2025.10.10
現在読んでいる「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)は、廃墟に関して建築史や土木史を振り返って考古学的な論考を行なうものではなく、現在残存している廃墟に関する状況を見て、それを文学的、あるいは絵画的な情緒で綴っていて、時に著者の感覚的な捉えを理解しなければならないと私は思っています。まだ本書を半分しか読んでいないのですが、これは所謂学術書の類ではないと私は判断しています。昨日、NOTE(ブログ)にアップした「傘も差さずにエフェソスで」という章では、私も20代最後に行ったことがあるトルコのエフェソスでの散策を思い出しましたが、著者はそのエフェソスの考古学的価値を確かめることはなく、眼に映る風景の一場面として扱っていました。そこから派生したさまざまな廃墟に関する著者なりの考察が続いていましたが、古代ローマを廃墟論の中心に据えることが多く、暴君が建造した強固な浴場も、そのうち石と石の間に植物が入り込んで、次第に石造のカタチを保てなくなるというものでした。人間が作るものには限界があり、時間が経てば自然の中に取り込まれてしまうのを、やはり自然が勝利する一歩手前で、人工物と自然物が鬩ぎ合う境界が廃墟なのだろうと、私は著者の文章から感じ取りました。廃墟が齎すものは、詩的内面を求めるとすれば、それは文学であり、芸術なのですが、最近では外見として恰好な観光資源にもなっています。廃墟が美しいと感じる心はどこからくるものでしょうか。完璧なカタチであったものが、幾星霜を経て所々欠損してしまい、それをそのまま愛でる心が人間のどこかにあるのでしょうか。私は日本人で亡父が造園をやっていたので、ヨーロッパで見た整備された幾何学的な庭園に、自然を支配する権威的な力を感じても、美しいと感じることはできませんでした。自然を再現する日本庭園の方が私には合っていたのでした。それは人工物と自然物が鬩ぎ合うものではなく、自然に包まれていくことを見通した美の在処でした。そんなことも考えつつ「廃墟論」を読んでいますが、著者がいかにもイギリス人だなぁと思うところもあります。