2025.03.27 Thursday
今日の午前中は工房で陶彫制作をしていました。午後になって家内を誘い、鴨居にあるエンターテイメント系映画館に映画「教皇選挙」を観に行きました。春休みのせいか、昼間の上映にも関わらず老若男女で混雑をしていました。観終わった感想としては、密室劇にも関わらず大変面白い内容で、よくぞこんな映画が作れたなぁと思いました。図録から物語の筋になるところを拾います。「映画『教皇選挙』は、カトリック教会の最高位にしてバチカン市国の国家元首でのあるローマ教皇の死去を受け、有力候補者が後任を争う政治スリラーだ。選挙中、投票者・候補者となる枢機卿たちは外部から完全に隔絶された環境で生活することになる。これぞ、ミステリーにふさわしい密室空間だ。教皇は死去直前に何をしていたのか、水面下で起きている陰謀の主は誰か、そして候補者たちの秘密とは…。本作では殺人事件こそ起こらないが、外に出ることも、外の様子を知ることもできない中で、人々の思惑と疑心暗鬼の圧力がどんどん高まってゆく。」(稲垣貴俊著)エピソードの中で私は女性が登場する場面に気を留めました。「アグネスは選挙中の宿泊所の管理を担当している。出番はそれほど多くないが、序盤から要所要所でアグネスをはじめとする修道女たちがトルテリーニなど食事を作る準備をしたり、枢機卿団を眺めたりする短いカットが挿入され、こうした女性たちの見えにくい仕事なしに教会は成り立たないが、あまり男性の聖職者たちはそれを気にかけていないらしいということが示唆される。アグネスはコピー機もろくに使えないトマスを助けるが、これもふだん男性聖職者が事務作業を修道女などにやらせていることをさりげなく示す場面だ。そんなアグネスが、自分たちはふだん目に見えない存在だがちゃんと意志も頭もあり、女性の尊厳は守られるべきであるということを主張するスピーチは、短いがこの映画の根幹に深くかかわっている。枢機卿団が気にもかけていなかった修道女が実はものごとを良く見通しており、教皇選挙に影響を及ぼすくらい賢かったということがわかる。」(北村紗衣著)本作はさまざまなことを投げかけてくる秀作で、最後の結末はここでは申せませんが、かなり印象に残るドラマであることは間違いありません。
2025.03.26 Wednesday
昨日の朝日新聞夕刊に掲載されていた記事は、イギリスの画家オーブリー・ビアズリーの「サロメ」をテーマにした作品「孔雀の裳裾」について考察されたものでした。私は先月の20日に三菱一号館美術館で開催されている「異端の奇才ービアズリー展」を見ていて、この夭折の天才にただならぬ気配を感じていました。「オスカー・ワイルドが新約聖書を換骨奪胎した仏語の戯曲の英訳版挿絵である本作。サロメの体は兵士に覆いかぶさるように流線形を描き、マントの裾には孔雀の羽根があしらわれている。ホイッスラーがロンドンの個人宅で手がけた『孔雀の間』のジャポネスクな室内装飾に、ビアズリーは心酔した。彼はまた日本の春画も所有しており、浮世絵の着物や左右非対称な構図からも影響を受けたとされる。兵士が掲げる炎のようなものは、20歳そこそこのビアズリーがサイン代わりに愛用していたマークだ。本人いわく、男女の性器が結合した状態をデザイン化したものだそう。『時代の寵児のワイルドに見いだされて、粋がってたんですね。デカダンスの堕天使のように自己プロデュースして、偽悪的に奇才を演出している』と、三菱一号館美術館の加藤明子・主任学芸員。『サロメ』の挿絵では他にも、性的な要素を勝手に追加してみたり、酷く太ったワイルドの似顔絵を紛れ込ませたりと、やりたい放題。出版社から何度もボツを食らい、ワイルドからも嫌われ、お騒がせ画家は醜聞とともに名を売った。」(田中ゑれ奈著)ビアズリーは短命なことで画家生命の限界が分かっていたのか、タガが外れたようにきわどい表現を特徴として、世間を炎上させていました。私は歌劇「サロメ」をウィーンに移り住んで、あまり時間が経っていない頃に、国立歌劇場の立見席で観ました。ドイツ語もストーリーも分からず、おまけにリヒャルト・シュトラウスの現代的な曲調に、終始心が落ち着かず、とても楽しい観劇とはならなかったのですが、刺激的な舞台演出は理解できました。その時の記憶とビアズリーの世界が重なって、おどろおどろしいものとして今も脳に刻まれています。日本では味わえないバタ臭い世界だったなぁと思っています。
