「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第9章 聖母像の変容」は8つの単元から成っていて、今回は「7『マリア観音』導入の経路」と「8東アジアの女神」の2つの単元を取り上げます。「第一に、『マリア観音』の源流は、古代ペルシャ、古代インドの母女神を原型とする観音菩薩の一変化として大乗仏教世界に流布した観音婦女身である。第二に、それは中国における土俗的な送子娘娘神と融合することによって形成された『送子観音』として子供を抱く母の姿を獲得した。第三に、日本には土俗的な子授け信仰として古代から子安明神信仰があった。これが鎌倉時代以降観音菩薩婦女身と融合し、子安観音として信仰された、第四に、中国布教において聖母の東洋化を促進したマテオ・リッチの影響下で、16世紀半ば以降観音型聖母像が形成され、17世紀半ば以降に、禁教潜伏時代の日本キリスト教徒はこれを輸入、また後期にはみずから製作した。この場合、単独の聖母像と、善財童子、龍女を伴った三尊形式の聖母像の二種がある。後者はおそらく出目が送子娘娘であり、前者は白衣観音であった可能性が高い。しかし、日本ではその両者が総称して『マリア観音』と呼ばれ、双方の図像が再生産された。~略~隠れキリシタンが『サンタマリア』として崇敬し、その信仰の中心に据えてきた『マリア観音』が、その形状においても、その意味するものにおいても、東アジアの民間信仰において根強く崇敬されてきた女神の諸権能と多くの共通点をもつものであることを証明した。~略~とりわけ、迫害、逮捕、拷問、殉教と背中合わせに生きている隠れキリシタにとっては、十字架上に刑死する、暴力と血を刻印する男性キリスト像ではなく、生命を産み出す女性の慈愛の姿にこそその救い求めることができたのである。死の隣に生きる難民にとって、それのみが救いを与えてくれる像だったからである。その時に、開かれていた中国との海上ルートによって、白衣の観音像が輸入され、かれらはこれをサンタマリアとして崇拝した。仏教の像にマリアを見立てて拝んだのではなく、この像そのものをマリアとして崇敬したのである。なぜなら、そこにはかれらが西欧の聖母像よりははるかに親しみやすく思うことのできるアジアの母性神の姿が凝縮していたからである。」今回はここまでにします。