2026.05.18 Monday
今日の朝日新聞「天声人語」より記事を掲載いたします。政治色がなく社会に対する批判もない、何気なく綴られた記事に私が心の安らぎを覚えるのは昨今の社会情勢のせいだろうと思います。ただ異常気象を僅かに感じつつ、時には季節の情景を詠むのも心の安寧を保つためには必要かもしれません。「『季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である』。そう随筆に記したのは〈どうしようもないわたしが歩いてゐる〉といった句で知られる放浪の俳人、種田山頭火である。うららかな春が過ぎ、立夏を聞いたばかりと思っていたのに、早くも炎天が近づいているのか。きのう列島の各地では30度を超える真夏日になった。漢詩の一節が頭に浮かぶ。只今五月、すでに許のごとし。六月、更に来たれば何ぞ当たるべけん。訪れる季節も、去りゆく季節もなぜこうも駆け足なのだろう。初夏の風をほおに感じながら、名残惜しく、街を歩く。青々とした樹木は薫り、薄紅色のバラがほほ笑んでいる。公園では、子どもたちが弾んだ声をあげていた。まぶしく目を細め、雲ひとつない青空を見上げる。少し汗ばみ、のどが渇いた。水飲み場で蛇口をひねる。ごくごくと、いや、山頭火に敬意を表し、へうへうとして水を味ふ。木陰に入り、息をつく。〈こんなにうまい水があふれてゐる〉~略~『私は草や虫みたいな存在だ』。托鉢の旅を続けた俳人は書いている。やさしく、寂しく、ひとは生きていくのだと。『きのうも歩いた、きょうも歩いた、あすも歩かなければならない、あさってもまた』」種田山頭火は1882年から1940年まで生きた自由律俳句を世に広めた人で、私の勝手なイメージで語るなら世捨て人のような存在と思っています。人となりを調べていくと、人生に憂鬱が付き纏っていた要素がいろいろあることが分かりました。母が父の遊蕩のせいで自宅の井戸で投身自殺をしていたり、ことあるごとに酒に浸る生活があったようです。こんな文が残されています。「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」それでも現在に至るまで知られた俳人であるのは、自由律俳句の言葉一つひとつの印象が心に刺さるからでしょう。自然体であるべき姿勢がそこにあると思っています。
2026.05.17 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。現在、新作の制作では4点の壁に掛ける作品の画面にジェッソを塗った上から油絵の具を塗っています。抽象的な矩形に平塗をやっていますが、絵の具の効果はそれだけではなく、具象を対象とする写実的な表現が可能です。日本の図工・美術教育でも子どもがある年齢に達すると、写実をどう描くかを教えます。子どもの能力に多少の巧拙はあっても、私はその方法を伝授していました。美術系の大学の受験には何かのモティーフを写実で描くことを課しているところもあります。学生時代には、写実画から派生してさまざまな表現方法を探ることもあり、己の表現を獲得できるように切磋琢磨する美大生も少なくありません。そもそも描く行為は旧石器時代の洞窟壁画に見られるように、人類の歴史とともに発展してきました。最初は自然から採取した顔料を使って狩猟動物を描写記録していた人類は、やがて豊作を天に祈るようになり、宗教画が生まれました。眼では見ることができないものを具現化することに絵画が果たした宗教的役割は大きかったと思っています。絵の具もテンペラや油絵の具、水彩絵の具と多様化して、その用途に応じて使い分けるようになりました。チューブに入った絵の具が発明されたのは19世紀で、携帯できる描画セットは、戸外で風景を描く印象派の画家にとって都合の良いものでした。絵画史を雑駁に振り返っても、表現方法の多様性は余りにも豊富で、その延長線上に私がいると思うと、工房での運筆一つひとつに誇りを持って挑んでいてもいいのではないかと思ってしまいます。現代ではAIの進歩によって身体を使わずとも表現が可能になり、絵画表現はどこまでいくのか、私は楽しみでなりません。私自身は素材の力を信じていて、彫刻的な表現に全てを捧げていますが、彫刻より自由な表現が獲得できる絵画表現に時折近づくこともあります。今回はその例だなぁと思っています。
2026.05.16 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通っていました。壁に掛ける作品「炭景」4点の、それぞれ画面全体の鉛筆下書きが終わったので、そこに油絵の具を塗っていく作業に移りました。絵画というより、高校時代にやっていた基礎デザインのような仕事で、鉛筆で区切られた矩形を丁寧に塗り分けていきます。自分の中で久しく眠っていた懐かしい作業で、大学の工業デザイン科を志望していた10代の頃に戻ったような気がしています。ただし、扱っているのが油絵の具なので、受験期の平面構成とは雰囲気が異なります。平塗が終わったら、絵の具による効果を生かした技法を試そうとしているので、これはやはり絵画なのかなぁとも思います。彫刻制作のように体力は使いませんが、神経を使うことがあり、一日数時間やっていると疲れてきます。私は絵画制作に慣れていないので、油絵の具を扱っていると、いろいろなことが頭を過ります。このことは別の機会に書いてみたいと思っています。