Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 記念展搬出&陶彫制作の1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況も先週に続き、新作陶彫である6つの塔の二段目にあたる成形をやっていました。今週の月曜日は、清交会65周年記念展の受付が午前中にあり、午後は同展の搬出作業をやっていたので、工房に行くことは出来ませんでした。本展に関わったことで、私は多くの元校長と話す機会がありました。彼らとは旧知の仲もあり、懐かしい思い出に浸れましたが、5年前まで私は確かに教育現場にいて、厳しい状況に陥っていたことも甦ってきました。今は創作活動に明け暮れていますが、当時は無我夢中で学校経営をやっていたのでした。その時苦しいとも思えなかったのは私が当時勤めていた学校の組織がしっかり機能していたんだなぁとも思っています。私が運の良い管理職だったと言えるのは、その時の教職員のおかげです。本展開催中はそんなことも考えていましたが、火曜日以降は未来に向けた創作活動に邁進しています。手元の陶土に触れながら、作品の置かれる空間の事をいつも考えていて、最終的にどんな空間を画廊内に作りだそうか、完成した空間演出をイメージしながら作業をしているのです。今週は9月から10月へ移りましたが、私自身は特別なこともなく、毎日陶彫と格闘しているという実感があります。10月初日のNOTE(ブログ)に書きましたが、新たな試みとして壁を這う造形をどうすべきか、陶彫制作の合間にいつも考えています。これは今年の夏に個展で発表した「炭景」とも異なる世界観を持っているので、雛型を作っていこうかとも考えています。私はあまり雛型を作るタイプではないのですが、新たな試みをする場合は今までも雛型を作ったことはあります。来週は映画を観に行く予定があるので、そのついでに画材店に寄って雛型用の材料を調達しようと思います。
    「描かれた暴力」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第8章である「描かれた暴力」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はパブロ・ピカソの絵画についての考察です。「さまざまに変化していったピカソの画風のなかで、けっして変わらなかったのは、モデルに対する態度である。友人や愛人たちがいうように、ピカソは他人に深く共感することができなかったのだろう。そのせいで、他人の肖像画を描くときも、結局は自画像になってしまうのだ。~略~ピカソの絵画では二つの感情が同時に燃え上がる。《泣く女》では彼女の個人的な苦悩、《ゲルニカ》では人類共通の苦悩。ピカソが《泣く女》を描いたのは1937年10月だが、それまでの1年以上をかけて、動揺するマールの顔をスケッチしてきた。《ゲルニカ》は1937年5月に完成したが、それから1年以上もあとまで、ピカソは雄牛、馬、鳥、虐殺される人びとの姿をスケッチしつづけた。どの時間軸をとるかで、これらの傑作に対する見方は変わる。《泣く女》の制作が《ゲルニカ》の前と考えるなら(ここではその立場をとる)、私生活で意図的に生みだされた苦悩を用いて、戦争という状況下で起こった残酷な行為ー空中爆撃で一般市民を虐殺することーを批判したということになる。《ゲルニカ》が先だと考えるなら、社会的な暴力という大きなテーマに用いられたイメージが、恋する女を客観的な冷静さで描くための一つの試みとして利用されたということになる。順番がどちらでも、一方の側には強烈な苦悩が表現されていて、それが想像力に働きかける力はとても強く、見る者の心に同情と反発を引き起こさずにはいられない。そして、もう一方の側には、計算された苦しみという試練が待っている。どちらも肖像画の現実の一部なのだ。~略~彼女(マール)はピカソの暴力にさらされただけでなく、あらゆる男、すべての男にとって暴力の標的になり、おあつらえむきの犠牲者として、路上で襲われ、盗みの被害者になった。彼女はピカソの創作のはけ口、一時的なミューズとなっただけでなく、彼を神そのものへ、聖なる天へといざなう導き手にもなった。」今回はここまでにします。
    10月は創作に適した1ヵ月
    10月になりました。昨年10月のアーカイブを見ると、まだまだ残暑が続いているにも関わらず、既に窯入れを行なっていることが書かれていました。今年も10月になって、愈々新作の完成に向けて制作に拍車をかけていこうと思います。今月は新作陶彫の土台となる6点の部品の窯入れを行なっていく予定です。幸い先月は雨が多かったものの気温は涼しくなってきていて、窯入れには最適な季節がやってきたなぁと思っています。同時に新作6点の塔の一番上になる三段目の陶彫をどうするか、土台や二段目の陶彫のようなタタラと紐作りの併用でやっていくには塔が細くなりすぎて無理が生じるかもしれないと思っています。私の頭にあるのは石膏で型を作って、内側に陶土を貼り付けていく方法ですが、久しぶりの石膏取りを思い出しながらやっていくしかないかなぁと思っています。