2025.11.10
昨日の朝日新聞「天声人語」の書き出しに柿が登場していました。「晩秋に思うのは、柿である。山の緑に映える橙色の実はどこか郷愁を誘い、駆け足で過ぎるこの季節を切なく感じさせる。渋柿は熟さないと渋いというのも、味わい深い。」実家があった頃に、私が思い出すのは庭に大きな柿の木が複数本あり、柿の実が赤く色づくと、竹の先を割った道具で実を採り、家族でよく食べていました。熟しすぎて柔らかくなった実を両親や祖父母が「甘い」と言ってよく食べていましたが、私はまだ固くてほんのり甘くなった実を齧るのが好きでした。当時はどこの農家にも柿の木が植えてあって、3時のお茶請けの代理として柿が出ました。蒸したサツマイモの時もありました。きっと第二次世界大戦が終わった直後は食料もなく、庭先に生った柿は栄養補給には格好の食料だったのかもしれません。その柿の木もどんどん姿を消していって、気がつけば周囲は住宅ばかりになってしまいました。実家にあった立派な柿の木もなくなりました。思えばそれを切り倒す時に工房に木材として運んでほしかったと、今でも私は残念に思っています。自分が子どもの頃は、柿はそこいらじゅうにあって自然に実をつけるもので、買うものではないという観念がありましたが、現在ではスーパーマーケットで柿を買っています。子どもの頃から好きだったものに未練があるのか、好きなものは結局否定できず、買い物に行くと必ず柿を買って帰るのです。「天声人語」に次のような文章もありました。「ふと、素朴な問いが口に出た。柿は何故、渋いのでしょう。~略~『鳥に食われないためでしょうね』。なるほど、でも、それだけだろうか。」渋柿の渋を抜く工夫にも記述が及んでいましたが、美味しいものを手に入れるために人間は、頭を使い、技能を高めていくもので、人を貶めたり、ましてや殺傷するために頭を使うものではないと私は強く考えます。柿もサツマイモも自然の恵み、土を焼くのも自然の恵みを工夫したものなので、私は現代にあっても生活の基本に出来るだけ逆らわずに生きていきたいと願っているのです。