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  • 師走の12月になったけれど…
    今日から12月が始まりました。教職にいた頃は12月と言えば多忙を極めていて、文字通り師が走る1ヶ月でした。中学校では進路に関する面談やら資料作成が始まっていて、校長となっても生徒の進路には気を使っていました。私自身が相手先の高校の校長と連絡を取り合う場面もありました。進路資料に慣れは禁物で、常に確認作業に追われる毎日でした。それに比べれば、現在の生活はどうでしょうか。組織のことで気を揉むことはありませんし、自分の創作のことだけを考えていられる毎日になっています。師走の12月になったけれど、見える風景が昨年までと変わって見えるのは、私と一緒に退職した仲間も同じではないかと思っています。昨年までなら今月は年の暮れに休庁期間があって、その数日を利用して創作活動に弾みをつけることを考えていました。今では平日も休庁期間も変わらず、延々と創作活動をやっていく生活です。12月と言えどもいつも通りの1ヶ月になるだろうと思っています。今月の新作では木材加工に加えて木彫が始まっていくのではないかと考えます。私は真の木彫家ではないので、鑿や砥石を放ったらかしにしていて、だらしない部分もあるのですが、きちんと鑿を研ぐところから始めないといけないと思っています。鑑賞は先月に倣って充実した計画を立てていきます。既に展覧会のネット予約をしていて、新型コロナウイルス感染症の影響がまだ続いている状態です。それでも嘗ての状況とは変わってきていて、予約なしでも入れる美術館も増えてきました。映画館にも観たい作品があれば出かけていくつもりです。一日1点ずつ平面作品を作り続けているRECORDは、日々の流れに遅れをとらないように頑張っていく所存です。読書はまだ女流聖像画家の半生を描いた小説を楽しみながら読んでいきます。寒さが厳しくなりそうで、工房には大型ストーブを据えました。1年の締め括りの1ヶ月を健康に乗り切りたいと思っています。
    11月は鑑賞が充実
    11月の最終日になりました。今月を振り返ると、新作の陶彫制作が順調に進み、現在は大規模作品、中規模作品、小品6点のいずれも焼成済みだったり、乾燥を待っている作品もあり、何とか上手くいっているように感じています。中規模作品は土台になる木材加工に取り掛かりました。今月は1ヶ月で22日間工房に出かけていて、生真面目な私は着実に制作を先へ進めていたことが自分でも分かります。創作活動には苦しみが伴うことがあり、必死に足掻いていくうちに方向が見つかると同時に、再来年の作品のイメージが神の如く降誕してくることもあります。それはまだイメージが源泉過ぎて、あまりにも漠然としたものですが、どこからか果てしない世界からやってきたものなので一応心に留めておこうと思います。一日1点をノルマとし、小さな平面作品をやり続けているRECORDも下書きがある程度解消して、何とか日々の状況に追いついてきました。今月は何と言っても鑑賞が充実していました。美術館へは4館行きました。「香月泰男」展(神奈川県立近代美術館葉山)ではシベリア・シリーズ全作を観ることができました。「大・タイガー立石展」(埼玉県立近代美術館)(うらわ美術館)は2館同時開催で、独特な感性を持つポップアーティストの回顧展でした。「物語る 遠藤彰子展」(平塚市美術館)では巨大な画面が何点も並んだ壮大な絵画空間を味わいました。今月観た展覧会は全て絵画によるもので、いずれも具象絵画でしたが、単純な写実ではなく作家の思いが交差する象徴性の強い世界観があって、どれも圧倒されました。読書でも聖像画家として日本で初めてロシアに留学した山下りんの小説を読んでいるので、今月は絵画尽くめだったなぁと改めて振り返りました。映画館にも足を運びました。まずムーミンの作者トーベ・ヤンソンの半生を描いた「トーベ」(シネマジャック&ベティ)、そしてホロコースト証言シリーズの「ユダヤ人の私」(岩波ホール)で、久しぶりにミニシアターに行けるようになって嬉しかったなぁと思っています。新型コロナウイルス感染症が終わったわけではなく、また新たな変異株が見つかって、全世界が疲弊していますが、来月もコロナに負けず、感染予防を心がけて頑張っていきたいと思っています。
