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  • 新聞記事より「秋本番のにおい」
    今日の朝日新聞「天声人語」の内容に眼が留まりました。全文を掲載します。「東京ではきのう気温がぐっと下がった。筆者と同様に、慌てて冬物を出した方もいるかもしれない。詩画で知られる星野富弘さんが衣替えの思い出を書いている。樟脳のにおいには『ほのかなやさしさ』が伴っていて、それは『運動会を見に来てくれた母のきものの裾のにおい』だからだ、と。星野さんは24歳のときに、事故で首から下が動かなくなり、口にくわえた絵筆で草花を描いた。季節の移ろいや、それを伝えてくれるにおいには、それゆえに敏感だったのだろう。刈り取られた後の稲穂、路上に散らばるギンナン…。秋本番のにおいと言って、わが脳裏に浮かぶものはいくつかある。けれども都会暮らしの身としては、キンモクセイを忘れるわけにはいかない。自宅の近くでは、数日前から芳香が漂い始めた。毎年のことでありながら、こんなにも甘くうっとりさせるものだったのかと、自然の力に驚かさせる。ふだんは目立たぬ植え込みに過ぎず、ほかの木々が輝く新緑の季節もぱっとしない。なのに、ある日突然『ここにいるよ』と鼻をくすぐる。あんなに小さなオレンジ色の花のどこに秘密が隠されているのか。自らが置かれた境遇も重ね合わせたのだろう。星野さんはキンモクセイの絵に、こんな言葉を添えている。『花が咲くのは年に一度/後は静かに時を待っている/あくせくするのは止めよう/一度でいい  ひとつでいい』。花に顔を近づける。時の積み重ねの中で培われた命の力強さを、深く吸い込んだ。」星野さんは不遇の事故に遭うまで群馬県の中学校で体育科教諭として仕事をしていました。そのためか私たち教員経験者には、極めて印象的な作家なのです。謙虚な植物にも一年1度の存在感を示す時があり、香しい匂いを発する時期を静かに待っているというのが今日の内容でした。私は政治色のない「天声人語」に目が留まる習性があるらしく、たまにはこんな季節等の情緒が醸す記事があってもいいのではないかと思っています。
    大まじめに作られた模造廃墟
    「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の7つ目の章は「大まじめに作られた模造廃墟」という題がついています。「偽古典的な模造廃墟を建てたいとする情熱がもっとも強かったのはフランスやドイツ、それにイギリスだったが、それを最初に実行したのはイタリアだった。おそらくそれは驚くほど、ふんだんに本物の材料を利用したものだったろう。記録に残っているもので、もっとも早い時期に作られたのは、1530年、建築家ジローラモ・ジェンガによってデザインされたウルビーノ公の公園の二階家だ。公園はペーザロ(イタリア中部マルケ州の都市)にあったが、建物はすでにない。現存しているものでもっとも初期の人工廃墟といえば、ジャン・ロレンツォ・ベルリーニによって作られたバルベリーニ宮殿の橋ということになる。橋はローマにある。宮殿の控えの間と庭との間に堀があり、その堀にふたつのアーチが架かっている。これが人工の廃墟。」次に私が着目したのはルーヴル美術館をテーマにした絵画です。「ここに一枚の絵がある。『廃墟と化したルーヴルのグランド・ギャラリー想像図』。この有名な絵がわずかに彼の心の中の混乱した様子を伝えてくれる。1796年のサロンにロベールは、セーヌの岸に平行して走っているルーヴルのグランド・ギャラリー改造を示す絵(『グランド・ギャラリーの改造案』)を出品した。そして同時に対をなす形で、彼はもう一枚『廃墟のルーヴル』を出した。それはあきらかに、どこまでもはてしなく続く画廊で、屋根はなく空が見えている。円天井から垂れ下がっていた装飾(ペンダント)を見ると、この絵が廃墟を描いたものであることがはっきりとわかる。画家はアポロン像を描いているが、その足元では、農夫たちが薪代わりに絵の額縁を燃やしている。ここで注目すべきは、この絵を構成するすべてのディテイㇽー断片と化した円天井、植物、農夫と廃墟を共有する画家といった要素がローマの風景から移し替えられていることだ。それは何のためかといえば、未来のパリの風景を表わすためだった。散らかった断片の中には傑作と目される美術作品が三つ見える。それもまったく無傷のままである。ベルベデーレのアポロン像(ヴァチカン宮殿にある石像。19世紀に古典美の典型とされた)。その足元にあるのがラファエロの胸像。それにミケランジェロの『奴隷』像である。ロベールにとっては、混乱をきわめた時代の中で、ただひとつ芸術品の永遠性だけが確実なものに思えたのだろう。」今回はここまでにします。
    時の難破船
    「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の6つ目の章は「時の難破船」という題がついています。本章ではピクチャレスク(絵画のように美しいという意味)という語彙が登場します。「ピクチャレスクは、18世紀のイギリスに多大な影響を及ぼしたのだが、この運動はまた新しい『連想の哲学』を芸術的に表現したものでもあった。18世紀のはじめ、美は古典的な規準によって判断されていた。建築のデザインも、いくつかの数学的なプロポーションにも基づいて決められていた。完全な美とは客観的な性質をもつ幾何学的な配列の中にあり、それは審美眼をもつ人物によってのみ識別することができた。音楽のハーモニーが、特別の教育を受けた耳によってのみ聞き分けることができたのと同じである。そのような情況に登場したピクチャレスクは、美が主観的なものであることを示唆した最初の美学だった。」その後、本章は偽りの廃墟に関する論考へ移行していきます。その特徴的な一例を挙げます。