2025.10.08
今日の朝日新聞「天声人語」の内容に眼が留まりました。全文を掲載します。「芥川龍之介が、小学2年生か3年生のときだった。かわいいと思うもの、美しいと思うものを書きなさい、という課題が出た。自伝的短編『追憶』によれば、芥川少年の答えは『象』と『雲』。先生は『雲などはどこが美しい?』と言い、✕印をつけたという。ずいぶん乱暴な先生もいたものだ。雲は美しい。特に、この季節、秋の雲は格別だ。春のかすんだ雲とも違い、夏の巨大な入道雲とも異なる。高い空に刷毛でさっとはいたような切れ切れの白い雲は、何とも爽やかである。秋の天気はうつろいやすく、雨や曇りも多いが、それもまたいい。秋陰との言葉もある。陰った空から降る雨は静かで、しっとりとしている。〈蘆も鳴らぬ潟一面の秋ぐもり〉室生犀星。暦を見れば、きょうはもう二十四節気の寒露である。辞書には、露が冷気にあたり、凍りそうな秋の深まりとある。ついこの間までは酷暑の夏だったのに、曼殊沙華も慌ただしく咲き散り、駆け足の秋に気づく。辞書の同じページには、寒露と同音の甘露もあった。甘い味の液体で、中国古来の伝説では、為政者が善政をしくとき、天から降ると言われる。はて、次の雨の日には空を見上げ、舌でも出してみようか。『人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ』とも芥川は書く。『雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔、ーあらゆるの日常の瑣事のうちに無上の甘露味を感じなければならぬ』。とるにたらない些細にこそ、美しいものはある。」秋の風情を描いた美麗な文章の中で、私が気になったのは教師がつけた✕印です。芥川の自伝的短編にたまたま掲載されたから、これが発覚したけれど、多くの児童は雲の美しさに否定的な見解を持つこともあるだろうと察します。何と感受性の希薄な教師がいたことかと嘆きつつ、止まれ、現在でもこんな感覚をもつ指導者がいるのだろうか、と疑いたくなる昨今の教育事情もあります。自分が教壇に居た時、己の感覚を生徒に押しつけていいものかどうか、とりわけ美術科授業の中では迷うことが多々ありました。生徒の美しいと感じる心に共感できるかどうか、眼の前に評価がちらつく焦燥感も同時にありました。