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  • 「脱ー文化としての彫刻」について
    「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「5 脱ー文化としての彫刻」について、気に留めた箇所をピックアップいたします。「アルテ・ポーヴェラ(イタリア語で『貧しい芸術』の意)とは、1967年、イタリアの批評家ジェルマーノ・チェーラント(1940-2020)によってジェノヴァで組織されたグループ展に端を発する動向であり、20世紀後半を代表する芸術実践として名高い。~略~アルテ・ポーヴェラのポーヴェラについて。この芸術動向のいったい何が『貧しい』のだろうか。一般には、非芸術的で安価な素材ないしありふれた原料を、隠さず呈示する作品制作に、『貧しさ』が見いだされるだろう。」たとえばボロきれや新聞の束、石炭など伝統的な芸術とは無縁なモノを指しています。代表的な作家としてジュゼッペ・ペノーネを取り上げています。「接触・反転・表面をめぐる若きペノーネの彫刻実践が、写真によって支えられ、拡張されていたことは明らかである。彫刻と写真の関わりを論じる本書にとって、ペノーネの存在はきわめて大きい。いや、大きいだけではなく、いっそう根本的である。というのも、ペノーネの写真以外の作品(立体やドローイング、インスタレーション)もまた、写真の原理や方法、プロセスに深く結びついているからだ。転写・痕跡・現像(展開)・拡大といった写真的な要素を、彼は直截に、そしてしばしば意表を突くかたちで、自作に取り入れてみせるのである。~略~ペノーネは言う。『つまるところ、彫刻をとおしてつくっているのは、文化的産物ではない何かだ』と。たしかにそうかもしれない。~略~『文化的産物ではない何か』としての彫刻/脱ー文化である。さらにこの脱ー文化は、かつてトルボット(ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット)が写真を『自然の鉛筆』と呼んだことともつながりそうだ。写真の感光・現像のプロセスは化学的であり、つまり自然の側にある。」今回はここまでにします。
    「展開された場としての写真」について
    「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「4 展開された場としての写真」について、気に留めた箇所をピックアップいたします。「『展開された場における』彫刻=写真を見るとき、私は《地獄の門》、《バルザック》以後の彫刻が、クラウス(批評家ロザリンド・E・クラウス)が主張するように、台座からの解放(モニュメントの失効)を契機に、一定の論理の下、展開したというよりも、むしろ彫刻への写真の浸透という別の観点において、連続、一貫しているのでは、と問いたくなる。言い換えれば、彫刻が台座から離れ、ノマド化したというよりも、その切断を可能にし、ノマド化に拍車をかけた媒体こそが写真だったのではないか、ということである。」この文章は当時登場してきた風景を造形化する環境彫刻が念頭にあります。有名なのは海岸に渦巻き状の造形をしたロバート・スミッソンで、作品を撮影することで成立した一例です。もう一人、ディヴィッド・スミスの彫刻を取り上げます。「スミスはそもそも画家を志していたのだが、1931年からファウンド・オブジェを用いた立体作品の制作を開始。1933年、フランスの美術雑誌『カイエ・ダール』に掲載されていたフリオ・ゴンザレス(1876-1942)の溶接彫刻を見たことをきっかけに、鉄の彫刻に着手する。~略~スミスの作品を語る際、くりかえし強調されてきたのは、その二次元性である。スミスと同世代の批評家、クレメント・グリーンバーグによれば、『モダニズムの〖還元〗の下、彫刻は、絵画それ自体と同じほどに、その本質においてもっぱら視覚的と言い得るものとなった』。彫刻においてもまた『〖純粋性〗への欲求は、まったき可視性にいっそうの重きを置く一方で、触覚的なものとそれから生じる重量感や不透過性といった連想を軽視する、その方向で機能する』(新しい彫刻1958年)~略~撮影に際しては下から作品を仰ぐようにカメラを据え、台座部をなるべく写さず、彫刻が宙に浮いているように見せることを好んだ。背景の丘の木の高さに彫刻の端を近づけるなど、周囲の景色をよく取り込んだ写真も多い。スミスが写真に拘ったのは、その二次元志向はともあれ、一つには自作についての人々の理解を高めるためだった。出版によって、展覧会を訪れていない人にも自作をよく知ってもらうための工夫を、写真にも凝らそうとしたのである。」この考え方は私も同じで、私が毎年図録を作っているのは自作の広報のためでもあると思っています。私にとってアナログな彫刻と同じくらいデジタル画像が大切なのです。今回はここまでにします。
    来年に向けて新作開始
