Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 完成形のない空間造形
    日曜日になって、工房にはいつも来ている美大生のほかに後輩の木彫家がやってきました。それぞれが一生懸命制作をしていて、日曜日の工房は活気づいていました。私はこうした雰囲気を歓迎しています。その彼らを前にして昼食時間に、私は自作に対する現在の考えを述べていました。今まで私は集合彫刻と称して陶彫部品を制作し、その部品を番号順に組み立てて大きな作品としてまとめていました。計画では大きな作品のイメージがあって、それに近づけるために部分を分解して、窯に入る大きさの陶彫部品を作っていたのでした。作品によっては40点程度の部品を組み合わせていました。予め穴を開けておいて、ボルトナットで止めたこともありました。今まで20年もそうした作品を作ってきましたが、ここにきて最終形態を未定にした作品を作り始めています。つまり完成形のない空間造形をやろうとしているのです。同じサイズの立方体を100点以上作って、それをギャラリーに持ち込み、その場で積み上げや配置を考えてみようと思っているのです。これは勿論集合彫刻ではあるのですが、展示スペースによって空間演出を変化させます。これによって空間の自由度が増すように思えます。組み立てることも拡散させることも、スタッフとの相談で決めていきます。私は以前から彫刻を単体で見せることは止めていて、場というか、環境というべきか、そうした広い世界を対象にした演出を考えてきました。今年の個展はそこに自由さを加えて展示する予定でいるのです。
    週末 日々充実の1週間
    週末になりました。今週の創作活動にかかわる制作状況をまとめようと思います。今週は日曜日から今日に至るまで朝9時から午後3時まで陶彫制作に没頭していました。月曜日と火曜日、金曜日の昼頃にはスポーツ施設に水泳に出かけましたが、帰ってからも陶彫制作をやっていました。新作は同じ大きさの立方体を作っているので、制作に困難な状況が生じるわけではありませんが、ひとつひとつの形態に対して精一杯力を尽くしていました。明日は今日よりベストを尽くすという信条が自分のなかで出来上がって、その都度緊張感のある時間を過ごしていました。創作活動は社会的なニーズがないため、全て自分のためにやっているわけです。これは自分のなかに己に対する確固たる芯を持たなければ継続できるものではありません。水泳は体力を維持するため、創作活動は自分の内面を掘り下げるためにやっているんだと自分に言い聞かせています。幸い今週は私と並走する学生が毎日工房にやってきていました。美大の学期が先週末で終了したため、今週から長い春休みを迎えていて、染織を専攻している彼女は、日々の植物デッサンをやりに工房に通ってきているのです。そのうちバイトも始まるようですが、時間を惜しんでデッサンをやっているのです。工房の周辺は植木畑があるので、花々や植物のモティーフには事欠かないので、50頁あるクロッキー帳を全部デッサンで埋め尽くす目標を掲げています。真摯な姿勢を持つ後輩に背中を押されて、私も今日という日を充実させるために寸時を惜しんで陶土に触れているのです。
    「溶ける魚」11~15について
    「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の11から15までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元11です。「この広場に面する窓また窓は、牛の眼とよばれるその丸いかたちからしても、また、服をぬいだままたえず気体化をくりかえす女たちのありさまからしても、輪切りにされたレモンに似ている。そんな女たちのひとりは、目にもあらわな下半身の貝殻たちの上にかがみこんでいる。」単元12に移ります。「すこぶる才能のあるその少年は、T教授ののぞみどおりのすばらしい証明役をはたしていたが、そのため抽象の意志ならぬ抽象のあらゆる可能性をうばわれてしまい、もっとも基本的な欲望すらも感じることができなくなっていた。」単元13に移ります。「いまも目をとじれば、長い行列をつくるひとびとのすがたが見える。娘は階段の五段目に腰をおろし、かたくなな権勢家たちにむかって、ここにあらわれてほしい、土地の野生の根っこたちにあたしを従わせてほしい、と懇願した。」単元14に移ります。「私の墓は、墓地が閉門されたあと、海をつきすすむ一隻の舟のかたちになる。ときおり夜のブラインドを通して、両手を上にあげたひとりの女が、空をゆく私の夢の船首像かなにかのようにあらわれるのをのぞけば、この船のなかにはだれもいない。」単元15に移ります。「カトリック式の暇つぶしは見すてられている。いつか鐘楼がトウモロコシの粒にもどれば、工場さえもおしまいになり、海の底はもはやかぎられた条件のもとでしか輝かないだろう。子どもたちはそのとき海のガラスを割り、城に近づくための標語を手に入れる。彼らは夜の見まわりの順番をやりすごし、すてるにはおよばないだろう記号を指でかぞえる。」私が気を留める詩文はイメージを掘り下げやすく、視覚的な要素があるように感じています。
