2026.08.27 Thursday
先日、上野にある東京国立博物館平成館で開催している「空海と真言の名宝」展に家内と行ってきました。図録には「宝亀五年(774)に生を受けた弘法大師空海は、令和五年(2023)に生誕1250年を迎えた。」とあり、密教を日本に広めた業績により空海は大師と呼ばれる不動の存在になりました。「密教とは顕教に対して用いられる用語である。顕教は釈迦のような歴史的に実存した応身仏や請願によって成仏した阿弥陀のような報身仏の教えであるのに対し、密教は宇宙の根本である大日如来(=法身仏)が悟りの境地と即身成仏を説き、すべてのものを救う教えなのだと空海自身が『弁顕密二経論』の中で説き明かしている。」密教について簡単な入門書を、嘗て私は読んだことがあって、胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅について、それが何を意味しているのか、雑駁な知識とは言え一応理解をしています。そうした両界曼荼羅が展示されているのを見て、私は不思議な懐かしさを覚えました。「真言宗ほど美術の力を認め、活用した仏教教団はないかもしれない。~略~現代に生きる我われは、仏像はすべからく公開されるもの、そして視認して拝むものと思い込んでいるが、造像当初は決してそうではないことがあるからである。たとえば、仏堂の中心的な仏像を本尊と呼ぶが、本来『本尊』とはそうした意味あいよりもむしろ、修法の中心となる尊像を意味した。」(引用は全て児島大輔著)宗教を美術的な鑑賞題材と捉えて、仏像を見て歩く習慣は近現代になって現われた行為であったのが、本展に展示された秘仏を見るとよく分かります。それでも宗派に属さない一般人として、その宗教を理解するには美術的鑑賞に頼るところが大きいかなぁと思ってしまいます。私が教職に就いていた頃、修学旅行の引率として教王護国寺(東寺)に行くのが楽しみでした。講堂にあった立体曼荼羅は、生徒たちが目を見開いて鑑賞するのに十分な迫力があったのでした。「先生、どうして仏像が集団でいるの?」という彼らの素朴な疑問に、どうしたら分かりやすく答えてあげられるのか、密教の輪郭さえ辿れない自分がいてモヤモヤしたのを思い出します。秘仏については稿を改めます。
2026.08.26 Wednesday
昨日、上野にある東京都美術館で開催されている「百花繚乱」展に家内を誘って行ってきました。本展には「海を越えた江戸絵画」という副題があり、大英博物館日本美術コレクションによる展示でした。名品ばかりが居並ぶさまは、どこに焦点を当てていいのか、眼が泳いでしまうような驚きがありましたが、その中でも私は日英米の3か国に分かれていた襖絵が150年の歳月を経て再会した絵画群に圧倒されました。日本のものは青森県津軽の旧家に伝わる「春景花鳥図襖」、英国のものは大英博物館所蔵の「秋冬花鳥図襖」、その襖の裏に米国シアトル美術館所蔵の「琴棋書画仙人図襖」があり、これが一堂に集まったのは圧巻で、鑑賞される人も多く、私は人混みを掻き分けて堪能してきました。描かれた当時の狩野派の力量は、全体構成から隅々に至る描写表現にまで、その頂点と言っていいほど多様性に富み、厚く盛られた花びらや鳥の群れにも神経がいき届いていました。図録より描かれた制作背景を引用いたします。「これら障壁画群は、他の障壁画の場合と同様、ひとりで描いたのではなく、棟梁として宗眼重信が自分の造形に従う弟子を率いて描いたはずである。そのため、場所によって多少の筆の違いは生じるが棟梁の画風の範囲に収まる。桃山末江戸初期の狩野派において、山楽、内膳、興以そして宗眼重信といった門人筋の実力絵師たちは、狩野派血筋の絵師たちを力強く支えていた。質量ともに豊かなことが認識された旧・談山神社の襖絵群は、狩野宗眼重信の代表作と言え、より重要視されなければならない。」(山下善也著)こうした襖絵群だけでなく、同展には円山応挙の「虎の子渡し図屏風」があったり、浮世絵に関しては有名な絵師の代表作が並んでいました。日本の美術史を網羅しているような充実した展示に、これがロンドンからの一時帰国展であることを忘れてしまうような錯覚に陥りながら、英国で保存や修繕に力を尽くしてきた多くの人たちに、日本人としては感謝するとともに複雑な心境にもなりました。芸術作品は、どの国のどの時代のものであっても人類の財産として共有すべきものなのだろうと、改めて自覚しました。
2026.08.25 Tuesday
今夏、東京で大きな展覧会が2つあり、何とか行きたいと思っていました。私の教え子がお盆期間中に出かけたそうで、その混雑ぶりが凄かったと伝えてきたので、私も覚悟を決めていました。2つとも東京上野で開催していて、一日で巡ることができるのかどうか、今日はチャレンジしてみました。横浜の自宅を家内と朝9時半に出発して、東京都美術館に到着したのが11時ごろ。窓口では鑑賞者の列が出来ていましたが、以前見た「伊藤若冲展」ほどではないかなぁと思いました。開催していたのは「百花繚乱」展で「海を越えた江戸絵画」という副題がありました。これは大英博物館日本美術コレクションがロンドンから一時里帰りをしたもので、かなり優れた作品が海外に流出していたことが分かりました。しかし当時の日本は廃仏毀釈など古美術の散逸があり、海外に貴重な作品が行ったことで充分な保存体制ができたとも考えられます。今こうして私たちが良い状態で先祖の作品が見られるのは不幸中の幸いだったのかもしれません。