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  • 映画「ヒンド・ラジャブの声」雑感
    昨日、工房で陶彫作品の窯入れをしたため、今日の作業は出来ませんでした。その代わり師匠の池田宗弘先生が出品している「自由美術展」に家内を誘って行ってきました。午前中に東京の六本木にある国立新美術館を訪れ、師匠の真鍮直付けによる彫刻作品を見てきました。詳しい感想は後日改めます。たまたま今日の朝日新聞「天声人語」にあった記事に目を通していたところ、映画「ヒンド・ラジャブの声」の興味深い内容が載っていて、私たちはその記事が気になって横浜のミニシアターに映画「ヒンド・ラジャブの声」を観に行こうと即決しました。案の定、本作の内容は私に衝撃を与えました。平日でも映画館は混んでいて、本作の関心の高さが伺えました。図録より内容を引用します。「『ヒンド・ラジャブの声』で彼女(映画監督)が掬い上げるのは、イスラエルによる占領と虐殺の只中で、世界から置き去りにされたひとりの少女の声である。少女、すなわちヒンド・ラジャブはガザ北部を移動中、イスラエル軍の激しい攻撃に晒され、親族が命を落とした車内にひとり取り残されたまま、パレスチナ赤新月社との通話の中で必死に救助を求め、命を落とした。」(ISO著)本作はドキュメンタリーとドラマが入り混じった中で展開する手法で作られた映画で、ヒンドの声は本人のものを使い、応えるパレスチナ人道支援組織(赤新月社)では役者を使っていましたが、取材をして実話そのもののように撮影されたようです。監督の言葉が図録にありました。「『ヒンド・ラジャブの声』で重要だったのは、物語を創作することではなく、記憶や悲しみ、挫折を伝える映画的な形式を見出すことでした。~略~これらはすべて、物語のルールに抵抗し、異なる種類の真実に近づこうとする試みでした。単に起きた出来事だけではなく、何を感じたか、何を意味したかに関わる事なのです。」(カウテール・ベン・ハニア監督の弁)これは通話音声とともにニュースで拡散された内容を映画化したものですが、ヒンドと同じ境遇で命を落とした子供が大勢いる事実が、私の頭を過りました。もうひとつ、本作はパレスチナ側から惨状を捉えたもので、今まで西側諸国から描いた戦争は数多くあり、民族がどうあれ戦争の悲惨さは変わらない状況を私たちに示してくれた作品でもありました。今日の朝日新聞「天声人語」に関するものは後日別稿を起こします。
    26’新作の窯入れ第1号
    私が何年もの間ずっと取り組んでいる陶彫は、土練りから始まって、成形やら彫り込み加飾をして、乾燥をさせた後、最終工程で焼成があります。つまり窯に入れて高温で焚き上げるのです。この窯入れをいつするのか、6月から新作を作り始めている陶彫は、ひと夏でかなり乾燥が進むため、秋ごろから焼成を行なうのが私の1年間の流れになっています。焼成中は窯の周辺が熱くなるので、秋の涼風がたつ頃が、私としては気持ちのモチベーション的にもちょうどいいのかなぁと思っています。ということもあって、今日は焼成準備を行ないました。乾燥がいい具合になると陶土の表面が白っぽくなります。ここでも陶土は多少収縮するので、皹が入ることもありますが、新作は今のところ大丈夫なようです。私は乾燥した陶彫作品にヤスリをかけて表面の指跡を消していきます。陶芸は手圧や指跡が作品の情緒を醸すので、それを器の特徴として扱っています。さらに釉薬を用いて窯内でその自然な流れを作り出す傾向もあり、陶土の肌色と釉薬の微妙な交わりを陶芸の景色として珍重することもあります。窯変は温度や酸素の量、灰のかかり具合、冷め方などによって起こり、同じ陶芸でも唯一無二の作品が生まれるのです。その変化は登り窯によって顕著に現れるため、陶芸家によっては登り窯を構える人もいます。私の陶彫はそのいずれの情緒をも消し去ってしまうので、陶芸と呼べるものではありません。電気窯の管理された温度によって焼成するので、陶芸に比べると面白味は微塵もありません。釉薬も使いませんが、ドリッピングによる化粧掛けは施しています。それでも陶土は窯内で石化して、私が作る混合土は鎧を纏ったような姿で私の前に現れます。そこが私の作品の完成なのです。その窯入れのために土練りから、成形や彫り込み加飾、乾燥、仕上げ、化粧掛けまでやっているわけで、最後に人の手が及ばない焼成で作品の出来不出来は決着を迎えるのです。今日は窯入れ第1号のスイッチを入れました。明日は窯内温度の確認に工房にやってきます。
    「破壊の彫刻」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第9章である「破壊の彫刻」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はアレイジャディーニョの彫刻についての考察で、舞台になっているのはブラジルです。まず、作家の風貌に纏わる文章です。「肌の色が黒く、声は荒々しく、怒りっぽかった。小柄で、太っていて、体には障害があった。丸顔で、頭が大きく、黒い髪は縮れていた。びっしりと髭を生やし、額は広く、鼻は人並みだがやや尖っていて、唇は厚く、耳は大きく、首は短い。読み書きはできるが、小学校より上の学校へ通った記録はない。」次に彼の代表作について述べた文章です。「受難を描いた作品は、聖堂に至るまでの折れ曲がった道の途中にある『道行きの礼拝堂』に収められている。