    昨日、今夏ギャラリーで発表する作品の図録用撮影をしたばかりですが、今日から来年に向けた新作の制作を始めました。昨日、野外工房や室内工房で撮影した作品は、まだ完全に完成したわけではなく、たとえば「発掘~坪庭~」の土台部分の裏側の塗装が出来ていなかったり、「発掘~記録~」のサイン代わりになる印をつけた和紙がまだ貼られていなかったり、平面RECORDは展示用パネルに取り付けができていないことがありますが、そうした補填作業と並行して、来年に向けた陶彫作品を作る準備を始めたのでした。来年の作品は今年と同じ「発掘~記録~」です。「発掘~記録~」は、最終的に365点で完成するので、これから残りの作品を継続して作っていくのです。つまり中断せず休まずに作り続けることが、このコンセプトを完遂するために必要なのです。私自身は作品世界が完結することを考えていないので「発掘~記録~」にしても、365点が出来てしまったら、そこから発展して何かしらのビジョンを導き出し、さらに先の方向性を定めていくつもりです。朧げな目標に対し、足元の一歩を踏み出すことを、私は自分の信条としています。陶土を使うのも自らの世界観を表すための手段であって、彫刻のための彫刻ではなく、自らの世界観を表すためには彫刻表現やその方法が一番合っていると思っているのです。現在の自己表現として私が求めているのは彫り込みのバリエーションです。それを立方体にして積み上げると、建築的な興趣が生まれ、組み合わせによる遊戯性も漂います。造形美術は鑑賞者に心のゆとりや遊び心を与えるもので、深い精神性に限らず、癒しも与えるものではないかと私は考えています。そうした世界観の獲得には小さな一歩を蓄積していくのがいいと自分なりに思っています。今日から始めた新作の制作には、また長い工程が待っています。
    週末 18冊目の図録の撮影日
    個展用の図録は今回で18冊目になります。設置に手間のかかる集合彫刻を作っている私は、作品を見せるために図録が絶対に必要で、デジタルな画像を駆使して作品の楽しさを伝えています。また図録の撮影日は、今夏ギャラリーで発表する新作の完成日にもなるのです。今日は晴天に恵まれました。振り返ってみれば、図録の撮影日は晴れた日が多く、幸運にも恵まれているのかなぁと思ってしまいます。私が気になっていたのは「発掘~記録~」の件で、151点の陶彫立方体で構成する作品ですが、その全体構成の仕方はその場で決めていく方法をとっていたことです。それは杞憂であることがすぐ分かりました。手伝ってくれたスタッフが美術系の人たちばかりだったので、構成の仕方は即刻決定し、まさに遺跡の敷石のように集合と分散を巧みに組み合わせた空間演出が、あっという間に出現しました。「発掘~坪庭~」の玉砂利を配した構成も想定通りになって、私は満足を覚えました。今日は懇意にしているカメラマン2名、スタッフ5名、家内と私の合計9人で午前11時から撮影が始まりました。スタッフの中には週末に制作にやってくる後輩の彫刻家も含まれていました。まず野外工房で撮影し、その後室内に移動しました。図録の表紙に使う画像は2階ロフトから1階床に置いた陶彫作品を撮影してもらいました。平面RECORDは1月分から5月分まで1点ずつ撮影して、それをデータ上で加工する方法を取っていきます。結局、全部の撮影が終わったのが夕方4時を回ってしまいました。作品数が多かったことで、今日は仕事量が膨大だったこともあり、手伝ってくれたスタッフに改めて感謝いたします。私は気持ちが張り詰めていたせいか、スタッフを送って自宅に帰ってきたら、疲れがピークに達しました。充実した1日であったことは確かです。
    週末 撮影前の1週間
    図録用の撮影日が新作の完成日になる関係で、今週は全作品が無事に完成することを祈る1週間でした。というのも、陶彫には最終工程として焼成があり、窯に入れると人の手が及ばない世界が待っています。そこでは無事に作品が焼き上がるのをただ祈るしかなく、今週の最後になって窯に入れた「発掘~坪庭~」の陶彫部品4点が気がかりでした。無事に焼き上がってホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、「発掘~坪庭~」の土台制作に取り掛かりました。「発掘~坪庭~」は従来の作品と同じような制作工程を踏んでやっていきましたが、何とか砂マチエールとそこに染み込ませた油絵の具が一刻も早く乾燥することを願っています。昨日は図録の雛型作りと新作陶彫に欠かせない新しい印のデザインをやっていました。正直に言えば、よくぞここまで辿り着けたものだと思っています。今週は作品撮影に向けた気忙しい1週間になりましたが、教職にあった頃に比べれば、気持ちは落ち着いていたように思います。毎日工房に通って制作に邁進できることが、以前の生活よりも精神的に安定したものになっているのだろうと私自身は振り返っています。もうひとつ気がかりなことがありました。台風接近に伴う天候で、撮影日に暴風雨になっていたらどうしようかと思っていたことです。台風は日本各地に甚大な被害を齎せたものの、明日は台風一過で晴れる模様です。これにもホッと胸を撫で下ろしました。まず明日の撮影が無事に終わることを考えたいと思います。