先日、家内と東京上野にある東京藝術大学美術館で開催されている「相国寺展」に行ってきました。相国寺文化圏というコトバをどこかで聞いたことがことがあって、表現力に長けた絵師たちが集ったことで有名なのは、私も知っていました。会場に入ると早速、文正筆による「鳴鶴図」に注目しました。図録から引用いたします。「絶海中津の渡海履歴は、相国寺の作品に一つの伝説を導いた。『鳴鶴図』である。天保7年(1836)作成の『賽物傳來之譯書』(相国寺文書)は、絶海が永和2年(1376)に帰国する船中のこと。一羽の鶴が空中を回旋しながら鳴いた。すると画中の鶴が鳴いて仲良く声を合わせた。以来この図は世に鳴鶴と称す、と記す。」とありました。それを契機にこんな環境が整ってきたのでした。「15世紀の相国寺には足利将軍家の唐物趣味と夢窓派が牽引する禅宗文化が交差し、化学反応をおこし新たな美を奏でる、相国寺文化圏と名づけられるべき環境があった。そして文化の高揚があった。」会場を巡るとよく知った筆致の作品に出会いました。「相国寺に梅荘顕常(1719-1801)という文化を愛する名僧が現れた。大典の名でも知られ、伊藤若冲(1716-1800)に若冲という名を授けた。『老子』の一節『大盈若冲(大盈は冲きが若し)』に拠った。その命名は、室町の世の絶海中津の如拙命名を想起させる。若冲もまた時代の『新様』を追求し、宝暦9年(1759)に鹿苑寺大書院に墨一色のパノラマの世界を描き、明和2年(1765)には『釈迦三尊像』、『動植綵絵』を相国寺に寄進し仏縁を結んだ。」(引用は全て高橋範子著)室町幕府三代将軍の足利義満が建立の発願をした禅宗の古刹である相国寺は、文化財の宝庫であることが本展を通して、私にはよく伝わりました。伊藤若冲の墨一色の表現を究めた作品の他に、長谷川等伯による「萩芒図屏風」の単純且つ繊細な画風や、円山応挙による「七難七福図巻」の世の苦難と寿福との絵解きをするために制作された巻物が印象に残りました。優れた作品を鑑賞した後は、何とも言えぬ心が満たされた状態がやってくるんだなぁと思いました。