2025.01.17 Friday
テレビのアート情報番組で最近よく取り上げられている印象派のモネ。国立西洋美術館では結構気合を入れて各地から集めてきたであろうモネの作品が展示されているのを目にして、そろそろ行ってみるかと思い立ちました。今日の午前中は工房で新作の古木材加工をやっていて、午後から家内と東京上野まで出かけて行きました。モネの茫洋とした微妙な色彩は、日本人好みでもあるので、「モネ 睡蓮のとき」展は平日にも関わらず、入場券売り場の外まで列ができているような混雑ぶりでした。力作が並ぶ展示室に立つと、テレビでは伝わらないオリジナル絵画の生々しい筆致があって、その色彩のさざ波に我を忘れました。旧知ながらモネと印象派の繋がりを図録より拾います。「モネはとりわけ、『印象派』という言葉が生まれるきっかけとなった第1回の美術展に、《印象、日の出》をもって参加している。1874年4月15日、画家たちのグループが、かつて写真家ナダールが使用していたパリのアトリエを会場に展覧会を開催する。~略~これらの画家たちが目指したのは、アカデミックな伝統を守るパリの大規模な官展、『サロン』の規範からの解放である。」やがてモネが睡蓮の連作に取り組む契機になった庭が登場します。「1893年2月5日、隣町のヴェルノンで、モネは自宅敷地の南側、リュ川と線路の間に位置する土地の購入証書に署名する。この土地を購入したことで、水の庭という夢が実現するのだ。モネはこの土地に池を造成し、そこに日本美術を意識した橋を架ける。1870年代から日本の版画を収集していたこともあり、日本美術を高く評価していたのである。」(シルヴィ・カルリエ著)本展はとりわけモネの睡蓮の連作に主眼が置かれていて、そこに垂れ下がる木々や植物も堪能することができました。一緒に行った家内がモネの立体感覚や空間性に着目していて、私もそこが今まで見慣れていたモネの作品に、新しい視点を見いだしたところでもあり、かなり気分が揚がりました。20代の頃、鑑賞者をぐるりと取り囲んだモネの大作をパリで見たことを思い出しました。
2025.01.16 Thursday
昨年から私は横浜市中学校退職校長会(清交会)を母体にしたグループ展に参加しています。校長を退職して3年、人づき合いも少なくなり、昔の仲間と会うこともなくなってきました。7月にある東京銀座ギャラリーせいほうの個展に向けて、毎日必死に制作を続けていますが、それとは別に先輩の校長諸氏に昨年お願いされて、地元横浜で開催されている「如月展」に出すことにしたのでした。この機会に私と同期の退職校長も誘いました。同期の退職校長は大きな書展に出品しているので声をかけてみたら、彼も出品してくれることになりました。「如月展」の課題は高齢化と美術部門の出品者が少なくなっていることです。元々美術科校長が少ないので、こればかりは清交会の縛りを外さなければ、美術部門の出品者は増えません。横浜市立中学校は現在146校 (義務教育学校3校含む)ありますが、私の在任していた頃から美術科校長は私一人で、現在も美術科校長は一人だけです。「如月展」は油彩、水彩、彫刻、写真、民芸、刺繡絵、書道と幅広い分野で出品を依頼していますが、美術部門だけでは参加者が集まらない台所事情も頷けます。それでも46回(46年間)まで続いたグループ展は稀な存在です。私が教職に就く前からやっていたわけですから、今までさまざまな人が参加していたのでしょう。今回の私の出品作品は「発掘~墳構~A」と「発掘~墳構~B」と名づけた小品です。これは小さなテーブル彫刻で、2007年に発表した「発掘~円墳~」と「発掘~地下遺構~」の雛型を作った際に、その発展形として暫く経った後で作ったものです。ですからこれは雛型ではなく、このスケールで表現した集合彫刻なのです。「如月展」には過去の作品ばかり出品していますが、毎年ギャラリーせいほうの個展に向けて、新作を一心不乱に作り続けている私には余裕が持てず、こればかりはご容赦願うしかありません。
2025.01.15 Wednesday
今日の午前中、私は工房で新作の古木材加工をやっていました。同じ時間帯に家内が歯科医院に予約をとっていたので、家内の治療が終わって、午後になってから家内を誘って、東京町田市にある玉川大学教育博物館に「イコンにであう」展に出かけました。同展は新聞のアート情報欄で知りました。20代の頃、私はヨーロッパにいたので、教会は暫し歩けば見つけられたし、イコン(宗教画)を売っているギャラリーもあったりして大変身近でしたが、日本ではイコンを見る機会がほとんどなくなっていました。今日は久しぶりにキリスト教絵画の収集品を見てきました。イコンとは何か、図録から文章を引用いたします。「イコンとは、『像』を意味するギリシャ語のエイコーンに由来する呼称です。広義にはキリスト教の聖像全般を含みますが、狭義には東方正教会において崇敬される板絵の聖像画をさします。このイコンには、イエス・キリスト、聖母マリア、聖人、天使の肖像や聖書に記される重要なできごと、たとえ話の説話物語などをあらわしたものがあり、大きさや形態もさまざまです。