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  • シュルレアリスムの自動記述
    「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)を読んでいて、漸く「自動記述」のことに触れた箇所が登場してきました。その前段階として詩についての記述がありました。「詩は私たちの耐えているもろもろの悲惨に対する完全な補償をうちにふくんでいる。詩はまた、なにかさほど本質でない失意におそわれて、それをすこしでも悲劇的にとらえたいなどと思うときには、とりなし役をはたすこともできる。」そうした詩の本質を踏まえて、自動記述に関する文章がありました。「文学的にどんな結果が生じうるかなどはみごとに無視して、紙に字を書きまくることをくわだてた。」この箇所があった頁に注釈が掲載されていて、著者の具体的な記述があったので引用いたします。「いきなり、偶然に、じつに美しい文句が、いままで書いたこともないような文句が見つかったのだ。一語一語、ゆっくりとくりかえしてみたが、どれもみごとなものだった。しかもどんどんつづいてくるのだった。私はおきあがって、ベッドのうしろのテーブルの上にある紙と鉛筆をとった。ちょうど私のなかでどこか血管がやぶれたかのように、つぎからつぎへと言葉がやってきて、それぞれ適当な場所におさまり、場面にぴったりはまった。私の頭のなかに、舞台がつみかさなり、筋が展開され、台詞がわきあがってきて、私はおどろくほど有頂天になった。いろんな着想があまりにも迅速にやってきて、あまりにも大量に流れつづけるので、微妙な細部をたくさんとりにがしてしまったほどである。なにしろ、私の鉛筆はそんなにすばやくはすすめられなかったから。」ここに論理的思考はなく、溢れ出る言葉の発露に身を任せている著者の姿があります。つまり、シュルレアリスムとは何か、著者自身が定義した文章がありました。「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。」
    週末 全体構成からの解放
    日曜日ですが、彫刻家一本になっている現在は、ウィークディと変わらず工房に朝から籠って陶彫制作に精を出しています。昨日のNOTE(ブログ)で現在制作している陶彫にひとつずつ日付をつけていると書きました。これは今までにない新しい取り組みですが、もうひとつ新しい取り組みがあります。今までの作品は陶彫部品を組み合わせる集合彫刻であり、スケールの大きな作品を作るために陶彫部品一つ一つをどのように組み立てていくか、設計図を描いていきました。陶彫部品はあくまでも部品であって、それが独立した存在であっても最終的には歯車のひとつになって大きな作品を支えていくのです。陶彫部品の見えないところに和紙を貼り付けて、そこに押印とともに番号をつけていたのも、組み立ての順番を示していたのです。一方、新作の同じサイズの立方体は陶彫部品ではありません。それぞれが独立した作品として認識しています。つまり最終的な集合彫刻をイメージしていないのです。立方体を積み上げることも、ばらばらに床に散らせることも自由です。たとえば図録用の写真撮影をする場合、野外工房や室内工房に作品を置きますが、その場の状況に合わせて自由に配置していきます。私には若手のスタッフがいますが、彼らの意見をその場で聞いてアレンジすることも可能です。図録に掲載する作品写真と、ギャラリーに展示する作品の配置を変えていくことも可能です。私は以前から作品の集合と拡散を考えていました。集合は既存の作品のほとんどで試みていますが、拡散はこれからのテーマになるだろうと思っています。つまり今回の作品は全体構成からの解放になります。拡散する作品群は、たとえ展示場所が階段であっても配置が可能です。風景の中に散らして見え隠れする状況も作り出せます。私の作品が空間演出を対象にしているために、こんなイメージが出てきたのです。
    週末 日付のある陶彫制作
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は美術館や映画館に鑑賞に出かけることもなく、毎日朝から夕方まで陶彫制作に励んでいました。現在作っている新作は同じ大きさの立方体にそれぞれ異なる彫り込み加飾を入れたもので、一日1点ずつやっているように日付をつけています。平面RECORDは、その日のうちにアイデアから下書き、仕上げに至るまで制作を仕上げることが可能ですが、陶彫制作はそういうわけにはいかず、苦しい展開になっています。しかし何とか遅ればせながら平面RECORDに近づけようとしています。陶彫制作の工程としては、土練り、タタラ、成形、彫り込み加飾、仕上げと化粧掛け、焼成を一日1点ずつやることは不可能で、数点ずつまとめて工程を進めていくため、日付は意味を失っています。さらに乾燥をした後でなければ、仕上げと化粧掛け、焼成ができないので、2週間以上は放置した状態にして置くために遅れることは仕方がないことと受けとめています。平面RECORDに近づけようとしているのは、作品の日記としての制作姿勢です。これは日々の記録として考えているのです。私が彫刻を学び始めた頃に、現代美術の動向にも興味を持ち始めました。