    人類に贈る「超人」への夢
    表題は今日の朝日新聞に掲載されていた記事のタイトルです。ドイツの哲学者フリードリヒ・W・ニーチェの主著「ツァラトゥストラかく語りき」は嘗て私も読んだことのある書籍ですが、難し過ぎて途中で辟易してきたのを思い出しました。その中で「超人」と「永劫回帰」だけはどういうものか、何とか理解をしたつもりになっています。記事によると「難解極まるヘーゲルやカントの哲学書と異なり一般の読者でも十分読める。しかし、ニーチェ自身が非常に語りづらいことを語ろうとしており、その真意をつかむのは難しい。読む中で迷ったり頭を抱えたりする葛藤のプロセスを経験させることで、ニーチェは読者の凝り固まった思考そのものを変動させたかったのでは」(村井則夫さん談話)とありました。成程、それなら私も困惑して当たり前なんだと思いました。記事には本書の要約があったので引用いたします。「科学の発展や教会の権威失墜で、人々は神の存在を信じられなくなった(=神の死)。このままでは、不遇な者が成功者をねたみ引きずり落とす『ルサンチマン』や、逆に成功者が不遇な者を見下ろす『傲慢』という低級な快楽にふける『末人(最後の人間)』が世にあふれるだろう。彼らは生の核心にある創造への意欲や憧れ(=力への意志)を忘れ、他者との比較でしか自らの価値を実感できない。」これは虚無主義(ニヒリズム)と哲学では呼ばれているもので、そこから脱出するためにニーチェは「超人」やら「永劫回帰」という概念を持ち出したと私は理解しています。「だけど、忌まわしい過去から生まれた現在の私たちの営みが、まだ見ぬ未来に『超人』という、今の自分たちには想像もできないような美しく偉大な存在を生みだしたとすれば、それは私たち自身と忌まわしい過去を全肯定できることになる。」(佐々木中さん談話)ニーチェは私たち人類を肯定し、力強く励ましていると記事は結んでいました。私は「ツァラトゥストラかく語りき」を読んだ後の胸中の混乱を思い出しながら、それを分かり易くまとめてくれた新聞記事に感謝をしながら、ニーチェには論理の枝葉の部分にも心が捉えられた箇所があったことも思い出していました。
    2月も陶彫制作は継続予定
    2月になりました。教職との二束の草鞋生活の時は、その月は週末が何回あって、どこまで制作を進めていけるのか、目標を立ててその意気込みを発信していましたが、今となっては毎日が制作三昧なので、季節が移っても継続あるのみです。ただし、この寒さはまだ続くのかが気になるところで、春が待ち遠しいと感じています。工房は内壁がないため、冬は寒く、夏は暑い、という自然のままの気温なので、春や秋が創作活動には最も相応しい季節だと実感しています。陶土を扱っていると、身体には不快な梅雨の季節が、陶土の乾燥を考えるとちょうど良いと考えられ、陶彫至上主義で言えば湿度が高く、乾燥がゆっくり進む時期が最適ではないかと思っています。湿潤温暖な日本で陶芸が発展したのも頷ける理由かなぁと思います。陶土の罅割れは急な温度変化や乾燥によるものと自分は考えていますが、どうでしょうか。2月は寒さもさることながら乾燥が一番心配です。そうは言っても制作を先に進めないと、個展に間に合わない事態になるので、日々頑張るしかないのです。今月も美術館や映画館へ行って鑑賞をしてくる予定です。最近は演劇や音楽会には足が遠のいています。高校の同級生の竹中直人さんに自らが出演している芝居に誘われましたが、コロナ渦を理由に辞退してしまいました。現在映画監督をしているというので、映画には必ず行こうと思っています。読書は現在読んでいるシュルレアリスム関連の詩文を中心とした書籍を読み終えたら、次は多少論理的な書籍を読もうと思っています。詩文ばかり目を通していると私自身の感覚も苦しくなってくるのを今回は認識しました。詩人は詩を書き続けていくのが仕事ですが、それは私には尊敬に値するものです。勿論私のように造形をやり続けているのも同じですが、そうした特殊な分野に染まっていくことは自分の仕事を含めて、常軌を逸したことなのかもしれないと思うようになりました。私より何倍も遥か先まで専門を煮詰めている科学者も、その意欲が続く限り自らを追い込んでいくのだろうと思っています。今月も創作活動を頑張っていきます。