詳しい感想は後日に回します。同展だけでも相当疲れてしまいましたが、都美術館のレストランで昼食を兼ねて充分休憩を取り、僅かな時間で心機一転しました。次は東京国立博物館で開催している「空海と真言の名宝」展に行きました。ここも鑑賞者の行列が長く伸びていましたが、待つこと40分程度で館内に入れました。今年は空海生誕1250年を迎え、18本山をはじめ各派の関係寺院が所蔵する国宝・重要文化財が一堂に会していました。その中でも秘仏は各寺院に出かけても見ることが難しく、それが今回は公開されるとなれば、興味の対象は当然秘仏に向きます。その精巧な造りに暫し眼が釘付けになり、仏像の光背に至るまでじっくり観察させていただきました。私は来年に向けて装飾の面白さを次作で追求してみようと思っています。光背に見る精緻な刳り貫きと全体のバランスを次作に応用できるように心に刻みました。本展も詳しい感想は後日に回します。今日はお盆休みが終わって通常に戻っている一日を選んで上野に来たのですが、展覧会の混み具合はなかなかのもので、とくに高齢者が元気だなぁと思いました。あ、そうだ、私も高齢者だったっけ。今日受けた強烈な印象を明日からの創作活動に繋げたいと考えています。
2026.08.24 Monday
「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)を読み始めました。本書は「イメージを読み解く12章」というサブタイトルがあって、それぞれテーマや芸術家を12章に分けて取り上げています。先日まで読んでいたドイツ人芸術家ハンス・ベルメールも奇想の視点をもった人形作家・版画家とも言えるので、読書の流れとしては私にとって自然なのかなぁと思っています。本書は内容に入る前に「謝辞」という題名のある前置きがありました。「より広範な文化に通じていないため、私のあげる例は西洋美術に限られる。そのなかから、絵画、写真、彫刻、建築など、いくつかの作品を選びだした。私の心に強く訴えかけ、想像力を刺激したものばかりである。そのほかにも十ばかりの画像を選んだ。たまたま目についたもの、個人的な好みに合ったもの、面白い逸話に興味を引かれたものなどを並べてみた結果、この本ができあがった。~略~私にできる弁明といえば、美術のいかなる理論にも頼らず、自分の好奇心だけをよりどころにしたということのみである。」この文章が示すのは、美術鑑賞の一番基本とする第一印象の心に刺さった部分を大切にする真意です。そこには体系的な方法論も背景とする歴史的考察はありません。そうした知識は後追いで学んでいくものだという考えが私にもあります。私が展覧会で図録を買い求めるのは、自分の印象に残ったものがどんな背景を持っているのか、評論家や学者の考察を読んで、自らの印象と重ねていくためなのです。第一印象だけでは忘れてしまいがちで、そこに考察等の理論があると、より深く心に刻まれてゆくと私は思います。また芸術家の生い立ちや育った環境も知り得た上で、その作品を見直すと、制作の動機や潜んでいる謎の部分が解明されることがあります。私は読書家であると同時に創作活動をやっている者なので、自らの作品に転化できるものがないかを探っている節があります。私にとって読書は創作意欲を刺激するものでもあるのです。
2026.08.23 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日のテーマはホームページに関することです。私は毎晩NOTE(ブログ)を書いていますが、デジタルの操作はあまり得意の方ではありません。懇意にしている女性カメラマンによって私のホームページが運営されていて、私はその枠の中で仕事をしているのです。だからと言って自らの造形作品をアナログのままにしておくのは気に入らず、ホームページという情報発信をしていきたいと考えています。過去の作品はホームページ内の画像によって見ることができて、しかも自分の作品を人に伝える時に便利な媒体と思っています。ホームページの中にはNOTE(ブログ)の他にGalleryやLandscape、Recordなどがあり、さらにExhibitionもあります。Exhibitionは毎年開催している個展の状況を伝えるもので、21回目の個展を迎えた今年は、うしお画廊での画像をアップしました。彫刻は立体であるため、作品が置かれる場所や環境によって雰囲気が変わります。それが立体の面白さでもあり、作品を取り囲んで流れる空気をも表現の要素にしてしまうのです。野外工房で撮影する場合は、光や影が作品に微妙な味わいを齎せます。今まで図録やパンフレッドを制作するため野外撮影をしているのは、個展開催中の画廊の白い壁に囲まれた空間との差異を際立たせようと考えているからです。その効果は彫刻ならではの特徴があると思っています。また画廊によって空間の違いがあるため、昨年まで開催していたギャラリーせいほうと、今年のうしお画廊との違いも画像に現われているように思います。2006年からの画像を振り返ってみていると、その年その年の個性が現れていて、自分が歩んだ確かな道が示されています。と同時に、その年の苦労が滲んでいて何とも言えない気持ちになります。毎年開催している個展で、上手くいったものなどなく、紆余曲折を繰り返して、何とか開催に漕ぎつけているのが実感です。きっと来年もそうなるでしょう。彫刻が精神の産物である以上、これは避けて通れないもので、その苦労を楽しんでいくのが幸せと言えるのでしょう。