2025.10.28 Tuesday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の10番目の章は「宙に浮遊する埃」という題がついています。「どのようにすれば破壊の瞬間を永遠に保存することができるのかという問題。それは、燃え盛る炎の悲劇的な清浄さであり、突然のしじまであり、被爆地で飛び散る断片であり、中空に舞い上がり、やがては静かにあなたの服の上に落ちてくる細かい破片をどのようにしてとどめおくのかということだった。『宙に浮遊する埃/それが物語の終わった場所を示している』とT・S・エリオット(1888ー1965)は『軽いめまい』で書いている。第二次世界大戦のとき、空爆の監視兵を務めながら彼はこの詩を書いた。~略~第二次世界大戦後には、さらに問題が深刻化した。原因は以前と同様、高性能の爆弾がいよいよ力を増してきたからである。広島の町は再建された。しかし核爆弾で破壊されたモニュメントは残っている。崩壊しかかった教会堂のドームが、あたかも、ある瞬間で停止してしまったかのように残されていた。ポーランドでは、歴史的な宮殿や教会などが完全な形で復元された。これは明らかにポーランドの挑戦を表わしている。つまり、ポーランドの建築上の遺産をことごとくダイナマイトで爆破することが、ナチスの計画のひとつだったからだ。ナチスはポーランドの文化を抹殺する計画を、体系的に実行していくつもりでいた。」次にある画家が登場します。「『戦争記念としての被爆教会』の作者たちが保存することを望んだのは『奇妙な美しさ』だった。この美しさをみごとにとらえているのがジョン・パイパーの絵である。~略~1948年、パイパーは『喜ばしい崩壊』と題して次のような記事を書いている。『最近、(廃墟における)考古学者の影響が優勢となり、画家の影が弱まっている。…見識をもった考古学者や画家がふたたび影響力を保持しないと、すべては失われてしまうだろう』。彼はさらに続けて次のようなことをいっている。ピカソやマックス・エルンスト(1891-1976。ドイツの超現実主義の画家)は『爆撃のダメージが与える恐怖について予言した。しかし、彼らは同時にそれが与えた美についても予言している。視覚的なものの立役者(プランナー)として見ると、このふたりは現時点では、比べる者がいないほどすぐれている。爆撃によるダメージは世界を予期しない形に並び替え、新しい美を現出した』。」今回はここまでにします。
2025.10.27 Monday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の9つ目の章は「オジマンディアス・コンプレックス」という題がついています。「18世紀を通じて支配的だったローマの美徳を讃える気持ちは、その一方でローマの悪徳に対する考察とつねに手を携えながら、人々の胸中を去来した。1763年、七年戦争(1756-63。イギリスと同盟したプロイセンと、フランス、ロシアの支援を受けたオーストリアとの戦争。北アメリカではイギリスとフランスの植民地戦争がおこなわれた)に勝利して、アメリカとインドに新たな帝国を獲得したイギリスの将軍たちは、トーガ(古代ローマ市民が外出時に着用した上着)をまとい、ローマの胸当てを身につけた姿で絵画に描かれることになる。~略~『ローマ帝国衰亡史』(エドワード・ギホン著)はヨーロッパの過去と現在と未来について議論したものだが、それは単なる政治の書ではなく人類の叙事詩だ、と文芸評論家のハロルド・ボンドは述べている。『衰亡史』は『18世紀の口語で記された散文で、ミルトンの〖失楽園〗に比肩しうる』という。ギホンの意見に従えば、ローマ市民たちは人間の尊厳を十分に実現する機会を、みすみす逃してしまったという。それもこれも自由を捨てて、奢侈に走ってしまったからだ。」当時文明の栄華を極めたイギリスを、歴史の流れの中で廃墟化した他都市を鑑みて、憂いを感じ取った文章では、ローマのみならずギリシャにも同様な思いを抱いたようです。「1749年、ひとりの若いアイルランド人がアテネを訪れた。このチャールモント卿(伯爵)に対しても、ギリシャの廃墟はやはり同じような教訓を開示した。自由を踏みにじった専制政治の勝利ということである。かつてペリクレスの時代に繁栄を誇った都市が、トルコの支配下では、わずか数千人という人口になってしまった。この情況を見ると、なおさら教訓は真に迫って感じられた。中でももっとも悲しく思われるのは、ギリシャ人の性格が堕落してしまったことだった。」最後に題名にもなっている「オジマンディアス」という語彙に関する文章を拾います。「レプティス・マグナの廃墟をイギリスに運搬した船は、同時にそのとき、巨大な花崗岩でできたエジプトの王子の頭部を運んでいた。この彫像の頭部は、テーベの神殿から沙漠を横切って運ばれてきたものだった。それがラムネス二世の頭部だということをわれわれは今知っているが、1818年の3月にそれが判明したとき、だれがいったのだろう、この像を『オジマンディアス』と呼んだ者がいた。」つまり「オジマンディアス」はラムネス二世の別称でした。今回はここまでにします。
2025.10.26 Sunday
