに、世界を見つめる自己の認識の根源にまでさかのぼって、認識行為そのものをカンヴァスの上に定着しようとした。~略~『見る』ことをその根源において捉え直し、それによって新しい造形世界を実現したセザンヌは、まさにそのゆえに20世紀美術の父と呼ばれるにふさわしい歴史的位置を占めているのである。」今回はここまでにします。