2026.01.08
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第5章 布教第二期ー日本人による聖母像の制作」は5つの単元から成っていて、今回は「2ヴァリニャーノ来日以後の美術政策」と「3ニコラオの画業について」の2単元を取り上げます。「ヴァリニャーノは日本が法治国であり、武力を備えた独立国であって、多くのスペイン人がインドおよびフィリピンで行なったような外国による支配を受け入れる国ではないことを見抜き、これを多くの書簡によって力説していたことを無視するわけにはいかない。文化的に重要なことは、ヴァリニャーノが日本人は賢明で名誉心が強く、固有の思考法、生活法を堅持しているので、他国人の支配下に甘んずる国民ではないこと、したがって日本にキリスト教教会を確立するためのただ一つの可能な方法は、ネイティヴを宗教者として教育すること、またかれら自身をしてそのやり方で教会を経営させることであると信じていたということである。そのような布教政策は南米でもインドでも行われなかったのである。~略~ローマのイエズス会本部はヴァリニャーノの要請に応えて1583年ナポリ王国のノーラ出身のイエズス会士であり画家であるジョヴァンニ・コーラ(ニコラオ)を、日本に派遣した。~略~筆者はここで、ニコラオの手になるものと考えられるもう一枚の《謙遜の聖母》をあげたい。これは、1591年に日本で出版(正確には出版ではない。これは写本で一冊しかないものである)されたイエズス会士マノエル・バレトが日本で編集したローマ字による手書きの教書、通称《バレト写本》の挿絵にある『謙遜の聖母』である。この貴重な写本は現在ヴァティカン図書館にある。シュッテ師はこれを日本人の作に帰している。結城了悟師もこれを継承して、この『謙遜の聖母』は、ニコラオ画派の弟子が描いたのであろうと推測しているが、筆者はこの作者こそニコラオ自身であると考える。その理由は、第一に、この《バレト写本》にはこのほかにも4枚の挿図があり、それらはすべて到底1590年(版画に付せられた年記による)当時の日本人画家が描くことができない『練達』を示していると考えるからである。第二の理由は、図像と様式と技術が1580年代のイエズス会の周囲のローマの版画家と同様だからである。第三に、図像は手本をみて描けば同一にできるが、様式はにわかには学ぶことができない。その目印となるのは何よりも解剖学、つまり身体の把握と立体感、つまり空間表現である。特にこの中の『聖ヤコブ』では、正中線を軸とした堂々たる人体が描かれており、聖人を偉大に見せるために背景の水平線を低くした遠近法も熟達したものである。」今回はここまでにします。