Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 2022年になり…
    明けましておめでとうございます。一昨年母が他界して昨年は喪に服していました。今年は喪が明けたので、改めて新年の挨拶が出来るようになりました。ただし、例年元旦に私は東京赤坂にある豊川稲荷に初詣に行っていましたが、新型コロナウイルス感染症の変異株の影響で、日をずらして行く事にしました。今日はゆっくりと正月の気分に浸る一日になりました。それでも母のいた実家の裏山に小さな稲荷の祠があって、そこには朝早くお参りに行って来ました。祖父母の代から私が小さく刻んだ餅と油揚げを供物として毎年捧げているもので、祠は自宅と実家の間にある雑木林の中に鎮座しています。何代か前の私の先祖が、廃棄してあった稲荷を拾ってきて祠を作ったことで相原の家は栄えたのだと、亡き祖母が言っていました。当時、我が家は半農半商だったようで、商いとして祖父は大工の棟梁をやっていました。父は造園業に転じ、羽振りがよい時期もあったようですが、今は昔の話になりました。今年、母の実家を解体して賃貸の集合住宅を作る計画があり、今月着工の予定です。そんなこともあって午前中に菩提寺にご挨拶に出かけました。先祖の墓は昨日清掃に行って来ました。先祖への報告の後、地域にある神社に家内と歩いて出かけましたが、私は何年ぶりかと思えるほど、地域の神社にはご無沙汰していました。私の住んでいる地域も住宅が増えて、周囲の景観が変わりました。地域を大切にしたいと考えるようになったのは私の加齢のせいかも知れず、学校に勤めていた頃は、学校のある地域をよく回って、そこの自治会ともよく連絡を取っていましたが、自分の住む足元の地域のことはまったく知らずにいたのでした。2022年になり、この地域に工房を構えて創作活動に励もうとしてる私は、もう少し地域のことを理解しなければならないなぁと思いました。今日は工房に行く予定でいましたが、二足の草鞋生活を解消している今は、もう少し余裕を持って過ごしたいと思い、自宅でゆっくりしていました。明日から陶彫制作を始めますが、今日は休むことにしました。今年もホームページ、並びにNOTE(ブログ)でさまざまな情報発信をしていきますが、何とぞよろしくお願いいたします。
    2021年HP&NOTE総括
    2021年の大晦日を迎えました。今年も昨年に続いて新型コロナウイルス感染症に翻弄された1年になりました。その中で東京オリンピック・パラリンピックが夏に開催されて、スポーツ特有の筋書きのないドラマに感動を覚えました。その一方で感染者がピークに達し、今後はどうなっていくのか不安もありました。現在は変異株もあって予断を許さない状況ですが、日本は他国に比べると感染者が抑えられ、ここ数日は帰省ラッシュも見られるようになりました。感染予防をしながら経済を回していく取り組みはこのまま続けられるのか、先行きが見えない中で、私たちも頑張っていかなければならないのでしょう。さて、私事として今年を振り返ると、長年勤務してきた教職公務員を退職しました。最後の7年間は校長として難しい学校運営をしてきましたが、何とか無事に役目を果たせたのではないかと思います。4月から彫刻家一本になり、毎日工房に通う生活になりました。それまでの二足の草鞋生活が今となっては信じられないほど大変だったと振り返っていますが、その時はたいして辛くもなく夢中で取り組んでいました。環境の慣れというものは凄いものだなぁと思い返しています。その創作活動ばかりやっている生活も9ヶ月が過ぎました。考えてみれば若い時から、私はこういう生活を送りたかったわけで、やっと理想の生活になったと考えています。20歳の時に夢見た生活を45年かけて手に入れたわけですが、それでも自分は幸運だったと思っています。今年の夏の個展も16回目を迎えました。懐かしい高校時代の同級生でタレントとして活躍している友人が来てくれたことが印象的でした。個展を続けていなければこんな機会もなかったことでしょう。最後にホームページについて触れておきます。このホームページは私の創作活動の面から情報発信をしているもので、画像は陶彫作品とRECORD作品に限られています。カメラマンと相談しながら画像の構成をしていますが、今後はさらに充実させたいと考えています。NOTE(ブログ)は日々の記録ですが、日記というより展覧会や書籍等から得た知識、作品の進行具合など思いつくまま書いています。拙い文章を読んでくださっている方々に感謝申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって来年が良い年でありますようにお祈りしています。
    12月を振り返って…
    明日が大晦日で今年1年間を振り返る機会にしています。毎年のことですが、31日にはホームページの年間総括を行なっているのです。そこで今日は今月の振り返りを行います。12月は26日間工房に通いました。来年夏に発表する新作の制作が主だった作業でしたが、今月はほとんど中規模作品の木材による加工に追われました。中規模作品は、嘗て発表した「発掘~赤壁~」に連なる作品で、直方体の土台の上に複数の陶彫部品が乗っています。陶彫部品は連結したカタチになっていて、私の従来の作品にある方法を採っています。木材加工の内容は、側面の文様を刳り貫く作業が中心で何日も費やしていました。刳り貫きだけではなく、文様によっては高低差をつけるために彫刻も施しました。そうして出来上がった木材を組み立てて、現在は工房の片隅に置いてあります。