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  • 益子より陶土が560㎏届く
    現在作っている陶彫立方体に使う陶土が少なくなり、先日、栃木県益子町の明智鉱業に陶土の注文をしました。まず電話で私が購入予定の陶土がどのくらい在庫があるかを尋ね、それから依頼のファックスを送ることにしています。いつもなら800㎏をお願いするところを、在庫の関係で今回は560㎏にしました。その陶土が今日の昼頃に工房に届きました。毎回注文しているので、店も搬入業者も慣れていて、2人の業者が工房の中に運び込んできました。現在作っている陶彫立方体は数が多いので、例年より陶土の量が多いと実感しています。私は材料が届いたことで安心し、陶彫制作を先に進めることにしました。益子町の明智鉱業とは長い付き合いになります。私が30歳でヨーロッパから日本に帰ってきた時に、作品には陶を使うことを決めていて、それを茨城県笠間に住む陶芸家の友人に相談していました。その友人から紹介されたのが明智鉱業でした。もう30数年前になりますが、その頃は店にお邪魔して、実験に使う陶土や釉薬を調達していました。陶土や釉薬のテストピースを作るために少量ずつ購入していたのでした。必要な道具も購入しました。当時、友人や店の人から丁寧なアドバイスを受け、私は材料を横浜に持ち帰って実験を繰り返していました。それから数年して現在の「発掘シリーズ」の概要が見え始めてきた頃に、大量の陶土をファックスで注文し、横浜まで運搬してもらうことにしたのでした。「発掘シリーズ」を作り始めて20数年が経ち、私はずっと明智鉱業に頼っています。陶彫制作には材料の調達から窯のメンテナンス、さらに木彫や木材と合わせるためにそうした多くの人や店との付き合いが欠かせません。さまざまな業種の人たちから支援をしていただいていると私は感じています。ギャラリーも含めて私が関係する方々には末永く健在であってほしいと願うこの頃です。
    週末 空間変容の再確認
    週末は創作活動のことについて書いていきます。先日、千葉県の美術館で見た「カール・アンドレ」展で、彼が造形として主張したミニマル・アートの主旨はさておき、私自身が展覧会場で感じたことを踏まえて、彫刻の在り方を取り上げてみたいと思います。これは私の個人的な感覚に頼った文章であることを予め断っておきます。アンドレの作品群が点在する広い部屋で、私はそれらを見渡し、素材の集積が周囲の空間に与えている影響を考えていました。作品と言っても、アンドレの場合は木や金属といった素材そのもので、それを彫り刻むような造形は皆無です。私が彫刻を学び始めた頃は、習作として人体塑造をやっていて、周囲の空間を意識することはありませんでした。彫刻は空間芸術であると認識したのはずっと後になってからで、空間に何か物質が置かれると、そこの空気が変わり、それを鑑賞する側が認知して空間を味わうのだと理解しました。雑駁なことで言えば、都市の中に新しい建造物が建つと周囲の雰囲気が変わるし、インテリアでも何を置くかで室内が変わります。彫刻にも空間変容の刺激剤としての役割があると私は考えます。私見として、彫刻に全体的な造形要素が付与されていると、それを取り巻く空間が小さくなるように私には思えます。さらに工芸的要素があると、その巧拙に目がいってしまって周囲の空間を感じられなくなるというものです。具象傾向の作品にそれが顕著だろうと考えます。つまり造形の対象は何か、どう作られているか、そこに鑑賞者の興味が移ってしまい、全体の空間を感じ取ることが希薄になるのです。私はアンドレのように素材を突き放すことができませんが、それでも空間を見せたい場合はどうすればよいか、造形を最小限にしてみるべきか、陶彫のもつ素材の存在感は充分にあるはずで、錆鉄のような鎧を纏った陶彫を、空間変容最大の武器にしたいと私は考えているのです。どこまで作り、どこを余白として残すか、細工ではなく、場としての空間を考える時に、私の造形は漸く空間が変容する芸術に到達すると思っています。
    週末 卒制&彫刻展の1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は2回の美術鑑賞の機会がありました。まず、月曜日は工房に出入りしている学生が在籍している女子美術大学の卒業制作展に、教え子3人を連れて行ってきました。工房に日頃から学生がやってくるからこそ、私にはこうした機会があるのです。同行した学生の一人が私に「日本画がどれも秀逸で心に残った」とラインを送ってきました。教え子の中には感受性の鋭い子もいて、私は彼女たちに精神的に支えられていると感じます。木曜日は家内と千葉県の美術館に、カール・アンドレの展覧会に行ってきました。家内は「これはやった者勝ちだね」と感想を漏らしていました。ミニマル・アートがどうのこうのと呟くより、一言で片づける家内のコメントに目から鱗が落ちました。これも私の心を支えてくれる一言に違いありません。