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  • ドイツの芸術家アンゼルム・キーファー再考
    昨日は工房での作業を早めに打ち切って、映画「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」を横浜の中心地にあるミニシアターに観に行きました。私一人で行くはずが家内が同行してくれました。ドイツの芸術家アンゼルム・キーファーは、私の中で圧倒的に存在感を増している芸術家であり、彼が創り出す荒涼たる廃墟のような心象風景は、第二次世界大戦後のナチス・ドイツ政権の終焉と無関係ではありません。戦後、ドイツの人々が罪悪感から立ち直り、未来に向けて歩み出した頃に、キーファーはナチス式敬礼の画像を複数の場所で撮影し、批判を浴びていますが、過去を忘れず足元を見つめ続ける芸術家の造形行為の在り方が示されているのではないでしょうか。「芸術家キーファーが現代ドイツ史に対峙する際に敢えてスキャンダラスな形式を選んだことは映画に示される通りだが、一方で神話や歴史をモティーフとしたモニュメンタルな作品の耽美と深遠な時間への思考は、皮相な諧謔家とは全く異なる真摯なアートへの信頼を感じさせる。この愚直な真摯さこそキーファーとヴェンダースという二人のアーティストをつなぐ鍵となるのではないか。」(渋谷哲也著)また、キーファーが使用する素材に関してはこんな論考もありました。「キーファーの作品には、いくつものキーワードが潜んでいる。よく言われるのは歴史、物質、時間、神話、神秘思想などだ。大きな枠組みとしてはそのとおりだろう。”物質”は鉛の本のようなものから(キーファーにとって鉛は第一質量=プリマ・マテリアである)、カンバス上に貼り付けられた藁や金属、ガラス片、灰や衣服に至るまでさまざまだ。絵の具に拘泥しない、でも確固たるマチエールが存在する。それをキーファーはペインティングのなかにさまざまな物質を放り込むことによって顕現させている。」(長澤均著)映画では工場のようなキーファーのアトリエが登場してきて、作品の間をキーファーが自転車で移動していきます。勿論素材もあちらこちらに置いてあり、金属を溶かしたり、藁を焼くシーンがあって、私は制作のスケールに驚きました。最後に翼のある巨大なモニュメントが出現するのは、キーファーが未来に対して希望を灯しているように感じたのは私だけでしょうか。
    映画「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」雑感
    過日、ドイツの芸術家アンゼルム・キーファーの雛型作品による展覧会を見に行きました。キーファーは1945年生まれで、本作の監督ヴィム・ヴェンダースも同年の生まれ。つまり第二次大戦が終結し、ドイツ・ナチスの支配が終わった年でした。彼らは廃墟の中で育ったわけで、造形作品が廃物を集めてスケールの大きい世界を構築するのは、そんな環境とは無縁ではないはずです。ともかく工場のような広大な空間に置かれた作品は、灰と鉛で描かれた歴史の負の産物のように見えました。映画「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」を観て感じたことが、図録に掲載されたヴェンダース監督の言葉によく現れています。「私たちはまた、アンゼルムの幼少期の場面を再現し、彼の歴史を掘り下げていった。その過程の中で私たちは、過去と現在の境目を曖昧にした。芸術と向き合う時は、自分で自由を確立しなければならないため、私たちはその自由を利用した。そうしなければ、目の前で起こっている卓越の一部になることはできない。」日本でアンゼルム・キーファーを知る人は少ないと私は思っています。私も嘗て箱根にある彫刻の美術館のギャラリーで大規模なキーファーの展覧会をやっていたので、記憶に留めていたのに過ぎませんが、先日の東京での小規模な展覧会といい、今日の夕方に出かけた映画といい、それなりに鑑賞者がいたのには驚きました。キーファーの作品には思わず惹き込まれる要素があります。それは廃墟には未来が見える、何かが始まる場所なのだと言うキーファーの言葉があるからなのかもしれません。私も今は実家の大黒柱を自分の創作に使おうと喘いでいるところですが、キーファーの素材に対する解釈に何かヒントがもらえればいいと考えていました。私はキーファーと違って、戦後になって世相が落ち着いてから生まれたので、戦後間もない惨事は経験していませんが、それでも自身の振り返りをして、自分が今までどう感じて、この日本で生きてきたのかを問うてみたいと思います。創作活動は小手先ではないということを改めて感じさせてくれた映画でした。
    古木よりイメージを膨らます
