Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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模範とすべきはかなさ
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の5つ目の章は「模範とすべきはかなさ」という題がついています。「キリスト教では個人の死が、最後の審判の日に万人が復活するためには、ぜひとも必要なプレリュード(前奏曲)とされていた。廃墟はこのプロセスの完全なメタファー(隠喩)だった。つまり廃墟は皮膚の下のしゃれこうべだという。建造物が壮大であればあるほど、その骸骨はいっそう効果的に人間の誇りの虚しさを提示する。ローマの廃墟は巨大な規模で示された警告=メメント・モリ(〔なんじは死を覚悟せよ〕)なのである。1462年に教皇ピウス二世が、古代のモニュメントを破壊から保護する法令をはじめて導入したとき、彼がそれを発令した理由のひとつは、『模範とすべきはかなさ』を示す記念物の光景をなんとかして保存したいと思ったからだった。~略~衰亡や崩壊はすべての人間の身にかならず起こることだった。これは別の言葉でいえば、最後の審判のラッパが『時』の終わりを告げるとき、人間の作った建造物はことごとく崩壊するということである。農夫の草ぶきの小屋から皇帝の光輝くドームまで、崩壊を逃れる術はない。『裁きの日』の恐ろしい光景は、崩れ落ちた円柱やオベリスクなどによって視覚化されている。」カタチあるものはすべて壊れるという諺通り、はかなく砕け散った物質を見るにつけ、芸術性豊かな建築が崩れ落ちた光景を見ると、同じ領域に入る彫刻も、同じ運命にあると私は思っています。その廃墟を鑑賞の対象とした詩人は、人間の感性の広がりを認めたことで、本書が成り立つ要因になっていると私は考えます。「いち早く新しい『虚しさ』の材料を見つけ出したのは詩人だった。その材料とは800に及ぶ中世の修道院の廃墟である。それはヘンリー八世によって差し押えられ、掠奪され、売却されたものだった。寒々として寂しげな石の骸骨が、あたかも恐竜の骨のように田舎や町のあちらこちらに散在していた。そこを通り過ぎる人たちにとって、廃墟はあまりに生々しく、むき出しで、痛々しいまでに自らを語っているように見えた。それは現代でいえば、空爆によって崩れた建物の残骸を見るようなものだ。したがって、廃墟を最初に称賛した人々は、廃墟が目に訴えかけてくるより、むしろ魂に訴えかけてくるのを感じた。」今回はここまでにします。