参拝者は礼拝堂のなかに入って狭い親密な空間で作品と対峙し、語られるキリストの受難の物語に、息をひそめて聞き入るのだ。~略~アレイジャディーニョは病気のせいで体が変形し、指と視力を失い、自分の醜さを気にしてテントのなかで仕事をし、他人が浴びせる無神経な視線に激怒した。人間の姿で生きることを選んだ神ーキリストーの物語を描きだそうとするとき、彼は想像のおよぶかぎり、自分の肉体とはかけ離れた人体を創ろうとした。その優雅な顔や体つきは、彼の夢から生まれたものであり、なりたかった自分の姿が反映されていたはずだ。~略~ヨーロッパ人と奴隷のあいだに私生児として生まれ、病気で体に障害を得たばかりか、人からは罪の報いだと中傷され、ポルトガル生まれの白人の領主だった父親の職業である芸術に天分を発揮した彼は、遠く離れた父の祖国の螺旋模様や渦巻き模様、寓話やたとえ話のなかに生き延びる手段を見出したのだろう。母の祖国の人びとは、木に釘で打ちつけられた神の話、神を産むために選ばれたーアフリカの祖先たちの神の姿で描かれたー処女の話を自由に解釈し、迫害の恐怖なしに崇拝することができた。アレイジャディーニョはたぶん、神を描いた芸術、その誕生と受難を描いた芸術のなかに、二つの道を見つけたのだろう。自分に与えられなかった肉体を褒め称える道、そして現実の自分をかえりみて、こんな体を与えた神々に対して怒りをぶつける道だった。」今回はここまでにします。
    週末 自画像の概念
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。「ピカソの画風のなかで、けっして変わらなかったのは、モデルに対する態度である。~略~ピカソは他人に深く共感することができなかったのだろう。そのせいで、他人の肖像画を描くときも、結局は自画像になってしまうのだ。」これは先日NOTE(ブログ)に書いた文章で「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)から引用してきました。自画像と言えば、私はほとんど自画像を描いたことがなく、学生時代に鉛筆で丹念に描いた1点と油絵1点、それに教職に就いていた頃に教材研究として描いた素描1点くらいしかありません。ましてモデルを使った肖像画はほとんどありません。学生時代の肖像彫刻の習作はいっぱいありますが…。ピカソの作品を見ていると、確かにモデルに似ているかどうかより、感情の入れ込みを新しい造形概念にして描いていく作品が多く、「奇想の美術館」で取り上げている代表作「泣く女」や「ゲルニカ」だけでなく、すべての作品がピカソの自画像に見えてしまうのは私だけでしょうか。その概念を大きく捉えれば、写実的な作品に限らず、抽象作品でも作者の内面が投影していれば、それはすべて自画像(彫刻の場合は自刻像)と言えるのではないかと私は考えています。つまり、私は陶彫によって自刻像を作り続けていると言ってもよいと思っています。20世紀になって美術の概念が広がっていき、21世紀になってもこれが果たして芸術なのかと思える作品が増えています。表現の多様化は私も歓迎するところですが、止まれ、提示されている作品の中には思索が先行するあまり、作者の内面が見えにくい作品もあります。作者の思いが鑑賞者にも届く作品、それを私は評価の基準にしている傾向があります。それは映像表現であってもインスタレーションであっても、作者の思いが鑑賞者に伝わるものであれば、意味のある体験ができると思うからです。作品に自画像(自刻像)が表れているかどうか、私が感じるひとつの方法でもあるのです。
    週末 記念展搬出&陶彫制作の1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況も先週に続き、新作陶彫である6つの塔の二段目にあたる成形をやっていました。今週の月曜日は、清交会65周年記念展の受付が午前中にあり、午後は同展の搬出作業をやっていたので、工房に行くことは出来ませんでした。本展に関わったことで、私は多くの元校長と話す機会がありました。彼らとは旧知の仲もあり、懐かしい思い出に浸れましたが、5年前まで私は確かに教育現場にいて、厳しい状況に陥っていたことも甦ってきました。今は創作活動に明け暮れていますが、当時は無我夢中で学校経営をやっていたのでした。その時苦しいとも思えなかったのは私が当時勤めていた学校の組織がしっかり機能していたんだなぁとも思っています。私が運の良い管理職だったと言えるのは、その時の教職員のおかげです。本展開催中はそんなことも考えていましたが、火曜日以降は未来に向けた創作活動に邁進しています。手元の陶土に触れながら、作品の置かれる空間の事をいつも考えていて、最終的にどんな空間を画廊内に作りだそうか、完成した空間演出をイメージしながら作業をしているのです。今週は9月から10月へ移りましたが、私自身は特別なこともなく、毎日陶彫と格闘しているという実感があります。10月初日のNOTE(ブログ)に書きましたが、新たな試みとして壁を這う造形をどうすべきか、陶彫制作の合間にいつも考えています。これは今年の夏に個展で発表した「炭景」とも異なる世界観を持っているので、雛型を作っていこうかとも考えています。私はあまり雛型を作るタイプではないのですが、新たな試みをする場合は今までも雛型を作ったことはあります。来週は映画を観に行く予定があるので、そのついでに画材店に寄って雛型用の材料を調達しようと思います。