    来年の個展発表を見据えて、新作を考えています。例年なら現行作品の制作中に、その発展形としての新作が湧いてくるか、降ってくるのですが、今回は実家の大黒柱を中心にした新作を思い描いているので、なかなかイメージがまとまらないというのが現状です。工房の隅にあった何本かの大黒柱の1本を作業場に引きずってきました。じっくり眺めて、用途を失った太い柱をどのように再生しようかが思案のしどころになっています。私の作品には過去にも木材と陶彫作品を併用したものがありますが、それは陶彫の世界をよりよく見せるための演出として、副次的に使用していました。作品の中には木材だけの作品もありますが、そこに陶彫が絡むことは稀でした。新作は古木と陶彫を組み合わせて一体化を図ろうと考えています。古木は釘の穴があちらこちらにあって、ほとんど廃材です。それでも祖父母やそれ以前の祖先が暮らした母屋を支えてきたので、妙な迫力があって、そこに敬意を払いながら、陶彫形態とのコラボレーションを考えていくつもりです。まず、自分がイメージした発掘風景を捉えて、その上で古木と陶彫をそれぞれ組み合わせて説得力のある表現を生み出していかなくてはならないのです。異質な素材は同化はしないけれども、双方を活かす方法がきっとあるはずです。まず、作業場の眼の触れる場所に古木を置いて、常に見て、常に考えていこうと思っています。イメージを膨らませる手段として、まず対象を見つめることから始めます。私は紙上でのエスキースはやりません。印象を刻み込んで、頭の中で幾度もイメージを更新していくのです。手を動かす前に、じっくり眺めて、思索を練ることが第一歩になるかなぁと思っています。
    「抽象芸術の本質と性格」について➁
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅰ 抽象芸術の本質と性格」の前回の続きとして、気になった箇所をピックアップいたします。「古代芸術の作品においても、またいわゆる異国芸術の作品においても、純粋な抽象(自然の原型から切り離された)を二次的な抽象(自然主義的形態の様式化を通じての)から識別することは非常に困難である。実際にこれら文明の種々の形態は、様式の一大語彙集の観があり、われわれはその語彙を不完全に用いているにすぎず、またこれらの語彙の内容はわれわれをとまどわせるに十分なのである。だからわれわれとしては、抽象精神がひとつの普遍的な恒常数であり、この上もなく隔った諸文化のうちにも等しくみられるということ、そしてそれは、おそらく、ヴォリンガーが暗示し、われわれもすでに定義したところの根源的な観念から発しているにちがいないということをここで確認するにとどめよう。」模様についての論述がありました。「組飾り模様ーギリシャ雷文、ジグザグ、中国の雷文ーや、その無数の派生形態の象徴的意味とはなんであろうか。大よそのところつぎのように言えるだろう。すなわちそれらは、永遠回帰の欲求、調和的で規則的なリズムをもち、動的なもののなかに秩序と静的なものをもたらす、途絶えることない運動の欲求、動くもののなかの持続の欲求を意味しているのだ。このようにして、この欲求は空間恐怖を克服し、われわれの視線と精神を、不変な持続のイメージの上に規則的な間隔を置いて安定させ、かくして苦悩と絶望の生まれる源である不確実さ、疑惑、混乱の入りこむ余地をなくするのである。螺旋は、これまた抽象芸術の不変なもののなかで優位を占めるモティーフだが、これもまた明らかに同じ欲求から生じたものであり、芸術のあらゆる始源形態、つまり記念物や墳墓や巨石時代の《アレ・クーヴェルト》などの装飾のうちに螺旋がみられるというのも、この理由からである。」組飾りや螺旋は、抽象形態として定義するとこんなふうになるのかと改めて知りました。今回はここまでにします。
    東京の展覧会を回った1日
    私の個展にやってきた人たちの中で、私と同じ横浜市立中学校の校長職にあって、書道を続けている人がいます。来年、彼を退職校長会のグループ展「如月会」に誘った私としては、彼の出展作品を確認したいと思い、東京六本木にある国立新美術館で開催されている「第75回 毎日書道展」に行ってきました。書道展は出品者数が多く、受付で展示場所を教えていただかないと、彼の作品まで辿り着けないのです。彼は漢字の部で、会員になっています。彼の作品はオーソドックスで、書道らしい書道ですが、作品の中には抽象絵画と見紛うような斬新なものがあって、書道表現の幅の広さが伝わってきました。私は落款にも興味があるので、彫られた印にも注目していました。美術作品とはまた異なる雰囲気があって、彼から送られてくる招待状で、毎回書道の世界に遊んでいるのです。その次に向かったのは東京銀座で、先週まで私が個展をやっていたギャラリーせいほうの近くにある「うしお画廊」に行きました。横浜市の教員仲間が独立美術展に出品されていて、彼女はここで「七月の光」と称したグループ展をやっているのです。例年大作を出されていて、このところ私は毎年作品を見させていただいています。最近は人物の風貌を画面いっぱいに点描で表現されていますが、旧作はシュルレアリスム系の作風を持っていたようで、写真で旧作を拝見させていただきました。時が経つに従って、主張するものが整理されてきた感じがしました。まだまだ作風が展開していくようで、将来が楽しみな女流画家だなぁと思いました。もう一人、モダンアート展に出品をしている教員仲間がいて、私の個展に来ていただいたので、彼の横浜でのグループ展にも顔を出そうと思っていますが、今日はそこまで回れませんでした。日を改めたいと思います。