「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)は今回から「第2章ピクチャレスクと観光」に入ります。第2章は4つの単元で構成されていて、今回は「1風景の定型化」を取り上げます。副題に「ギルピン『ワイ川観察紀行』」とあって、ギルピンの紀行文が主題となっています。「この作品(ワイ川観察紀行)を通してギルピンが風景を見る際に最も重要だとしているのは、『部分』の『多様性』と『全体』の『調和』であり、また、『サイド・スクリーン』に挟まれた中央の部分が、前景・中景・遠景と三分割できるような風景の『構図』が理想とされる。このような基準に適合する場合、その風景は『正しくピクチャレスク』と判断される。~略~ギルピンが重視しているのは、眼前の風景の各『部分』ではなく明らかに『全体』像である。視覚で捉えられた風景の中の各『部分』は一旦『消滅』した後、想像力の作用によって一つの統合体として『形成』される。各『部分』の記憶の中に蓄えられた後、思い起こされて新たな風景を構成する『材料』となるとも彼は説明する。一連のこの行程の中で足らないものが補完されるが、これが想像力による理想的風景の創造のプロセスである。~略~『建物』についてのギルピンの観察によれば、『修道院、城郭、村、(教会の)尖塔』のみならず『鍛冶工場、製粉所』なども全て同様に風景の『装飾』となり得る。過去に属する建築も現在の住居の建物も、有用性のあるなしに拘らず、一定の条件を満たせば総じてピクチャレスク風景の構成の一部であることが可能である。~略~18世紀前半までに廃墟化した建築物だけでなくそこに繁茂する雑草的植物は自然の力に対する人為の虚しさを表象し、観賞者が廃墟から得る『心地よい憂鬱』を高めるという効果を持っていたが、ギルピンにおいて雑草は全く異なる意味を持っていた。ギルピンの描く廃墟の植物について注目したいのは、具体例として挙げられているのが『蔦』、『苔』、『地衣類』や羊歯類などであるということだ。この他『低木』や『垂れ下がる草』なども含めて、全ては一般的には装飾性が低いとされる『取るに足りない』雑草である。ピクチャレスク美を生み出すのは、有用性とも美観とも無縁の植物群なのである。~略~『ワイ川観察紀行』の中でギルピンが描いた風景は、一つの理想とされる形式の中に当てはめられたものであった。その際に想像力が関与することをギルピン自身が強調しており、そこには形式化と想像力という矛盾した力が働いているように思われる。しかし、ロマン派とは異なり、この作品でのギルピンの言う想像力は形式化に奉仕するという限定的な役割しか担っていないと言うべきだろう。」今回はここまでにします。