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  • 「記念碑を作るということ」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第11章である「記念碑を作るということ」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はピーター・アイゼンマンの建築についての考察です。「ケーテ・コルヴィッツの彫刻《父母》やシンシア・オジックの小説『ショールの女』は、私たちが芸術作品という水路を通って恐怖の体験に至るときの助けになってくれるーダンテの地獄めぐりを先導するウェルギリウスのようなものだ。それらは、問いを言葉にする手助けをしてくれるが、答えは教えてくれない。それらは、きわめて文学的な意味で、私たちの知りえないことを思い出させてくれる。なぜならホロコーストの苦しみは犠牲者だけにしかわからないものだからだ。~略~現代建築家のなかでも、ピーター・アイゼンマンはとくに議論の的になりがちな一人である。彼の興味は構造にあり、装飾よりもむしろ、建築物を支える部分に可能性を見出そうとする。矛盾するようだが、彼の設計は快適さや保護的な要素(たとえば中世の教会に見られる梁や控え壁は建物全体をもちあげると同時に構造を維持していた)を強調するのではなく、不安定さや気まぐれ、崩壊や乱調などにつながる危険要素を取り入れたため、彼の建物はまるで何かの『ふり』をしているかのようで、見る者を落ち着かない気持ちにさせた。~略~アイゼンマンの案は議論の重さを無視し、記念碑そのもの、建築物、『芸術作品』の威光を表現するだけで、この記念碑によって記憶に留めるべき忌まわしい出来事はどこかへ消えてしまっている。~略~理論やコンセプトを提示するだけで、あいまいなシンボルに留まることを選び、動的なシンボリズムの境界を超えられなかったために、ベルリンのホロコースト記念碑を訪れた人びとは、そのような警告を読みとることができない。アイゼンマンの記念碑は見る者を拒絶する。きわめて知的なデザインを通して伝わってくるのは、危ういほど無関心に近い、見せかけだけの自由である。」今回はここまでにします。
    「哲学としての建築」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第10章である「哲学としての建築」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はC-N・ルドゥーの建築についての考察です。「一つの理論、つまり私たちの住居が何を意味するかという哲学を提示することであり、屋根という概念のもとで生きて死んでいく運命についての寓意を本の読者や絵の鑑賞者に伝えることだった。そんな哲学としての建築のおそらく最も明確なー現実の硬い石でできたー実例が夢想の天才クロード=ニコラ・ルドゥーが設計した傑作、アルケ=スナン製塩所である。~略~公式には、そして改めていうまでもなく、このアルケ=スナン王立製塩所は、塩を製造するために建築された。~略~ルドゥーは革命前のフランスで、社会的な障壁をうまく乗り越えてきた。1736年3月21日、彼はのちにマルヌ県と呼ばれることになる土地で生まれた。両親は裕福ではなく、教区の奨学金があったにもかかわらず、ルドゥーは学校を辞めざるをえず、パリで銅版画師の徒弟になった。偉大な作品を模写することでデザインを学び、パリ植物園で樹木や動物のスケッチをした。とくに戦闘場面を得意としたが、このおかげで副収入ができ、建築家になるのに必要な製図法の訓練を受けることができた。~略~想像力という崇高な冒険でさえも、出発点は必要だ。ルドゥーにとっては王立製塩所の仕事がその出発点になった。彼は、この世にかつてなかった最も効率的で、最も目に快い工場を作ろうとした。(2世紀後、この製塩所は世界遺産のリストに加えられた唯一の工場となった。)だが、それは労働者が家族とともに暮らし、製塩所長の監督のもと、塩水を蒸留する大釜のまわりで辛い労働に励む、ただの工場ではなかった。ルドゥーにとっては、社会正義と人民の幸福をあらわすモデルでもあったのだ。~略~アルケ=スナンが完成して3年もたたない1782年にはすでに、この土地を管理する請負人が生産量の低さに不満をもらすようになっていた。燃料にする薪は十分あった(ショーの森に近いことが、この場所を選んだ大きな理由だった)が、塩水は21キロも離れたサランからアルケ=スナンまで、フュリウーズ川とルー川に沿って設置した木製の導管によって運んでこなければならなかった。~略~19世紀になると、燃料は薪から石炭に変わり、フランシュ=コンテ地方にはもっと効率のよい製塩所が建てられた。こうして、1895年にこの製塩所は閉鎖された。」今回はここまでにします。
    週末 新聞記事より「ひとりにしないで」