~略~それらは識字率の低い時代に、『目で見る聖書』としての役割を果たし、キリスト教の布教に大いに貢献しました。~略~『神の原像を映し出す鏡』『目に見えない聖なる原像に向けて開かれた窓』と規定されるイコンでは、人間を超越した神聖な存在であり、永遠に不変の存在である神の姿をあらわすために、既存の図像を原型として忠実に模倣することがおこなわれます。」(荻原哉著)イコンの制作は創造的行為ではなく、忠実な模倣が全てだそうで、ルネサンスあたりに盛んに描かれていた宗教画とは根本が違うというわけです。日本の宗教画家山下りんの伝記「白光」(朝井まかて著 文芸春秋)の中で、ロシアにイコンを学ぶため渡航した山下りんが、エルミタージュ美術館で見たイタリア・ルネサンスの絵画に心が躍った場面がありました。イコンは芸術作品ではなく、あくまでも信仰の対象として具現化された絵画なのだという認識が改めて問われた重要な場面だったと私は思い出しました。同展にはその山下りんのイコンもありました。
2025.01.14 Tuesday
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第一章 密教とは何か」の中の「中国密教」について気になった箇所をピックアップします。この「中国密教」が本章の最終章になります。「その中国的に変容した密教を、もしくは中国化した密教を、中国密教と呼びたいと思う。この時期に活躍した人物は、文字どおり、多士済々というしかない。インドから渡来して『大日経』をもたらした善無畏(637~735)。同じく『金剛頂経』をもたらした金剛智(671~741)。善無畏の弟子であり、偉大な天文学者でもあった中国人の一行(683~724)。そして、なんといっても中国密教の立て役者となった不空(705~774)。ちなみに、不空はインドもしくはソグドあたりの西方民族の血を引いていたと伝えられる。そして、不空の後継者にして空海の師となる中国人の恵果(746~805)らである。」インドと違う点は、中国には既に一大国家があり、その重圧もあって密教の経典を変えざるを得ないことでした。「不空は経典の改変さえ辞さなかった。翻訳という行為は外国語の原典を忠実に母国語にうつすものと信じて疑わない現代人には、まさに信じがたいことだが、仏典の翻訳には往々にして翻訳者の恣意が入っている。~略~不空のしたことは、長い仏典翻訳史のなかでも突出している。~略~もともとのサンスクリット原典にはまったく見当たらない国王守護と護国の文言を書き加えた。~略~空海が留学先の唐において密教の師とした恵果は、この不空の直弟子にあたる。つまり、空海は不空から見れば孫弟子になり、当然の結果として、空海の国家観も、基本的には、恵果をとおして継承した不空のそれに従っていた。さらに、般若もまた、空海の師の一人だった。」中国密教は空海を介して日本に伝わり、現在も日本密教として定着しています。「中国においてインド密教から大きく変容を遂げたタイプの密教は、やがて古代の日本列島や朝鮮半島に輸入され、それぞれの地域の事情に応じてさらに変容しつつ、東アジア一帯に多大の影響をあたえることになる。その意味からすると、中国密教はもとより、日本密教や朝鮮密教をも一括して、東アジア型密教と呼ぶこともできる。」今回はここまでにします。
2025.01.13 Monday
今日は成人の日です。横浜市でも「二十歳の市民を祝うつどい」が横浜アリーナで開催されました。成人の日で思い出すのは、もう随分前になりますが、横浜で大雪が降って、振り袖姿の人たちが大変な目に遭っていた光景です。家内はこの日に神奈川公会堂で和楽器演奏があって、私が最寄りの駅まで歩いて迎えに行きました。やはり大雪の印象が強かったせいで、今も思い出すのです。今年の横浜は幸い穏やかな天候に恵まれましたが、青森県を初めとする東北地方では災害級の積雪になり、雪掻きをしている人たちがテレビに映し出されています。どうして夏は災害級の猛暑、冬は災害級の降雪になってしまうのか、気候変動が明らかにおかしくなっているとしか言いようがありません。さて、今日は三連休の最終日になります。教職に就いていた頃は、連休は創作活動に取り組めるので嬉しい限りでしたが、退職した今となっては毎日が創作活動なので、あの頃のような嬉しさも焦りもありません。毎日、陶彫制作が継続していて、ただ只管陶土に向かい合っている自分がいるのです。今日も朝から工房に籠っていました。昨日のNOTE(ブログ)に書いた制作サイクルがあるので、作業を休むことは出来ません。作業台の近くに置いたストーブで手を温めながら、彫り込み加飾に精を出していました。彫り込み加飾はあまり身体を動かすことはなく、大小の掻き出しベラと陶土の表面を滑らかにするための木ベラを使って、レリーフ状にした形を仕上げていくのです。どちらかというと工芸的な作業ですが、立体としての効果が結構あるので、重要な制作工程なのです。私の陶彫作品は比較的簡素な形態に装飾を施すことで、そこでも動勢を創出することが出来ると思っています。私は工芸的要素も絵画的要素も勿論立体的要素も自らの世界観に取り入れています。描写性がないだけで、何でもありの世界だなぁと思っています。