Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「教えの本質と象徴化」について
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の最初のパート「教えの本質と象徴化」は3つの章から成り立っています。まず「第1章 十字架と法輪」次に「第2章 空と偶像禁止」さらに「第3章 三位一体と三神一体」があり、第1章では信者数の多いキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教のシンボルマークを扱っていました。第2章から次の内容を引用いたします。「人類が発達させた言語なるものは、目の前に存在しないものについても語ることができる。おそらくこれが人類が霊や神々の神話をもつことになった根本的な理由だろう。数十万年も続いた原初の狩猟採集生活は、動物などに範をとった精霊の図像を生み出した。一万年ほど前からの農耕生活がもたらした階級社会や帝王のイメージもまた、天界の王族のような神々や天人の図像を生み出した。~略~イスラエルの民は、さらに、自分たちの神ヤハウェを民族性を超越した普遍の神、唯一絶対神と解釈するようになった(紀元前6世紀ごろ)。かくして生まれた一神教から、1世紀にキリスト教が、7世紀にイスラム教が派生した。いずれも偶像禁止の建前を受け継いだ。~略~キリスト教徒にとってキリストが『神の子』であるように、イスラム教徒にとってコーランは『神の言葉』である。」一方、仏教はどうでしょうか。「一神教とは異なり、多神教世界では一般に神々を図像化することに抵抗はない。とはいえ、真理は偶像的な図像では描けないという思想がなかったわけではない。~略~仏教では、像だろうが現実の事物であろうが、それ自体には執着すべき実体がないという『無我』や『空』の教えを究極の奥義としている。」次に第3章から引用いたします。「三位一体も、仏身論や胎蔵曼荼羅の三層構造も、ヒンドゥー教の三神一体も、歴史的に増殖した神的存在を論理的に一つにまとめようという教理であった。三という数字が繰り返し現れるが、そこに論理的(あるいは神秘的?)必然性があるのか、単にまとまりのよい数というだけなのか、よく分からない。三に意味を認める人は、祭壇における三尊形式(仏像などを主尊と両脇侍の三体並べる形式)や、仏教の三宝(信者が帰依すべき対象としての仏、法、僧)、中国思想の三才(天、地、人)さらには哲学でいう『弁証法』(正・反・合の三段階に図式化されている)、近代政治の三権分立などに参考として言及することがある。」今回はここまでにします。