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  • 週末 宗教における視覚創造
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は、宗教における視覚創造というもので、現在読んでいる「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)に端を発します。世界にある幾多の宗教の形態を扱っている本書には、美術的に興味関心のある多くの要素が登場します。人間の創作行為はいつ頃、何を起源に始まっているのか、私が抱いている素朴な問いです。洞窟壁画を描いた太古の人々に創作的な痕跡が見られるので、人類が文字を持つ以前から図像による創作行為が始まっていると見ても差し支えないと私は考えます。宗教はどの学問よりも先んじて始まった思想と考えると、宗教に登場する図像にも早くから創作が入り込む余地があったと考えるのが自然です。前にNOTE(ブログ)で引用した文章を再度掲載いたします。「キマイラ(異なる種族の特徴を足し合わせた体をもつ空想的動物)的造形は、人間の想像力が最初から現実を逸脱したものであったことを教えてくれるからだ。人間の思考はリアリズムよりもファンタジー/神話向けにできているのかもしれない。」人間がリアリズムを視覚的に捉えることは、近代になるまでその捉え方を知らなかったと私は理解しています。ましてや写実的リアリズムは中世の西洋画法が確立されるまで、技巧的にも不可能だったので、そこはファンタジーとしてしか表現できなかったのではないでしょうか。宗教では畏怖を感じる得体のしれないものや、これを崇拝すれば何か安心が得られるものをキマイラ的造形として、世界各地で伝承されてきたと思います。日本にも古くから言い伝えられている精霊や鬼の伝説があります。それを畏れと共に崇め奉り、魔除けや五穀豊穣、子孫繁栄に繋げていったのではないかと推察しますが、その造形に大変面白いものがあるのも事実です。私にとって、その興味は尽きることがありません。勿論その背景を探ってみることも興味の対象ですが、単純に視覚創造として見ても楽しいものが多いと感じます。ユーモアが隣り合わせになっているものも多々あります。
    週末 板材加工&美術館へ
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。気候が凌ぎ易くなってきたため、今週も通常の朝9時から夕方3時までを作業時間として、新作の完成に向けて制作に励んでいました。新作は陶彫制作が終了し、現在は6点の陶彫部品による橋桁で板材を支える構造をもつ集合彫刻を作っています。今週はその板材の刳り貫き作業をやっていました。もう私は陶土には触れず、今は板材をカットする作業に専念しています。陶彫制作に比べれば単純な作業ですが、新作では重要な見せ場になります。板材はさらに塗装等の加工があり、まだまだ作業は続いていく予定です。今週は水曜日の夕方に窯入れを行ないました。乾燥した陶彫部品を焼成しなければ陶彫作品は完成しないので、板材加工と同時に陶彫部品の焼成もやっていかなければなりません。水曜日に窯入れをしたため、木曜日は工房の電気が使えず、私は東京の美術館や大手書店に出かけました。広尾にある山種美術館は日本画に特化した美術館で、以前も絵画史に残る名作を見せていただきました。今回は「日本画聖地巡礼2025」展で、日本だけではなく世界に視野を広げた日本画の巧みな表現に触れる機会を持たせていただきました。その後、池袋にあるジュンク堂書店に行って、美術の専門書を複数仕入れてきました。これで暫くは読書に困らないなぁと思っています。とりわけ先日まで読んでいた廃墟に纏わる書籍でピクチャレスクという言葉を知ったために、ピクチャレスクに関する書籍を手に入れました。自分の作品世界にも通底するような語彙と感じたので、追求したくなったのでした。今読んでいる宗教図像学に関する書籍でも、本書が入門書であるため、カタログ的著述のあらゆる部分につい気が留まり、そこを掘り下げてみたくなってしまうのです。それが契機になって、今回購入した書籍の中に聖母像に関するものを一冊入れました。得た知識を発展させていくのは私の本望です。直接的間接的どちらとも私の血流になって、創作活動に生かせればと願っています。
    広尾の「日本画聖地巡礼2025」展
    昨日、東京広尾にある山種美術館で開催されている「日本画聖地巡礼2025」展を見てきました。昨日のNOTE(ブログ)にも書きましたが、聖地巡礼は日本のアニメーションに登場する場所を、そのファンが訪れることで語彙が定着したと私は思っていましたが、しかし聖地巡礼の本来の意味は宗教が絡んでいます。図録の冒頭にこんな文章がありました。「『聖地巡礼』とは、本来、宗教上の聖地を訪ねることで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のそれぞれの聖地が共存するエルサレムへの巡礼などが知られています。日本でも、弘法大師(空海)の足跡を訪ねて八十八箇所を巡る『四国遍路』や熊野三山の神社を参詣する『熊野詣』など、霊験あらたかな霊場巡りが古くから行われており、これらもまさに『聖地巡礼』といえるでしょう。」