今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「手にしている技術をあまりにも容易に使えるようになると、技術が表現を許すものだけを表現するようになる。イサム・ノグチ」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「表現には技術が必要だが、それに溺れ、世界の存在を蔑ろにしてはいけないと米国の彫刻家は語る。物の重量にしても相対的なもので、茶道では袱紗(ふくさ)が世界で最も重いもののように扱われる。それで人は世界の手綱を辛うじて握る。石と違いどうにでも成形できる粘土はだから危ういと。『イサム・ノグチ エッセイ』(北代美和子訳)から。」コメントの中で出てきた袱紗について解説をいれます。「茶道で茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いるおよそ縦9寸、横9寸5分の絹布。」というのが袱紗です。表現媒体によって、絹布が重く扱われる例として引用したと思われます。イサム・ノグチの思考では、あらゆる素材に対し、作家がその素材に抵抗される分、表現する困難さに直面し、そこに打ち克つことで、緊張感のあるクオリティの高い作品が生まれることを示唆していると思われます。それはその通りで、扱う素材が容易になってしまったら、作品のクオリティは落ちていきます。彫刻を学び始める時は、粘土を扱うことが多く、それは成形が容易だからです。粘土には可塑性があって、膨らませたり削ったりすることが自由で、何度でもやり直しがきくところもあります。私も大学でまず粘土による人体塑造をやりましたが、立体構造を学ぶ習作には適した素材だなぁと思っていました。ただし、現在私がやっている陶土となると、そこに焼成という工程が付き纏うので自由度は減っていきます。造形も嘗て習作で扱った粘土とは違い、可塑性はあるものの、最終工程を見極めながら進めていかないと、作品として成立しなくなるのです。そこが面白いところでもあります。