Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 RECORD3ヶ月分の撮影
    日曜日になり、今日は後輩の彫刻家が工房に来ていました。彼が先日まで制作に励んでいた中規模の彫刻の撮影を、懇意にしているカメラマンにお願いしていて、今日がその撮影日なのでした。今日は好天に恵まれていたので、野外工房で撮影し、昼食後は工房室内に移動して撮影をしていました。撮影は制作者自身がやるのではなく、専門のカメラマンにお願いするというのは、私の考え方でもあり、彼もそれに従っていて、多少費用はかかったとしても、撮影画像を大切にしているのです。彫刻は環境によって作品の質が違って見えるため、野外の光陰や室内の照明には気を使います。自分の撮影技術がプロ級でなければ、人に依頼するのは当然のことと私たちは考えています。今日は彼の作品撮影が中心の日でしたが、私もついでにRECORDの撮影をお願いしました。RECORDは今年の3ヶ月分を撮影してもらいました。RECORDは一日1点ずつ制作している平面作品ですが、毎晩食卓で作っています。絵の具を使っている時は、飼い猫トラ吉に邪魔されないようにガードしながら夢中で作っています。洗面所にパレットの絵の具を洗いに行く頻度が高くなると、トラ吉が私のテーブルを離れている間に、そこに飛び乗ろうと伺っているのです。絵の具はアクリルガッシュを使っています。絵の具は乾くと耐水性になるため常に洗わざるをえず、テーブルの下をうろついてるトラ吉との知恵比べになります。そんなことをしながらRECORDのアイデアを捻りだし、自分としては新しい発想で作っているつもりですが、やや限界も感じるようになりました。それでも毎回撮影のたびに、これからも頑張ろうと再三決心をしているのです。
    週末 塑造台作りをした1週間
    週末になりました。現在作っている一辺22cm程度の陶彫立方体に使用している台を塑造台と呼ぶのは、ちょっと違和感がありますが、実際に台の上で成形や彫り込み加飾をやっているので、この小さな板材も用途としては塑造台になります。私が彫刻を始めた第一歩が、粘土による人体塑造で、厚い板材の上に鉄製の心棒が接合された塑造台があり、そこに垂木や針金で骨格を作り、さらに粘土を貼り付けて膨らませていく制作方法でした。これをモデリングと言いますが、大きな塑造台は回転台に乗せていて、足で蹴りながら回転させ、四方八方から塑造を眺めては、粘土による量感の調整を行っていました。モデルとほぼ同じ大きさの人体塑造は、制作と言うより習作であり、何度も大きく削り取っては、また粘土を付け足して実際の量感を学んでいくものでした。その心棒付きの塑造台は大学卒業後に実家の物置に入れてありましたが、実家を処分した時に一緒に処分してしまったようです。現在の塑造台は小さなサイズで、轆轤の上に乗せて使っています。陶彫立方体は同時に幾つも作るので、塑造台も複数必要になります。最初は十数枚の塑造台がありましたが、薄い合板であったために割れることがあり、先週は最後の一枚になっていました。そこで今週は建材店に出かけていき、板材を購入してきました。工房にある糸鋸で切断し、30枚の塑造台を作りました。人体塑造をやっていた頃の塑造台と比べると、極めて簡易なものですが、大事な道具です。今週は塑造台作りと同時に新しい化粧土の攪拌もやっていました。長く陶彫制作を続けていると、不足するものが増えていきます。それも創作活動を継続してきた証なのだと承知しています。
    「カラヴァッジョ」を読み始める
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)を今日から読み始めます。本書の副題は「聖性とヴィジョン」とあって、これが単なる伝記ではないことが分かります。バロック期のイタリアの画家カラヴァッジョは、私はどこかの展覧会で作品を見ていて、光陰の強い舞台を背景に描かれたドラマチックな情景に、思わず眼を留めた印象があります。その時はどんな画家なのか知識もなく、絵画の印象だけで通り過ぎてしまいましたが、彼が殺人を犯し、逃走したという、彼の生涯にあった刺激的な事件だけを焦点化して、私の中で独り歩きをしてしまったのでした。宗教画を描いているからといって、制作者である画家は聖人君子ではないという事実、感情の表出が表現にまで高まったとすれば、私の中で納得もできるのかなぁと思っています。様々な芸術家の生涯を見れば、何でもありな人も少なからずいるので、自殺もあれば他殺だってありうるだろうと物騒なことも考えるようになりました。それだけではなく、カラヴァッジョが生きた時代はどんな時代だったのか、彼は本当はどんな人物だったのか、エピソードばかりが取り上げられるので、ここでしっかり彼の画業を多角的に捉えてみたいと思っています。序文にこんな文章がありました。「本書は、カラヴァッジョに関する美術史的な研究をまとめたものである。カラヴァッジョを同時代の美術との関係でとらえ、その芸術の特質を考察していく。それに加え、いくつかの作品の様式ならびに主題を考察するが、それらは殺人後の逃亡期、つまり晩年の作品に重点を置いている。」カラヴァッジョ自身は事件の後に悔恨があったのでしょうか。それがどのように作品に反映しているのでしょうか。興味が尽きないところですが、じっくり読み込んでいきたいと思います。