    映画「ユダヤ人の私」雑感
    日本に住んでいると民族問題が皆無とは言えないにしても、やはり国々が犇めく大陸に比べれば少ないように感じています。とくに各国を追われイスラエルを建国したユダヤ人に関する問題は、私たちには分からない部分もあると自覚しています。キリスト教の礎を作り、また知識階級に多くの人材を輩出しているユダヤ民族ですので、他国より疎まれることもあるのでしょう。ホロコーストはそうした中で生まれ、人類最大の負の記憶を伝えていかなくてはならないと私は考えます。映画「ユダヤ人の私」は被害者のロングインタビューを通して、当時の人々が浮き彫りにされる切ない記憶が、現在に繋がるものとして訴えられているのです。映画の主役になるマルコ・ファインゴルトの経歴を図録から紹介します。「1913年、ハンガリーで生まれウィーンで育つ。小学校の教師が反ユダヤ主義者だったため登校を拒否する。~略~1939年、ゲシュタポに逮捕され、1945年まで4つの強制収容所に収容される。終戦後はユダヤ難民に対する人道支援と公演活動に取り組む。~略~2019年106歳でその生涯を閉じる。」次にファインゴットの言葉です。「今日まで何千回に及ぶ講演で、自分の経験を語る機会がなかったら、私は生きていられなかったと思う。多分、怒りが私を生かしてくれたのだろう。そして、私がこのような年齢になったのは、私が経験したことを、すべて語り尽くせていないからなのだ。」図録の文章から幾つかの内容を拾います。「アウシュヴィッツでは非人道的な暴力に晒された。自殺することも出来ないほど瀕死の状態に陥っていたマルコは、兄エルンストがノイエンガンメに移送されることを知ると、最後の力を振り絞り自らもノイエンガンメへの移送者リストに入ることに成功した。アウシュヴィッツでの死者数を調整するためだったとマルコは振り返る。~略~強制収容所での6年間は飢餓との戦いだった。マルコは飢えで死ぬ者は顔に苦しみが現れていると語る。口を開け、顔をひきつらせ、苦しんだ顔の無数の死体がトラックいっぱいに積まれて運ばれるのを見たという。」戦後処理についても図録にはこんな文章がありました。「もしユダヤ人の帰還が認められることになると、怒りや不満が込み上げるだけでなく、ユダヤ人から奪った建物やその他財産を返還しなくてはならないからだ。それを阻止するため、終戦後、カール・レンナー率いる暫定政権はウィーンのユダヤ人が故郷に戻るのを巧妙に阻止した。」ファインゴットもウィーンに戻ることが許されず、ザルツブルグに留まったのでした。私が滞在していたウィーンは、表面では音楽の都として多くの観光客を受け入れ、また美しく着飾った街として平和を謳歌していましたが、なかなか複雑な構造を抱えていた歴史が存在していたことは薄々気づいていました。そんなウィーンに5年間住んでいたことは、私にとって西欧の一端を知る契機にもなっているのです。
    週末 新作の木材加工開始
    月曜日から今日までの一週間は、ほぼ毎日工房に通っていて小品の成形や彫り込み加飾をやっていました。小品は6点出来上がり、現在は乾燥を待っている状態です。小品は6点全部を一窯で焼成できそうなので、乾燥が進んだら窯入れをしたいと思います。これで大規模作品、中規模作品、小品6点が全て出揃ったわけですが、とくに大規模作品は今後調整が必要で、場合によっては追加制作もあり得ます。順調と言えば順調ですが、現在は彫刻家一本でやっているので、これが自然な進行状況だろうと思っています。嘗ての二足の草鞋生活のような焦りがなくなったことが救いです。今日からまず中規模作品の陶彫部品とコラボレーションする木材部品の制作に取り掛かりました。先日、厚板材を数枚購入してきているので、まず切断を始めました。木屑や埃が出て周囲が煙ってしまうことがあるため、陶彫の作業台や乾燥棚をビニールシートで覆いました。