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、今日は創作活動ではなく、先日の朝日新聞「天声人語」に掲載された記事を扱うことにしました。この記事が契機になって、私は家内を誘って新聞掲載日に映画に行くことにしたのでした。全文引用いたします。「車の中から6歳の少女ヒンドが叫ぶ。『はやくきて。うたれちゃう』。息絶えていく6人の親族の遺体に隠れ、電話口で幼い声が、何度も助けを求める。映画『ヒンド・ラジャブの声』は、パレスチナ・ガザ地区からかかってきた電話の音声を使って作られた。救急隊をすぐ送れと声を上げる人道支援団体の職員に、これ以上隊員を失えないと上司は苦悶する。やがてヒンドに装甲車両が迫ってくる。出口のない絶望感に窒息するようで、身を固くした。ガザには同じような子どもたちが何人いただろうか。ガザのイスラム組織ハマスとイスラエルとの戦闘が始まって、きょうで3年になる。ハマスの襲撃で1200人が亡くなり、報復として始まったガザへの侵攻で7万4千人が亡くなった。国連の独立調査委員会はイスラエルによる『ジェノサイド』があったと認定した。それでも国際社会は、イスラエルの圧倒的な力の行使を見過ごしてきた。昨年10月の停戦合意後も、空爆の犠牲者は増え続けている。『わたしが  死ななければならないのなら/あなたは  生きなくてはならない/わたしの物語を語り/わたしの持ちものを売り』。ガザを代表する詩人リフアト・アルアライールさんは、そう書き残した。2023年にイスラエル軍による爆撃で亡くなったが、詩は世界で読み継がれる。ヒンドは夜が怖い。車中で助けを待つ間に、外は暗くなっていく。『ひとりにしないで』。彼女の叫びは日本の私たちにも、向けられている。」国際社会が停戦を促がしても、第二、第三のヒンドは現れます。戦闘の被害者は女性や子どもを巻き込みます。そうした映像を私たちは他人事として見られるでしょうか。今週2本の戦争に纏わる映画を観てきましたが、日本が自然災害に見舞われるように人的災害に襲われる国があり、その理不尽にやり切れない気持ちを抱くのは私だけではないはずです。
    週末 心に刻んだ連日映画の1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作は、新作の初めての窯入れがあり、その焼成期間を利用して映画鑑賞に行ってきました。窯の稼働中は窯以外の電気ブレーカーを落としてしまうので、工房での作業は出来ません。月曜日は窯入れの準備として乾燥した陶彫作品の仕上げを行ない、火曜日には化粧掛けと窯入れ、水曜日は朝のうちに窯の温度確認を行った後、東京の六本木に出かけ「自由美術展」に出品している池田宗弘先生の真鍮直付けによる悪魔像を見てきました。その像は片手に林檎、もう一方の手に鞭を持っていて、それにも意味があると池田先生はおっしゃっていました。午後になって横浜に戻り、映画「ヒンド・ラジャブの声」(横浜シネマリン)を観てきました。パレスチナ・ガザ地区から6歳の少女が電話で助けを求めてきた事実を映像化したもので、私の心に刻まれた重い映画になりました。木曜日は工房で電気を復旧させた後、次の窯入れの準備を行ないました。昼頃になって横浜みなとみらい地区にある映画館に「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(kinocinema横浜みなとみらい)を観に行きました。アフリカ系アメリカ人で海兵隊に入隊した主人公が、ベトナム戦争で体験した事実を基に、帰国後PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患い、苦しむ姿を、塚本晋也監督が丁寧に描き出していました。今週は戦争に纏わる映画を連日観て、私自身の中に何かが刺さったような気がして、暫し呆然としてしまいました。数ある表現活動の中で、映像によるインパクトには凄いものがあると私は感じています。映画には娯楽性の高いものがある一方で、時事問題としての社会的課題を突き付けてくる映画もあって、万人受けはしないけど、有意義と感じた映画を私は若い頃から観てきました。戦争を扱ったものでは「ジョニーは戦場に行った」を観た時の気持ちが何十年経った今でも思い出されます。今の日本が平和であることに日々感謝はしても、安穏と暮らしていていいのだろうかと思うことが私にはあります。今週はそんなことを考えた1週間でした。
    美術団体展&グループ展の感想
    水曜日は映画に行く前に、東京の六本木に出かけ、「自由美術展」を見てきました。木曜日は映画鑑賞の後で、横浜の関内にある画廊でのグループ展を見てきました。美術団体展である「自由美術展」は師匠の池田宗弘先生が彫刻を出品していて、案内状をいただいていました。池田宗弘先生は真鍮直付けの技法を駆使して、社会風刺的で宗教的なテーマを扱う作家です。作風は写実というより量感を削り取った具象彫刻ですが、19世紀の仏画家で風刺画を得意としたドーミエの世界を立体にしたような雰囲気があります。最近は修道士と悪魔が対峙している様子を作っていて、昨年の出品作は修道士像が未完のままでしたが、今年はその未完を継続するのではなく、対峙する悪魔像を等身大で作っていました。それが組み合わされれば大きな作品になるわけで、師匠に確認するため電話をしました。電話では元気な声が聞こえて私は安心しました。というのは、今年87歳になる師匠は長野県の山奥に工房兼住居を建てて一人で住んでいます。その住居は「エルミタ(隠者の住む小さな聖堂)」と名づけた西欧の修道院のような佇まいであり、林の中に師匠の野外彫刻が点在しています。随分前に奥様が亡くなってから、現代版高村光太郎と私は称していて、幾度か「エルミタ」を訪ねましたが、横浜から遠距離にあるため、なかなか行けないのが現状です。昨年は「自由美術展」会場で師匠に会って積もる話をしてきました。たまに横浜中華街から食料を送っていますが、そろそろ会いに行かなくてはならないかなぁと思っています。木曜日はみなとみらいのミニシアターから関内に向かい、「DAN展」を見てきました。その出品者の一人である画家はモダンアート協会に所属する抽象作家ですが、嘗て美術科教員だったため、私と同じ二束の草鞋生活を送っていました。彼の作風は白い画面に絵の具を流した無作為と思わせる作風で、最近はシャープになったと感じていましたが、ここにきてバリエーションが豊富になりました。生涯の最期は白一色の画面になるかもしれないと画家は語っていました。