「夫婦の不仲がもとで建てられたにせの廃墟ということでいえば、さらにもっと人目を引くものがある。アイルランドのエネル湖の岸辺のベルビディアハウス(眺望館)にある『嫉妬の壁』だ。1760年頃にロバート・ロッシュフォード(ベルフィールド卿)がこれを建てた。ぎざぎさした石の壁は長さが180フィート(約55メートル)にも及び、高さは三階建ての家ほどもある。それは胸壁の上の部分から次第に崩れ落ちていく様子が目に見えるようにデザインされていた。1736年にベルフィールドは、ダブリン出身の16歳の少女メアリー・モールズワースと結婚した。28歳のときだった。彼は毎日、ほとんどの時間をロンドンで過ごしていた。それはアイルランドの情況を宮廷で語ることに彼が長けていたからである。子供たちとアイルランドに取り残されたメアリーは、いつしか若い義理の弟アーサーの胸の中へと落ちていった。ベルフィールドは妻の不義に気づいたし、妻も告白した。そしてアーサーは逃亡した。~略~ベルフィールドは『嫉妬の壁』を築いて、外から家の中が見えないようにした。妻がふたたび誘惑されることのないように。」廃墟に纏わるエピソードはいろいろあって、伝説や噂も含めてイギリスに伝承されているようです。
    汐留の「ウィーン・スタイル」展
    先日、東京汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催されている「ウィーン・スタイル」展に行ってきました。私は1980年から85年までウィーンに住んでいて、同地の国立美術アカデミーに通っていました。アカデミーの裏にはセセッシオン(分離派会館)があり、O・ヴァーグナーによるマジョルカハウスもありました。そこにはナッシュマルクト(青果市場)もあって、生活には欠かせない場所でした。そんなふうに身近にウィーン様式に浸る毎日でしたが、その由来を紐解くために本展を訪れました。図録より引用いたします。「建築、デザインそして美術の分野において、ウィーンの芸術は1900年以降、フランス、ベルギー、ドイツを発祥とする植物的・有機的なアール・ヌーヴォーの国際的潮流から距離を取り、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動や、チャールズ・レニー・マッキントッシュに代表されるスコットランドのモダン・デザインの影響の下、独自のウィーン・スタイルを確立していった。この独自のウィーン・スタイル発展の推進力となったのはオットー・ヴァーグナーの理論的著作と彼の建築学校(1895年)、ウィーン分離派の設立(1897年)、ヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーのウィーン応用美術学校への教授就任(1900年)、そしてウィーン工房の創業(1903年)だった。~略~ウィーン世紀末の前衛的なデザイナーたちは、ビーダーマイヤーを近代的な住文化の出発点と見なしていた。住人の社会的地位を示すためではなく、実用性と快適さを重視するプライベートな住空間としてのインテリア。詩的な遊び心と、優れた職人技によって生み出された日用使いの調度品の数々。また自然への回帰と再発見もビーダーマイヤーの主要テーマであり、その代表例として、象徴的な意味での花が、絵画やウィーン磁器工房の磁器類、ガラス製品、テキスタイル、そして文学や音楽にまで用いられた。」(パウル・アセンバウム著)そんなウィーンの華やかな時代の産物は店舗などで見ることが出来て、街の散策には眼を楽しませてもらいました。旧市街にO・ヴァーグナーによる郵便貯金局があり、構造体がそのまま装飾にも通用する実践例として、私は頻繁にここに行っていました。その頃、私は自作の象徴化、抽象化を頭に描いていたので、こうした建造物が少なからず、自分に影響していたのではないかと今でも思っています。
    週末 表現に繋げる技法
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は表現に繋げる技法というもので、とりわけ彫刻を作っている私には関心の高い内容です。誰もやったことのない方法(技術)で作品を作りたいというのは、習作を経て自らのイメージを具現化する中で膨らんでくる欲求です。私が学生時代に師匠の池田宗弘先生は真鍮直付けという技法で、量感をギリギリまで削り取った彫刻を作っていました。量感がない細い人体と言えばジャコメッティですが、彼の場合はデッサンを究めていった結果として人体が細長くなったのでした。その空間にデッサンするのに、塑造(粘土)で試行していたため鋳造によって保存することしかなかったわけですが、池田先生は周囲の空間を際立たせて、風景を含めてその構造体を見せているため、いきなり真鍮で造形されていたのでした。自分が求める立体はどんなものをイメージしているのか、そこに表現に繋がる技法があり、その技術を磨いて作品に昇華するのがベストだと私は考えます。私の作品は地中に内蔵された地下都市をイメージしているため、古い石化した状態の構築物を作ろうと考えていました。そこにはさまざまな文様もあり、入り組んだ開口部や窓もあったので、陶土で成形した後、高温焼成をして、それらしく見えるように工夫しました。焼き締めによって古代の出土品のようになった彫刻は、その後の空間の展開には欠かせないものになりました。ともかく私の作品は、大地に根を張ったような重厚感を表現することに終始しています。大地に点在し、そこに場の空間を創出するのが私の世界観で、それは亡父がやっていた石庭にも通じるものがあります。亡父は自然物を相手にしていたのに対し、私は自らの加工物を空間に配置していると言ってもよいでしょう。表現に繋げる技法を作り出すことが独自な世界観を獲得する第一歩なのかもしれません。