日曜日になりました。日曜日には創作活動に纏わる内容をNOTE(ブログ)に書いていて、通常は土曜日にその週の振り返りを行なうのですが、昨日は女子美祭に出かけてその感想を書いてしまった関係で、今日は土曜日に代わって先週の振り返りを行ないます。先週は火曜日に地域にある市立中学校が主催する学校運営協議会があり、この日は陶彫制作を休みました。土曜日は女子美術大学に出かけたので、この日も陶彫制作を休みました。火曜日と土曜日の2日間、工房での作業を休むということは、この2日間に窯を稼働すれば都合が良いと考え、先週は2回の窯入れを行ないました。この2回の窯入れで、大きめの土台を成す新作の陶彫部品は全て焼成が終わることになります。焼成日以外の日は窯入れの準備を行なっていて、先週1週間は乾燥した陶彫部品にブロックサンダーで仕上げを行ない、化粧掛けを施す作業を中心にやっていました。陶彫制作は土練機で土を練ったり、成形やら彫り込み加飾をするのを前半とすると、後半は仕上げや化粧掛け、さらに焼成を行なうという制作工程があります。このところ、後半に当たる作業ばかりをしていますが、何と言っても陶彫は焼成によって全てが決まるため、この人の手が及ばない窯入れが最重要な工程なのです。この焼成のために土練りの段階から工夫を重ねていると言っても過言ではありません。今週は前述した学校運営協議会があり、中学校の授業参観を兼ねながら会議に参加してきました。私の住む地域の中学校は全体的に生徒が落ち着いていて、いい具合に授業が進行していました。美術科の授業では透視図法のことを教員が熱心に説明していました。自分が教員であったことを忘れないために、こうした機会は大切だなぁと思っています。私が教員だった故に私を慕ってくれる教え子たちがいて、その子たちが美術専門の道に進み、美大の学園祭に付き合ってくれるのも、その関係性に私は有難さを感じています。美術専門の道はなかなか厳しいものがありますが、教え子たちはそれぞれの夢をかなえるために邁進して欲しいと私は願っています。
2025.10.25 Saturday
週末になりました。今日は工房によく出入りしている学生で、私の教え子でもある美大生に案内されて、女子美術大学の学園祭「女子美祭」に行ってきました。彼女は工芸学科で染織を学ぶ学生で、現在卒業制作に取りかかっています。女子美祭では注染という技法で作った作品を展示していました。卒業制作にも注染を使って大きな染物を仕上げようとしていて、大学が休みの週末には相原工房に来ています。そんな生真面目な彼女の姿勢を見ていると、その頑張りに期待したいと思っています。私は若い世代の作品を見るのが好きで、その可能性に未来を託しています。女子美術大学の特徴としては、日本画と染織に水準の高さが見られるかなぁと感じていますが、どうでしょうか。最近の美大生の傾向として、アニメーションに出てくるキャラクターの影響が見て取れます。影響を受けるのは決して悪いことではありませんが、キャラクター風になることで、創作行為が限られてしまうと考えるのは私の偏見でしょうか。昔から誰かの作品に似ているというのは、私にしてみれば避けたい対象でした。どこかで見たような作風と言われると、私は残念な思いがして、自分の個性とは何かを突き詰めてきました。勿論、自分の創作にも誰かの影響があり、どこかで見た情景が甦ることは多々ありました。その積み重ねが現在の私自身を作っているのは紛れのない事実です。そんな中でも自分なりの素材を選び、自分なりの理論を組み立てて、表現の取捨選択をしてきました。そんなことまで考えが及ばなかった学生時代は、兎にも角にも人体塑造に明け暮れていました。古来からの彫刻の基本をやっていることで、芸術思考が足りない自分を保つようにしていました。基本に忠実なのは創作意欲が湧くものではありませんが、あの頃はこれでいいのだと自分に言い聞かせてきました。美大の展示を見る度に、自分の学生時代と比較するのは、世相的にも意味のないことと思いますが、自己表現を追求するのは並大抵のことではないと改めて思い返してしまうのです。
2025.10.24 Friday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の8つ目の章は「廃墟となった自画像」という題がついています。本章では建築家ジョン・ソウンについての論考です。「ソウンは1753年、レンガ職人の末男として生まれた。やがて彼は、摂政時代(ジョージ三世の治世中、皇太子ジョージ[のちのジョージ四世]の摂政期間。1811-20)のロンドンでもっとも成功した建築家として、ジョン・ナッシュ(1752-1835。イギリスの建築家・都市計画家)と競い合うようになる。ソウンは当時のイギリスで、もっとも美しいインテリアのデザインを手がけた天才的な建築家だった。こと建築という仕事に関するかぎり、彼は非常に几帳面で、有能であり、世知にたけていた。しかしプライベートな生活となると、内省的で、メランコリックな一面をもち、ひどく気短なところも見せた。ソウンはレンガやモルタルや土地造成といった、味も素っ気もない建築の世界に、はじめてロマン主義運動の『疾風怒涛』をもち込んだ建築家である。~略~彼が建築事務所で最初にやらされた仕事が、イーリングの古い館に新しい家屋をつけ足す作業の助手役だった。のちにこの館を買い取ったソウンは、館を壊したのだが、唯一壊すことをしなかった所が、若年、彼が自分の家屋の拡張を手伝ったところだった。館を入手して2年後の1802年、彼は報道関係者に次のような原稿を送った。『最近、イーリングのピッツハンガー館で、非常に古い神殿の遺跡が発見されました、古代をこよなく愛する人々にとっては喜ばしいことなので、ここに情況を報告します』。~略~もちろん、廃墟は人をいっぱい食わせるための悪ふざけである。そして原稿もまた、『ジェントルマン・マガジン』誌に定期的に寄稿している古物研究家が書く論文の体裁をまねた模倣作だった。~略~ソウンは自分の家のファサードを『1枚の絵、つまり一種の自画像』としてデザインしていた。それは成功のまっただ中にいた建築家の自画像、そして建築の権威としての自画像だった。してみると、こうした一連の解釈は、30年後に彼が、改めて自画像を廃墟にしたという事実を説明するものなのかもしれない。」今回はここまでにします。