20代の頃、人体塑造をやっていた時は石膏取りをして、雌型の内側に分離液を塗り、そこに石膏を流し込む方法が、作品保存をしていく唯一の方法でした。つまり、粘土を石膏に置き換えるのが目的で、石膏になると粘土は形を残さず、雌型になった石膏は壊してしまうのです。今月はその石膏の雌型を作る決断をしていくつもりです。もう一つ、陶彫による塔とは異なる世界を形成する壁を這う造形を予定していますが、まだイメージが定まりません。頭の中のアップデートは毎日繰り返していて、それは一日1点ずつポストカード大の平面作品を制作しているRECORDで最初の段階から記録しています。それでもいま一つ心に響きません。これにはさらに時間をかけたいと思っています。10月は鑑賞も充実する1ヵ月になり、美術館やら映画館、その他のところに出かけることが増えてきそうです。常に情報に気をまわして、優れた作品を味わいたいと願っています。芸術の秋という快い言葉に気分が揚がります。今月は実技と鑑賞を両輪にして、行けるところまで行きたいものです。
    雨の多かった9月を振り返る
    今日で9月が終わります。今月を振り返ると頻繁に台風がやってきたこともあり、また秋雨前線の影響により長雨が続きました。湿気が多いのは陶土が緩やかに乾燥するので歓迎するところですが、私自身の体調面では歓迎できないところもありました。今月の制作状況は6つの塔で構成する、陶彫新作の土台になる6点の陶彫部品が乾燥するのを待っている状態です。現在はその上に設置する2段目の陶彫部品が5点、乾燥を待っている状態になっていて、最後の1点は今日から作り始めました。乾燥を待っている状態というのは、成形と彫り込み加飾が終わっている状態のことをいいます。乾燥が進むと仕上げと化粧掛けを施して窯入れをするので、新作はまだ1点も完成していないことになります。さて、今月は退職校長会である「清交会」65周年記念展(かなっくホール・ギャラリーB)があり、知り合いの元校長に依頼され、私も展覧会運営に関わりました。今月の鑑賞では4つの美術館に出かけました。「奥村土牛」展(山種美術館)、「絶滅写真」展(東京国立近代美術館)、「光  凛とゆれる」展(東京都現代美術館)の他に、相原工房を利用している後輩彫刻家が会員をしている「二科展」(国立新美術館)の4つで、美術鑑賞としては充実した1カ月だったと思っています。とりわけ「絶滅写真」展を開催した美術家杉本博司と「光  凛とゆれる」展を開催した故彫刻家多田美波は、私がずっと注目していた作家で、彼らのまとまった作品が見られたことが嬉しかったし、自分の造形を考える上でも貴重な機会を与えられたと思っています。映画では「オデュッセイア」(TOHOシネマズ鴨居)を観てきました。ギリシャ神話のエピソードを壮大なスケールで映像化した作品に満足を覚えました。西洋文化発祥という礎に、私は東洋人として若干違和感を抱きながら米国製エンターテイメントの楽しみの方が優っていて、それは万国共通なのかなとも感じました。読書では「奇想の美術館」を読んでいますが、著者の独特な感性と言い回しに翻弄されながら、それも楽しみながら内容を咀嚼しています。引き続き来月もこの調子でやっていきたいと思います。
    「反射としての自画像」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第7章である「反射としての自画像」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ある意味で、すべての肖像画は見る者を映しだす自画像である。『目は見ることに飽くことがない』ので、私たちは肖像画を自分の知覚と経験に照らしあわせる。芸術作品の錬金術のなかで、あらゆる肖像画は一枚の鏡になる。~略~古代ギリシャ人は、鏡に映ったイメージについてどう考えていたのだろう。プラトンの時代、ソフィストたちは、鏡に映じた姿を、肉や骨という生身の存在の虚構性と同時に考えていた。彼らにとっては、どちらも幻影なのだった。プラトンに晩年の対話では、こうした考えをからかい、ソフィストたちはただ目をつむって、自分の感覚がもたらす情報を受け入れまいとすることで現実ー『実体』や、あるいはそのイメージーを拒否しているだけだといった。~略~鏡は、私たちの体がまとう虚しい装飾を映しだすが、同時に真実の光を投げかけて、思慮深い人生に啓示を与えもする。鏡には、マルタとマリアという二つの性質が備わっている。マルタは現実の世界と肉体そのものを見る。マグダラのマリア(ここでは、マルタとマリアは姉妹である)は人の内なる魂を見る。実際のところ、この二つの側面は、マグダラのマリア一人のなかに共存している。~略~すべての肖像画が鏡だとしたら、誰もが見ることのできる開かれた鏡だとしたら、私たち鑑賞者は、その作品に感情と意味を与えることによって、さらにその肖像画を映す鏡ともなる。戦士は死にゆく自分の顔を盾に映して見るが、彼自身の顔は、その人間らしさのなかに、世界の誕生と成長と死を反映させている。こうした明らかな役割の混乱、アイデンティティのもつれ、すなわち創作者とその作品、肖像画と鑑賞者が溶けあい、また分離することによって、反映されたイメージのなかに(どんな芸術作品にもいえることだろうが)緊張が生まれる。」今回はここまでにします。