2025.06.09
「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第17章 ピカソとキュビスム」について気になったところをピックアップしていきます。「14歳の時、一家とともにバルセローナに移ったピカソは、ただちに父の勤める美術学校に入学した。その入学試験の時も、普通には1か月の猶予を与えられる課題作品をたった一日で仕上げ、しかも先輩の誰よりも優れた成績で人々を驚かせたという。後にピカソが、『自分は子供のころはラファエㇽロのように描いていたものだ』と述懐したというのも、まんざら誇張ではなかったわけである。」さらに《アヴィニョンの娘たち》を描いたピカソについて書かれた箇所を引用します。「5人の裸の『娘たち』をほぼ正方形の画面にまとめ上げたこの大作は、当時何よりも新しい表現を求めていた前衛的な仲間の画家たちをもびっくりさせるほど型破りなものであった。画商のカーンウェイレルの仲介でちょうどこの大作を制作中のピカソと知り合ったブラックですら、最初のうちはピカソの意図を理解できなかったほどである。もちろん、その後の歴史の展開を知っている今日の眼から見れば、この『娘たち』もある意味ではほとんど古典的とさえ言ってよいような落ち着いた表現を持ったものと見えるかもしれない。また、ピカソをここまで導いた道筋についても、当時ルーヴル美術館で公開されていた古代イベリア彫刻の影響とか、ピカソ自身は後に否定しているが、アフリカの黒人彫刻からの暗示などを指摘することによって、ある程度まで説明することが可能であるにちがいない。」次なる注目作は《ゲルニカ》です。「第二次大戦後、ピカソは共産党に入党して話題を呼んだほど政治や社会の問題に関心をいだいており、直接政治的活動はしなかったにせよ、彼の画面は、しばしば強い政治的主張や社会的告発を含んでいるが、30年代は、そのような社会的関心が最もあらわに表現された時代でもあった。そして、その頂点を形成するのが、言うまでもなく、1937年のパリ万国博覧会に出品された《ゲルニカ》である。ほとんどモノクロームに近いほど抑制された色調によって、ナチス空軍による無差別爆撃の暴挙を受けたゲルニカの町の悲鳴を思いきり激越なイメージによって描き出したこの大作は、その強烈な表現力と恐ろしいまでの迫力のゆえに、20世紀の美術の歴史において、最も忘れがたい傑作のひとつとなったのである。」今回はここまでにします。