2025.03.25 Tuesday
「名画を見る眼 Ⅰ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はゴヤの「裸のマハ」とドラクロワの「アルジェの女たち」を取り上げています。まず、ゴヤ。「『裸体のマハ』は、神話の女神やニンフたちのように最初から裸だったのではなく、『裸にされた』のである。どのような並べ方をしたにしても、この二点(※『裸体のマハ』と『着衣のマハ』)でひと組の作品ということになれば、われわれは、裸婦を眺める時でも着衣の彼女を意識しないわけにはいかない。それは、裸婦像としては、きわめてなまなましい、感覚的なものである。~略~後半のゴヤを特徴づけるものは、何よりも人間性の真実の追求であろう。すでに宮廷の肖像画家としてさえ、彼はモデルになった人物の本性を残酷なまでにあばき立てずにいなかったが、華やかな社交生活から身を引いてからは、彼はいっそう鋭敏な観察者となった。彼の作品に見られる幻想性というものも、決して荒唐無稽なものではなく、恐ろしいまでに真実のものである。着衣と裸体のふたりの『マハ』を描くゴヤの眼も、美しいものに憧れる抒情詩人のそれではなく、逃れ難い人間の運命を見つめる予言者のそれである。そして、おそらくその仮借ない眼の故に、彼は近代の先駆者のひとりとなり得たのである。」次にドラクロワ。「ドラクロワの生涯においてきわめて大きな意味を持つこのモロッコ旅行は、1832年1月、南フランスのトゥーロン港から出発して、同年7月再びトゥーロンに戻って来るまで、約半年間続いた。その旅行の帰途、6月の末に3日間ほどアルジェに立ち寄った時、ドラクロワは偶然の機会から『アルジェの女たち』の私室を垣間見ることができたのである。~略~絢爛たる色彩と、豊かな絹の手触りと、濃密な花を香りに満たされたこのような東方世界への憧れは、モロッコ旅行以前からドラクロワのなかに存在していた。~略~新古典主義の『理想美』の美学に対し、ロマン派は、はっきりと人間ひとりひとりの感受性を重んじた『個性美』の世界を対置させた。『美』とは、万人に共通な唯一絶対のものではなく、人によってさまざまに変化し得るものだという考え方である。絶対的な『理想美』を想起するかぎり、芸術創造は優れた先人の後を追うことになるが、『個性美』を認めるとすれば、芸術創造は何よりも他人とは違った独創的なものが要求される。万人に共通するものではなく、逆に万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追及し、発掘することが、芸術の目的となったのである。」今回はここまでにします。
2025.03.24 Monday
昨日のNOTE(ブログ)に続き、今日の朝日新聞「天声人語」に興味深い記事が掲載されていたので、取り上げることにしました。「見るとは、どういうことか。見えるとは、何を意味するのだろう。深遠な問いを考えさせられた。水戸芸術館で先月、『全盲の芸術鑑賞者』として知られる白鳥建二さん(55)とともに、現代アートを鑑賞するというイベントがあった。『何を話してもOKです。僕のことは気にせずに』。そう促され、私たち男女6人の参加者が試みたのは、1枚の絵を見ながら、それを言葉で表すことだった。~略~1時間ほどで、3作品を味わった。