今週は陶彫制作に精を出していましたが、鑑賞も充実していて、理想的な1週間だったと思っています。とりわけカール・アンドレの作品に、私自身考えさせられる要素があって、それが陶彫制作に微妙に影響を及ぼしています。彫刻は物質を介在した哲学なのだと、私は以前NOTE(ブログ)に書いたことがありましたが、陶彫制作をしながら、造形哲学についてあれこれ考えを巡らせていました。私はミニマル・アーティストのように素材を突き放すことはできません。陶土を手でつけたり削ったりしながら、そこに取り込まれそうな気持をコントロールしつつ、自分にとって素材とは何だろう、どんなふうに付き合っていけばいいのだろうと考えていました。人体塑造をやっていた頃は考えもしなかったことが、今はその頃の五十歩百歩のような造形をやっているに過ぎないのに、何かが違うような気がしています。もう少し時間をかけて考えたいので、明日のNOTE(ブログ)にこの考え方の継続を綴りたいと思います。
    千葉県佐倉の「カール・アンドレ」展
    昨日、千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館で開催されている「カール・アンドレ」展に行ってきました。副題に「彫刻と詩、その間」という言葉がついていて、カール・アンドレが求めた世界観が彫刻の物質だけではなく、詩としての言語にもあることが示されていました。その詩を私は今一つ理解できませんでしたが、隣室にアンドレの関連する世界として展示されていたフランク・ステラの「ブラック・シリーズ」は、アンドレの発想源として理解できました。図録より空間作品に関わる箇所を拾います。「1960年に構想された〈エレメント〉は~略~極めて簡素な角柱をその名の通り『要素』として大きな積み木のように組み替えることのできる、可変性のある『彫刻』だ。角柱を一つだけ立てた、基本となる形体のタイトルは、古代ギリシャ時代の道路標識で、ヘルメスの胸像を乗せた角柱を意味する《ヘルメ》と付けられた。幾何学的で一般的な形体を用い、それを作品とみなすこと、同一のユニットを複数用いること、切断も接合もしないことは、その後アンドレが広く展開する要素であり、その萌芽となる作品と言える。」またアンドレは彫刻をこんなふうに分類しています。「アンドレは近代彫刻史の発展を『形(フォーム)としての彫刻、構造(ストラクチャー)としての彫刻、場(プレイス)としての彫刻』と独自に解析する」これに私は共感を覚えました。「アンドレは唯物論者(マテリアリスト)、つまり意識に対する物質の根源性を主張する考えを持った作家で、写真や言葉を通して二次的に作品を知り、理解されることをひどく嫌った。事実、アンドレの作品の前に立つと、木の匂い、割れ、ささくれ、錆が出た金属、アルミニウムの光沢と曇りといった多くの情報が質量を伴った物質として現前し、『そこにあること』の意味が感じられる。」(引用は全て杉浦花奈子著)カール・アンドレの立体作品は実際にこの眼で見ないと分からないと、私が咄嗟に思ったことは間違っていなかったようです。アンドレの彫刻分類で言えば「場(プレイス)としての彫刻」に本展の印象が集約されていくと私は考えました。
    陶彫制作&千葉の美術館へ
    今日は朝早くから工房に行き、陶彫制作をしていました。陶彫制作では、毎日自分でノルマを課し、ひたすらノルマを達成している感があります。ただし、自分を追い立てて余裕がなくなるのを避けるために、私は時折美術館に鑑賞に出かけているのです。実技と鑑賞は車の両輪と私は自分に言い聞かせていて、空間芸術は物質を介在する哲学でもあるとも考えています。そんな意味も込めて、今日は昼前に横浜の自宅を出て、千葉県にあるDIC川村記念美術館に車で向かいました。今日は家内が同行してくれました。DIC川村記念美術館で開催していたのは「カール・アンドレ」展で、カール・アンドレはミニマル・アートを代表する米国人作家で、今年の1月に逝去しています。ミニマル・アートとは抽象表現主義の主観を否定し、感情やニュアンスといったものを排して匿名的な形体や構造をもった、何ものをも表現しない彫刻や絵画を指すものです。私は学生時代にミニマル・アートの旗手ドナルド・ジャッドの作品を見て、ついに芸術はここまできたかと思ったのでした。ただし、カール・アンドレの立体作品はやや趣が違っていて、確かに匿名的な形体ではあるけれども、素材が木や鉄であるため、木の特徴である木目や裂け目がそのままあって、何ものをも表現していないはずが、芸術家の作為とは別の要素が加わっていたように思います。鉄板を並べた作品もそれぞれに錆がついていて、乾いた情緒が感じられました。確かに作家が素材を彫り刻むような行為はしていないので、「もの」派のように素材は素材のまま存在していたわけですが、そこに意図的な潔さがあって、私としては同時に心地よさも感じました。広い部屋に点在する素材の集合体は、その空間との関わりが私の感覚のツボを刺激したらしく、展示風景に満足していました。詳しい感想は後日改めたいと思います。今日は充実した一日を過ごしました。