「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)の第10章である「哲学としての建築」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はC-N・ルドゥーの建築についての考察です。「一つの理論、つまり私たちの住居が何を意味するかという哲学を提示することであり、屋根という概念のもとで生きて死んでいく運命についての寓意を本の読者や絵の鑑賞者に伝えることだった。そんな哲学としての建築のおそらく最も明確なー現実の硬い石でできたー実例が夢想の天才クロード=ニコラ・ルドゥーが設計した傑作、アルケ=スナン製塩所である。~略~公式には、そして改めていうまでもなく、このアルケ=スナン王立製塩所は、塩を製造するために建築された。~略~ルドゥーは革命前のフランスで、社会的な障壁をうまく乗り越えてきた。1736年3月21日、彼はのちにマルヌ県と呼ばれることになる土地で生まれた。両親は裕福ではなく、教区の奨学金があったにもかかわらず、ルドゥーは学校を辞めざるをえず、パリで銅版画師の徒弟になった。偉大な作品を模写することでデザインを学び、パリ植物園で樹木や動物のスケッチをした。とくに戦闘場面を得意としたが、このおかげで副収入ができ、建築家になるのに必要な製図法の訓練を受けることができた。~略~想像力という崇高な冒険でさえも、出発点は必要だ。ルドゥーにとっては王立製塩所の仕事がその出発点になった。彼は、この世にかつてなかった最も効率的で、最も目に快い工場を作ろうとした。(2世紀後、この製塩所は世界遺産のリストに加えられた唯一の工場となった。)だが、それは労働者が家族とともに暮らし、製塩所長の監督のもと、塩水を蒸留する大釜のまわりで辛い労働に励む、ただの工場ではなかった。ルドゥーにとっては、社会正義と人民の幸福をあらわすモデルでもあったのだ。~略~アルケ=スナンが完成して3年もたたない1782年にはすでに、この土地を管理する請負人が生産量の低さに不満をもらすようになっていた。燃料にする薪は十分あった(ショーの森に近いことが、この場所を選んだ大きな理由だった)が、塩水は21キロも離れたサランからアルケ=スナンまで、フュリウーズ川とルー川に沿って設置した木製の導管によって運んでこなければならなかった。~略~19世紀になると、燃料は薪から石炭に変わり、フランシュ=コンテ地方にはもっと効率のよい製塩所が建てられた。こうして、1895年にこの製塩所は閉鎖された。」今回はここまでにします。