その時、コンセプチュアル・アートという思考に出会い、その中で「日付絵画」をやっている河原温という芸術家のキャリアを知りました。既に作家は故人になっていますが、1966年から制作された「日付絵画」は毎日の日付のみが記されたもので、21世紀になっても継続されていた記録が残っています。それは数字を記録することを表現行為とした作品で、内容としては時間の経過があるだけです。私はどこかの美術館でその作品のシリーズを見た記憶があります。日付をつけた陶彫作品は、河原ワールドに触発されたわけではありませんが、頭の片隅に「日付絵画」のことがあったことは確かです。ただし、私の日付のある陶彫制作はコンセプチュアル・アートとしての考え方はありません。日記のように作業を積み重ねている日常を意識しているのです。
    「ロスコ・ルーム」で感じたこと
    昨日、NOTE(ブログ)にジョセフ・コーネルの作品について書きましたが、同じDIC川村記念美術館の常設展示に、ロシア系ユダヤ人でアメリカ国籍のマーク・ロスコの巨大な絵画を展示した「ロスコ・ルーム」があります。最初ここに足を踏み入れた印象として、仄暗い照明に囲まれた空間に7点の壁画のような作品が展示されており、その描かれたものは私には判明できず、そこでは黙想するような空間が存在していました。視覚表現はもはや描かれた対象ではなく、洞窟のように私の周囲を取り囲んだ空気をそのまま感じ取ることなのかもしれません。この場合の美術鑑賞は、1点ずつ目で味わうものではなく、身体全体で体験するようなものに変わりつつあるのではないかと私は感じました。その空間には、ある人にとって祈りがあったり、癒しがあったりするのかもしれず、個人的体験によって千差万別な感情が沸き起こる舞台装置と言っても過言ではありません。ロスコはそれを狙ってこうした空間演出をしたのでしょうか。マーク・ロスコはジャクソン・ポロックやウィルム・デ・クーニングらとともにアメリカを代表する抽象表現主義の画家です。初期の経歴を調べてみると、ニューヨークに渡ったロスコは、最初パウル・クレーの影響でドイツ表現主義的な作風を有していたり、シュルレアリスムにも傾倒していましたが、やがてロスコは新しいビジョンを持つに至りました。私が体験した「ロスコ・ルーム」はロスコの最終的な表現であり、ロスコの表現の振り幅がひとつに収斂していった結果とも言えます。この空間は本当に独特で、言葉で言い表す難しさを感じます。ネットに掲載のあったロスコの言葉を引用いたします。「私は基本的な人間の感情(悲劇、エクスタシー、運命など)を表現しているだけです。人々の多くが私の作品に直面したときに、感情が揺さぶられて泣くという事実があるので、私は基本的な人間の感情を伝えることができていると思っています。」この感情とは個人的なものではなく、絶対的な感情ではないかとネットに書かれていました。また、感情を具現化した有機的な形態を地層のように重ねるとロスコは言っているようですが、こうした重層化されたものが重い色彩によって統一を図っていることに対して、私は興味を示し、また好意的に受け止めました。現在、このような最終的な表現となったロスコの作品は世界に4点しかありません。イギリスのテート・モダン、アメリカのワシントンギャラリー、ヒューストンにある「ロスコ・チャペル」、それから日本のDIC川村記念美術館にある「ロスコ・ルーム」だけです。
    J・コーネルに思いを馳せる
    シュルレアリスムに関する書籍を読んでいる最中に、箱による造形作品を作ったアメリカ人芸術家のジョセフ・コーネルに思いを馳せていました。シュルレアリスムの代表選手の中では誰もが知る巨匠とは言えませんが、私にとってコーネルは大きな存在感のある芸術家なのです。千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館にはコーネルの充実したコレクションがあり、私は度々訪れてはこの箱の造形作品を見ているのです。箱の中にはコーネル自身が古本屋や骨董品屋で手に入れたものや思いのある品々が収められていました。これはアッサンブラーシュと呼ばれる技法で、そのオブジェたちをどのように配置するかは、コーネルの詩的発想からきていて、その謎解きや解釈を鑑賞者が楽しむというものです。箱の中に自らの思索や記憶に基づいた造形を行うのは、自分にとってたまらなく魅力的で、制作工程では心の中で自問自答し、自分だけの世界を紡ぎだすのです。こうした作品を作ったコーネルとはどんな人物だったのか、かなり内向的な人物だったのか知りたくなって、10年前に伝記を読んでいます。詳しい記録は2013年4月2日のNOTE(ブログ)にあります。コーネルの箱の作品について解説書も読んでいます。それは2013年5月8日のNOTE(ブログ)にあります。コーネルはほとんど自宅の地下室で箱の作品を作っていたらしく、小児脳性麻痺の弟の面倒を見ながら一生涯を送っています。慎ましい生活ぶりが伺えますが、作品は豊かな抒情を湛え、鑑賞する者に夢想を誘います。作品が作者を超え、独り歩きを始めて、さまざまな世界を主張しているように私には感じられました。シュルレアリスムによって心が解き放たれた状態は、私たちにも大きく息を吸い込んだ状況を提供してくれるものだと思うようになりました。