(山﨑妙子著)本展は近代日本画の巨匠たちが描いた風景を、実際の風景写真を同時に展示して、画家たちは聖地をどのように解釈したかを表すものです。現代絵画を代表する山口晃氏の東京の鳥観図もあって、観賞者が大勢集まっていました。私は川端龍子の「月光」に関心を持ちました。図録によると「この《月光》は川端龍子が開催した『日光に題す』という個展に出品されたもので、大猷院の拝殿を描いています。龍子の言葉にある通り、家光の大猷院は家康の東照宮よりも派手さが抑えられた印象を受けますが、それは、祖父である家康公を凌いではならない、という遺言を家光が残したからだといわれます。」この絵は建物の一角を描いたもので、柱がこちらに向かって迫出ている場面を、たとえば洋画で描いたなら陰影を駆使して立体感を出していたであろうところを、この絵は極めて平坦に画面を処理しています。その優雅な構成が見事で、日本画らしい色面が文様のような効果を齎せています。前述にある龍子の言葉というのは「華麗の裡に多少の渋味を持つ」とあり、私は暫し時間を取って、この絵の渋味を味わっていました。
    美術館&大手書店の散策
    昨日の夕方、工房で窯入れを行ない、窯以外の電気のブレーカーを落としました。そのため今日の工房での作業を中止し、朝は窯内の温度確認に行っただけでした。今日は東京の美術館に出かけることにしました。ただ、今日のメインは大手書店で美術関係の書籍を仕入れることが目的だったために、私一人で出かけることにしました。午前中は恵比寿駅から暫し歩いたところにある山種美術館で開催中の「日本画聖地巡礼2025」展に行きました。聖地巡礼という言葉は、日本のアニメーションが舞台にした場所を実際に訪れるファンがいることで、聞き慣れた言葉になりました。アニメの中で精緻で美しい風景として描かれた場所には、多くの観光客が訪れ、それ故に地元にとって、時に迷惑を受ける行為もあり、度々問題視されてきました。その聖地巡礼を近代日本画を牽引してきた画家たちの名作に関連づけて、モチーフとなった場所の写真を添えて展示していました。その企画力のおかげか、平日にも関わらず美術館は混んでいました。詳しい感想は後日に改めます。次に私は池袋に向かいました。池袋にあるジュンク堂本店には、私の興味関心を惹く美術関係の書籍が多く、1年で1回か2回しか行かない大手書店ですが、毎回数冊を買い込んでしまうのです。今回も厚い書籍を4冊も買い込んで、リュックに詰めて帰ってきました。学生の頃は頻繁に神保町に出かけていたのが、今は池袋に替わりましたが、社会人になってから給与の一部を書籍に費やしてしまうのは、私の前からの癖になっています。今は仕事を退職しても何とか費用を捻出して、美術関係の書籍には金銭を惜しむことはありません。数冊買い込んでも、自宅の書棚に放り込んだまま、忘れた頃に引っ張り出して頁を捲っているのです。デジタル書籍もいいのですが、私のような読書癖にはいつまでも保存の効く紙の書籍がいいのです。しかも美術の中でマニアックな分野を私が求めているため、実際に書店で手に取って選ぶ方が都合が良いと考えています。
    「聖母、王族、神々」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の3つ目のパート「神々のバリエーション」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の3つ「第9章 母なる聖母」と「第10章 天界の王族」と「第11章 異形の神々」を取り上げます。まず「聖なる母」から。「『ヴィーナス』と呼ぶと女神あるいは理想的女性美を思わせるが、あくまで現代人の呼び名にすぎず先史時代の人々がどう思っていたかはまったく不明だ。なお、ずっと時代は下るが似たような印象を与える日本の縄文土器の土偶(遮光器土偶など)も、一般に豊饒祈願と結びつけて理解されている。~略~ギリシャ神話の性のシンボル、アプロディーテーないしヴィーナスの対極にあるのが純潔の象徴であるアルテミス(ローマ神話ではディアーナ)である。森林の野獣の保護者でもあれば狩りの女神でもあり、処女神でありながらお産の女神でもある。矛盾した性格を帯びた存在であるが、起源はやはり多産・豊穣系の女神である。」次は「天界の王族」です。「一部の神は、人間の共同体に規律をもたらす法の制定者として思い描かれた。原始的には、部族や民族の慣習的な掟が祖先や神の名によって権威づけられたということだろう。王権もまた法の神の神話を利用した。~略~光明神アポローンを理性と静謐なる美の象徴、反対に酒神ディオニューソス/バックス(バッカス)を狂気と暗い情念の象徴とすることがニーチェ以来定着しているが、ディオニューソスの象徴的事物はブドウの房やブドウの木である。」最後は「異形の神々」です。「キマイラ(異なる種族の特徴を足し合わせた体をもつ空想的動物)的造形は、人間の想像力が最初から現実を逸脱したものであったことを教えてくれるからだ。人間の思考はリアリズムよりもファンタジー/神話向けにできているのかもしれない。~略~歴史的な起源としては、象頭の神の信仰は太古のインド亜大陸の先住民の宗教に由来するらしい。古代の一時期には性的な秘儀を伴う宗派を形成したこともあった。その名残りとして、日本密教には、象頭の男女の神が互いに抱き合う形に描かれる『歓喜天』あるいは『聖天』という秘儀的な神の信仰がある。」今回はここまでにします。