    「栄達、名誉を求めぬ一生」について
    「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の終章「栄達、名誉を求めぬ一生」の気になった箇所を取り上げます。本書はこの章で終わりになります。「久功は、世間的な栄達、名誉、高官顕職、富裕な生活を求めない。何か自分らしい、いつかは人々に、それと認められるものを残したい。久功は、この言葉通りに生きてきた。世間的な栄達や名誉に見向きせず、民族学研究の成果を発表し、彫刻を制作し、詩作をする。自分らしい、自分にしかできないことをする。羨ましいような、満ち足りた生き方である。~略~昭和32年(1957)1月22日から丸善画廊で4回目の個展を開き、木彫レリーフ10点、ブロンズ5点、石膏4点を展示した。しかし、個展が終って間もない2月4日早朝、10数年病んできた胃潰瘍が限界に達して倒れ、~略~2月5日、胃の3分の2を切除する手術をした。術後2カ月経った4月10日、初めて展覧会回りをし、5月末には、油土で簡単な彫刻に取り掛かるまで回復した。しかし、体力の要る木彫レリーフを制作できるようになるのは、9月の末になってからである。」久功は昭和50年に「静かな朝」という詩を書いていますが、それが敬子夫人には死を予感したように感じられたようです。「7日以降は、ノートを枕元に置くが、書く気力・体力は残されていなかった。昭和52年(1977)1月10日、新宿・東電病院に入院し、11日午後8時、心不全で逝去。享年76。13日、神式により葬儀が行われ、『土方久功大人命』として、茅ケ崎の父母の眠る墓に葬られた。」日本のゴーギャンと呼ばれた土方久功に対し、著者はこんな文章を寄せています。「久功は、ゴーギャンが好きで、ゴーギャンの幻想的なものに引きつけられる。ゴーギャンを真似たいと思う、羨ましくもあるが、どうにもならない。ゴーギャンは、あまりに自分から遠いから好きなのかもしれないと言っている。実際のところ、久功の生き方にしろ、作品にしろ、ゴーギャンとの共通点は非常に少ない。だが、繰り返し言うが、久功が、『日本のゴーギャン』と呼ばれていたのは、事実である。久功にとっては、不本意で、実に不愉快なことであったに違いない。」
    「パラオ、サタワル島の人々との交流」について
    「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第九章「パラオ、サタワル島の人々との交流」の気になった箇所を取り上げます。久功は南洋諸島から日本に引き揚げてきて、さらに戦時中や戦後をとおして、南洋諸島がどうなっているのか、気にかけていた箇所が本章では見受けられます。南洋諸島で関わった人たちが久功の元を訪れて、さまざまな情報提供があったことも書かれていました。実際の木彫制作は帰国後に精魂込めてやっていたとしても、久功が南洋諸島で得た創造の種を考えると、芸術家として土方久功が在るのは、南洋諸島の民族との触れ合いがあってのことなのだろうと私は察します。本書を読んでいると民族誌家としての彼の足跡も大きかったように思います。「久功の名は、パラオでも、サタワル島でも、忘れられてはいない。~略~久功がパラオを去ってから70年以上経っても、人々の記憶に残っているのは、戦後もパラオの人々との交流があったからであろう。久功がパラオに滞在していた時に親交を結んでいた人は、もはや生存していない。しかし、久功は、来日した彼等の息子や娘達には会っている。これらの人々によって、久功の名が語り継がれ、これがパラオの人々から久功の名が忘れられていない要因ではなかろうか。久功はパラオから来日した人々としばしば会い、その人達に、パラオを訪れるように誘われた。しかし、南洋へ行くことはなかった。変わり果てた南洋は見たくなかったのである。」久功の死去の半年前に書かれた文章が残っています。「あの人なつっこく、正直だった島民たちはもういないで、彼ら同士でさえも互いに信じられないようになってしまったというのです。それもこれも、あの戦争の結果だろうし、文明人たちが、平和な島々を勝手にかき乱したせいだとしか思えません。しかし76歳をむかえた今でも、ぼくの心の中では、あの南洋の島民たちは、相変らず、無邪気に踊り、楽しげに、歌ったり、おしゃべりをしたりしているのです。」今回はここまでにします。