2025.06.06
昨日、東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見て、造形とそこに内包される文学性について考えてみます。図録から引用します。「ルドンの描く生き物には、まったく想像上のものとしか思えないものが出てくる。これには、ボルドーの植物学者アルマン・クラヴォー(1828ー90)の影響が大きい。ルドンは、20歳の頃かれと知り合い、かれに教えられた顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。若きルドンにボードレールなどの文学に触れる機会を提供したのもかれであり、ルドンの版画集『夢想』(1891年)はこのクラヴォーに捧げたものであった。この時顕微鏡の世界で知った日常的には見慣れないミクロの世界、そこで実際に生きる生き物が、ルドンのもう一つの発想源であったという。」(古谷可由著)ルドンの絵画には詩人の言葉や作家の物語からイメージされているものも多く、タイトルにそれが表れています。私の彫刻の師匠である池田宗弘先生も、時代の風刺を発想源にしていて、ドーミエのような文学表現が見られます。しかしながら、私は高校時代には現代詩に興味があったにもかかわらず、それが造形に及ばず、創作を始めた時から文学性や宗教性を排除しています。それでも私は造形の根幹には詩的発想があることは承知していて、詩に対する関心は人一倍強いのですが、私の造形は造形以外の何ものでもなく、そこに素材があるという存在感だけで成り立っています。私は自分自身のホームページの作品画像の最後にコトバを添えていますが、それは作品の根本理念を伝えるものではありません。作品に関して私は、作品タイトルにも反映していますが、具体性と簡潔性を持って称していて、そこに内在する何事もなく、陶は陶であり、木は木であるというモノ派のような考え方をしています。それは説明的要素を省く思考があるのも確かです。ただ、私は造形に内包される文学性や宗教性を鑑賞作品として味わうのは大好きで、自分の造形とは真逆にあるものを認め、大切にしています。「オディロン・ルドン展」を見て、そんなことも頭を過りました。