毎週来ている高校生は、合格した美大から送られてきた課題をやっていましたが、電動ノコギリの騒音と埃で迷惑をかけていて申し訳ないと思いました。作業終了時に彼女が使っている作業台にもビニールシートをかけました。彼女のいないウィークディに木材加工を出来るだけ進めていこうと思っています。中規模作品は、以前作った「発掘~赤壁~」に連なる作品で、大きさはほぼ前作と同じです。壁状になった直方体が立ち上がり、その上に陶彫部品を連結して設置する構造になります。木材加工をした後で厚板に木彫を施しますが、まずは直方体を作ることが先決です。全ての木彫が終わったら、砂マチエールを貼り付けて油絵の具を滲み込ませていきます。これは私の常套手段ですが、今回の作品は崩壊している部分を作るため、制作途中で欠損した部分を考えなくてはなりません。欠損で頭を過ぎるのは、桃山時代の武将で陶匠の古田織部が行った「破調の美」の表現法です。それは器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法です。実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」があります。日本の伝統には面白いものがあって、私はそんな破れかぶれな感覚をもった日本人に生まれてよかったと思っています。現代にも通じる美的センスではないかと考えているところです。
    週末 神保町の岩波ホールへ…
    週末になりました。今日は工房の作業を止めて、東京神保町にある岩波ホールに出かけました。岩波ホールは久しぶりに来ました。ここは学生の頃から通い続けているミニシアターですが、新型コロナウイルス感染症の影響で暫く遠のいていたのです。最近は感染者が落ち着いてきたので、映画鑑賞を再開しようと思っています。ちょっと前に横浜のシネマジャック&ベティにも行っていて、また映画三昧の日々がやってくると思うと胸が躍ります。家内は邦楽器演奏があったため今日は私一人でした。神保町は古本屋街でもあり、上映より1時間早く到着した私は、これも久しぶりに数軒の古本屋を覗いてみたりしました。古書の画集や洋書を扱っている店も昔の面影を残しており、私は学生時代に何冊か購入している記憶が戻ってきて、懐かしさで気持ちが一杯になりました。私が個展をやっている銀座は老舗がなくなりつつあるので、神保町は変わらない雰囲気を保っていてほしいと願うばかりです。今日岩波ホールにやってきた目的は映画「ユダヤ人の私」をどうしても観たかったからで、「ホロコースト証言シリーズ」第2弾の映画です。第1弾はゲッベルスの秘書ブルンヒルデ・ポムゼルの証言を記録した「ゲッベルズと私」で、これも私は岩波ホールで観ています。これはオーストリア映画ですが、ナチスに加担したオーストリアを批判する証言が出てくるのに、よくぞ彼の国で作られたものだと感心します。世界的な負の遺産は、体験者がいなくなる前に真実を記録しておかなければならないという使命があったからでしょうか。その内容に関しては悲惨さを極めるもので、筆舌に尽くし難い内容がありました。決してヨーロッパという遠い国々で起こっていたものとは考えられない人種を超えた凄まじさがありました。詳しい感想は後日改めますが、私は1980年から85年までをオーストリアのウィーンで過ごしています。当時、私が籍を置いていたウィーン国立美術アカデミーは独裁者ヒトラーが入学を認められなかった学校です。若かりし頃、画家を志していたヒトラーが、もしアカデミーで絵画の修業に励むことが出来ていたら、世界の情勢はどうなっていたでしょうか。ヒトラーは青年時代に反ユダヤ主義を経験し、それがホロコーストに繋がったと言われていますが、確かにユダヤ人は経済活動や芸術活動に長けた人が多かったように思います。私のアカデミーの友人たちもそうでした。「ユダヤ人の私」のマルコ・ファインゴルトは4つの強制収容所を体験し、幸い生き延びた人でしたが、ウィーンへの帰還を拒否されています。ヒトラー亡き後もユダヤ人を遠ざける政策が続いていたことに驚きました。