今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「私は…発想する側のはしくれですが、それゆえか、目の前にある常識は見えず、逆に遠くの世界が見えます。 山岸凉子」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「1970年代に本格的に漫画を描きだすも、世間とずれる世界を描いたからか、編集部に駄目出しをくらい続けたと漫画家は言う。でも大人の感覚で読んでくれるファンも育っていて、『人間の深奥』に切り込めたと。時代を跨いで残るのは尖った発想なのだろう。岩波書店編集部編『私の戦後80年、そしてこれからのために』への寄稿から。」私は少女漫画をあまり読んでこなかったので、詳細なことはわかりませんが、それでも 山岸凉子氏のビアズリーを彷彿とさせる人物描写は独特な雰囲気を纏っているような気がしていました。おそらく同世代の漫画家萩尾望都氏の世界にも私は不思議な魅力を感じていたので、当時の少女漫画の世界では、この世代の不思議な漫画家たちには他を寄せつけないものがあったように記憶しています。現代の漫画は描く世界が多様化し、それが幅広いアニメーションの世界観に繋がっているように思いますが、当時の抜きん出た表現は古さを感じさせないばかりか、今読んでも「人間の深奥」を求めた力量は不動のものがあるだろうと私は考えます。「時代を跨いで残るのは尖った発想」とコメントにありますが、これは漫画やアニメに限ったことではなく、現代美術全体に言えるのではないでしょうか。私たちは人間であることの本質を知るために「人間の深奥」を求めます。一番身近な自分自身の謎に挑む姿勢は、時として世間とずれる世界を描くことで、逆に遠くの世界を見透かすこともあるでしょう。その遠くの世界は人間内部の深さを推し量ることにも繋がります。人間を知るために革新的な表現が生まれ、それが前衛と呼ばれ、やがて感覚に定着するまでに時間を費やし、また次の革新的な前衛がやってくる、その繰り返しで私たちは常に新しい美と向かい合っているのです。