今後は木材に砂マチエールを貼りつけ、油絵の具を滲み込ませていきます。これは来年の仕事です。昨日から大規模作品の全体構成に取り掛かりましたが、不足している陶彫部品があり、今日から土練りをして追加分の陶彫部品を作り始めました。今月は小品「陶紋」6点も仕上げと化粧掛けを施して窯に入れました。彫刻家一本になったために例年より早く制作工程が進んでいます。美術鑑賞では「鈴木其一 夏秋渓流図屏風」展(根津美術館)、「河鍋暁斎 躍動する絵本」展(太田記念美術館)に行ってきました。映画鑑賞では「ファンタスティック・プラネット」(シネマジャック&ベティ)に行ってきました。鑑賞は充実していたように思います。RECORDは現在やや遅れ気味で、中途半端のまま年を越してしまいますが、来月には挽回したいと思っています。読書は日本人初の女流聖像画家の生涯を描いた小説を読み終えて、現在はドイツに興った革新的な造形教育機関であるバウハウスに関する書籍を読んでいます。今月は自家用車の定期点検と修理があって、運転免許証更新もしてきました。新年になっても今月の継続ですが、健康に留意してやっていきたいと思っています。
    私にとっての休庁期間
    30歳で海外から帰国して、私は横浜市の教職公務員になりました。社会人としては遅い出発でしたが、彫刻家としては生活が成り立たないので、教職に頼ったのでした。忽然と飛び込んだ教職の世界は思いのほか楽しくて夢中になったのが幸いでした。それでも彫刻の何たるかを掴みつつ帰国した私は、教職と並行して自らの造形思考を推し進めることにしたのでした。横浜市で採用をしていただいた教職は多忙を極めていて、自らの造形思考を深めるには時間が必要でした。まず教職と彫刻制作の効率的な切り替えが試練としてありました。教職に慣れない時期は彫刻のことなど頭に入ってくることはなく、担任した学級のことで精一杯でした。まとまった休暇が取れるのが年末年始の休庁期間だけでした。学校には夏休みがありますが、それは生徒のための休みであって、私たち教職員にとって夏休みは勤務を要する日なのです。年休を使って休みを取得する教職員がいますが、それは労働者の権利としてある休暇なのです。まともに連続して堂々と休めるのは休庁期間だけだと言えます。この貴重な時間を自分のために使えるのは幸せなことでした。その時から休庁期間と聞くと、私は俄かに意欲が湧いてきて、創作における大きな課題と向かいあうのが癖になっています。今年退職したにも関わらず、休庁期間という言葉に俄然やる気を出してしまうのが、私の長年の習慣かも知れず、今日は朝から工房に篭り、新作の大規模作品の全体構成を考えていました。どうやら陶彫部品が4点ほど足りず、明日以降は陶彫制作に戻ろうと決めました。このところ土台になる木材加工をやっていたので、土練りは久しぶりです。陶土は日々乾燥をするので待ったなしで作業をする必要があります。これにより大晦日や正月でも陶彫制作に従事しなければならなくなりました。大晦日や正月は一日中やっているつもりはないのですが、家のことは家内に任せきりになって申し訳ないと思っています。ただし、例年元旦に行っていた初詣は、新型コロナウイルス感染症の変異株の影響があって、数日間は見送ることにしました。
    「ヴァイマルのバウハウス 草創期」のまとめ
    「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第二章 ヴァイマルのバウハウス その一 草創期」をまとめます。グロピウスがバウハウスで新たに招聘したのは画家ファイニンガー、彫刻家マルクス、美術教育家イッテンでした。「グロピウスはファイニンガーを狭量な絵のことしか頭にない画家とは考えていなかった。多くの戯画を描いていることからしても、時代の動きに敏感な幅広い造形家として尊敬していたし、比較的年輩ではあったが(当時48歳)バウハウスの思想に共鳴できる若い柔軟な精神の持ち主とみていた。」またイッテンにはこんなエピソードがありました。「ヴィーンにおいてイッテンは作曲家グスタフ・マーラーの未亡人で後にグロピウス夫人となったアルマ・マーラーと知り合い、アルマがイッテンの絵画とその美術教育法に関心を持っていたところから、彼を夫に引き合わせたのであった。」バウハウスには市民からの非難もあり、こんな攻撃も受けていました。「バウハウスは以前の美術大学の伝統を捨てさり、学生の生活態度はヴァイマルの誇れる伝統的生活様式を故意に軽蔑している、バウハウスは工芸に重点を置くことにより美術学校であるよりは一つの企業体にならんと努力している、バウハウスは表現主義的な偏向教育を行なっている、~略~」というもので、つまり「バウハウスの設立された当初からいわば保守と革新との間の軋轢が存在していたのであって、この対立は容易なことでは融和されるはずがなかった。なかでも旧美術大学の教師にとって大きな不満のもととなったのは、バウハウスが手工芸教育を主眼としていたことであったと思われる。」なかでもイッテンが実践した予備教育は独自なものでした。「イッテンの考えによれば、学生は工房で生産活動に従うのであるが、最初から実践的な技術や市場調査法を教えるべきでなく、まず想像的創造力を涵養し、斬新な造形をなしうる真に創造的な人間を育成することが、予備教育の基本的方針でなければならなかった。~略~イッテンの教育は、バウハウス本来の工芸教育を行なうための予備的な教育であったが、しかしさまざまな意味で初期のバウハウスの教育の中心的位置を占めた。これはひとえにイッテンが芸術教育者として卓越した才能を有していたことによるのである。」今回はここまでにします。