今週は美術館にも出かけました。東京の砧公園は古木が多いため、倒木の事故がありました。危険個所にはテープが貼られていました。そんな砧公園にある世田谷美術館で「田中信太郎」展が開催されていて、抽象的で純粋な空間を追求した田中ワールドを堪能してきました。彼はネオ・ダダの元気な世代の作家で、美術界では既成概念を壊して異端児扱いをされていたグループにいました。若かった私はその意味を知らないまま羨望の眼差しで見ていました。現在では彼らも他界した人が多く、田中信太郎も亡くなっていました。時代とともに美術界も変わってゆくのかと暫し感慨に耽りました。今週はロマネスク関連の書籍を読み終えて、現在は旧約聖書の物語を扱った書籍を読んでいます。現代を生きながら古いものをもう一度評価したい思いがあって、敢えて過去を振り返る機会を設けているのです。
2026.05.15 Friday
今日から「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)を読み始めました。先日まで読んでいた「ロマネスク美術革命」と同じ著者の書籍を選んだ理由は、難解な理論を分かり易く解説してくれていて、私自身が楽しんで読めると思ったからです。さて、キリスト教に関してですが、私はキリスト教信者ではありません。NOTE(ブログ)を振り返ると、かなりキリスト教に纏わる文章が散見されますが、異文化に対する単なる興味で書いたものです。私はいつ頃キリスト教を知ったのか、私の出身高校は横浜のキリスト教系の学校だったことが、キリスト教を知る契機だったと振り返っています。その学校には道徳はなく宗教という科目がありました。聖書は入学時に購入しましたが、授業では新約聖書ばかりを扱っていたので、きっとプロテスタントだったのでしょう。私は授業(礼拝)をほとんど聞いていなくて、心ここにあらずと言った状況でした。家内の叔父はカント哲学者で、内村鑑三の影響で無教会主義を貫いた人でした。大学で彫刻を教えてくれた師匠は、キリスト教をテーマにした彫刻を作っていました。そんなわけで私の周囲にキリスト教信者はいましたが、私は宗教に無頓着な面があったように思います。20代後半の5年間はオーストリアのウィーンの学校に通っていて、街中には教会が数多くあり、幾度となく礼拝堂を見て回りましたが、そこで感じた装飾過多のキリスト教美術に私は感覚的に辟易していたのを覚えています。帰国後、寺院の仏像を見て心が落ち着いたので、私の拙い宗教的背景には先祖から受け継いだ浄土教が生きているのかなぁと思うこともありました。それでも異文化理解を含めてキリスト教を学問として学ぶことは有意義と考えていて、とりわけ旧約聖書には面白いエピソードが多いと思っています。本書の「はじめに」の文章を引用いたします。「この本では、おもに中世ヨーロッパの美術とともに旧約聖書の物語をみてゆきます。なぜ中世か、というと、キリスト教美術の黎明期、草創期であることから、表現がまだ定型化されておらず、聖書解釈にゆれや、まよいーいいかえれば、創造性、独自性がみられるからです。」とありました。異文化を楽しみながら読書を進めていきます。
2026.05.14 Thursday
「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)を先日読み終えました。私自身のロマネスクに関する知識は薄っぺらなものでしたが、本書によってひとつの様式を体系的に学ぶことができました。ヨーロッパを席巻した各時代の様式の中でロマネスクはマイナーな分野であることを、私は本書を通して知りましたが、自分の師事した彫刻家池田宗弘先生は、ロマネスクの宗教美術を研究しにスペインに旅立っていったので、意外にも私にとってロマネスク美術には親近感があったのでした。ただし、私が20代後半に滞在していたオーストリアのウィーンでは、当時通っていた学校の近くにゴシックの代表格とも言うべきシュテファン大聖堂が聳え立っていて、しかも周囲の建物の多くはバロック建築でした。周囲にロマネスク建築はなく、旧市街で夜を迎えると、バロック建築が怪物に見えてきて、忽ち私は怪物に取り囲まれてしまうような錯覚に陥りました。怪物と言えばロマネスク建築に見られる海獣たちの彫刻に私の興味は尽きません。以前NOTE(ブログ)の「河鍋暁斎の世界」を書いた文章の中で、私の妖怪趣味に触れた箇所があります。ロマネスクの海獣たちに私が惹かれる理由がそこにあります。本書の中でも「11世紀から12世紀のどの時点で、またどのようなきっかけで、この動物が跋扈しはじめるのかは、またしても定かではない。しかし、ヨーロッパ中の聖堂の装飾に、いわゆる中世の竜、ドラゴンが確かに誕生したのである。」とありました。本書執筆の動機についても著者は「あとがき」で触れています。「ロマネスク探求の旅は、まだ峠をひとつ越えたばかり。~略~わたしもフォシヨンのレトリックに酔い、柳(宗悦)先生の眼に感銘を受けたひとり。だがフォシヨンやシャピロがロマネスクについて激論を交わした1930年代から80年、日本に広く紹介されてからもすでに半世紀近く経とうとしている。そろそろロマネスクの美のことも、今の視点で語りなおしてもよいのではないかと感じていた。」ということは著者のロマネスクの旅はまだまだ続くということでしょうか。ともかく面白い論文であったのは間違いありません。