『みなさんの言葉を思い出し、2週間ぐらい楽しめます』。白鳥さんは愉快そうだった。『展示室の広さや、人の動き、風も感じました』。なるほど、鑑賞とはかくも多様なものか。20代の頃から、美術館を訪ね、作品の説明を聞いてきたそうだ。気づいたのは、視覚情報が芸術の一面でしかないこと。分からないことを楽しむ。そう思って独自の鑑賞活動を続けているという。目が見えても、見えないものはある。見ているつもりでも、言葉にできないものもある。そんな何かを、私も教えてもらった気がした。『みんなが自由に話すのがいい。生き方とかも同じかな』。白鳥さんは飄々と、言った。」美術館は視覚情報しかない施設だと決めつけていた私は、ショックを受けました。全盲の人が、一緒に鑑賞している人の話より、イメージを膨らませて造形思考を行なうことに、私は目から鱗が落ちました。見ることは芸術の一面でしかない、そうです、その通りです。その場合、鑑賞のヒントになる一番重要なものは言葉です。視覚情報をその人なりの言葉で伝えること、それは説明であっても詩であっても構わないわけで、作品の美しさと作者が何を表現したかという主張が伝われば、それでいいのです。しかし、それは難問で、自分自身の作品理解がどこまであるのか、自分が発する言葉で、眼前の芸術作品がどうにでも変わってしまうことに怖ろしさも感じます。それなら客観的解説ならどうなのか、それでは伝わらない何かがあるのが芸術です。そこが芸術の面白さでもあると私は考えているのです。
2025.03.23 Sunday
日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)に書いていますが、今日は先日の朝日新聞「天声人語」に掲載された記事を取り上げます。記事では芸術家ミロについて書かれていました。内容を省略できないので全文引用いたします。「ジュアン・ミロ(1893~1983)は、20世紀を代表するスペインの画家である。カタルーニャ州バルセロナ出身で、1930年代のスペイン内戦からフランコ独裁政権が終わるまで、反ファシズムの姿勢を貫いた。作品で頭に浮かぶのは、鮮やかな色彩と記号のようなモチーフだった。だった、と過去形にしたのは、ミロが積み重ねた軌跡を知ったからだ。東京都美術館で開催中のミロ展を見て、年齢と共に大きく変化していった画風に驚いた。周囲の鑑賞者からも『これもミロなのか』と声が漏れたほどだ。10代で描いた風景画は、印象派の影響がうかがえる。20代からは植物の小さな葉にまでこだわる細密描写に。さらにシュルレアリスムへ移り、独自の記号体系を確立した。50代で本格的に陶器や彫刻に取り組み、亡くなる直前まで続いた。挑戦や探究のたまものだが、それを抵抗と逆境の中で続けたのに驚く。スペインでは独裁政権が75年まで続き、抵抗の拠点となったカタルーニャは当局の厳しい弾圧を受けた。ミロも故郷を離れ、隠れるように創作した。82歳の時のインタビューでは、独裁政権への反抗で『自由で激しいもの』を作品で伝えたことが最も重要だったと語った。その激しさは、ピカソのような『技巧』がなかったから生まれたものだとも(『ミロとの対話』)。90年の生涯でミロが残した多様な作品に、人間とはいつまでも進歩できるものなのだと前向きな気分になった。挑戦を続ければの話ではあるが。」ミロの作品は折に触れて私も見ていましたが、今回の東京都美術館で時系列を追った作品群を見て、当時の社会的情勢に屈しないミロの創作姿勢に感銘を受けました。現在も世界は平和とは言えない状況にあり、いつ戦乱の火の粉が私たちの国にまでやってくるか分からないし、フェイクニュースもある中で、常に疑いを持って情報を注視しなけらばならない世界に私たちは晒されています。そんなことを一人の芸術家の生涯を通して思索する機会は貴重だろうと改めて私は思っています。