Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 私事あれこれの1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週も陶彫制作は、毎日時間を延長して精を出していました。気温が上昇し、暑さに慣れていないためか、身体は疲れやすくなっていました。それでも時間を惜しんで陶彫制作を頑張っていました。何しろ工房に籠れば、眼前の陶彫作品しか目に入らない状況でしたが、今週は私事があれこれあって多忙だったように思います。まず、家内の邦楽器演奏が立て込んでいて、私は最寄りの駅まで送り迎えをする毎日でした。家内も相当疲れていたようでしたが、何とか乗り越えていました。飼い猫のトラ吉が推定年齢17歳になり、足腰がかなり弱っていて、歩くのにも難儀して、私たちは猫の介護に務めていました。柔らかくした餌を少量ずつ与えたり、移動場所を制限したり、とくに家内はトラ吉のストレスがないように工夫を凝らしていました。老衰はこんなところに現われるのかと、猫を見ながら、私も老齢の行きつく先を考えるようになりました。食事が摂れなくなるのが、生きる上で一番厄介なことなんだと改めて自覚しました。トラ吉の状況に気持ちが絡み取られないようにできたのは、私には創作活動があり、家内は演奏会があったおかげかもしれません。人間の場合は入院してしまうので、生命の最後を見取ることは厳密にはありませんが、トラ吉を見ていると、生命の限界の訪れを目の当たりにしているような気がします。そんなことと併行して金曜日は業者を頼んで、浴室等の清掃をしてもらいました。自分でやるのは厳しいと判断して、10数年ぶりに清掃をお願いしました。私事で多忙な1週間でした。
    「超現実造型論」について➁

    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「超現実造型論」の後半部分の気を留めた箇所をピックアップしていきます。「サルバドール・ダリの出現とともに、超現実主義の領域にはひとつの未知な新要素、すなわち偏執狂的方法がもたらされた。~略~アンドレ・ブルトンがかつて『美は痙攣的である』といったのに対して、ダリは『美は可食的である』という定義を加えた。美は神性化された台座の上から引きずり降ろされて、人間の、あらゆる人間の手中に収められた。」ダリの登場でシュルリアリズムに偏執狂的要素が加わったのでした。本論の最後にブルトンのまとめがありました。「かつてヘーゲルによって規定された絵画・彫刻に対する詩の優位性は、現代ではすでに同等の位置に到達している。すなわち絵画は、その対象のもっとも広い範囲にまでヘーゲルの言うように精神生活のあらゆる諸力を意識にのぼすところに達したのだ。外部の世界に取られた諸形態を本質的に再現しようとする考えから解放された絵画は、いかなる芸術にとっても不可避な唯一の要素から出発して、精神に現存する影像の、内的な表現に近づくのである。この内的な表現を、現実の世界の具象的な諸形態のそれに対立せしめ、ついでピカソのように、対象をその全体性においてのみ把握する。自然を、意識の内的世界との関係においてしか考えない。…同じことは、彫刻ではジャコメッティやアルプによって実現されており、建築では、パリの大学都市のスイス館は合理主義者のル・コルビジュの作品であるが、最近その一室が、〈非合理的波状模様〉や顕微鏡的動物、小動物の細部の拡大写真などの壁画で飾ることに予定されたと伝えられていることは、かの野菜や甲殻類で飾られた、バルセロナの芸術の一形式(モダン・スタイル)の開花が、今やその復讐を用意しているのである。ーながい間、詩の特権であるとされていたものを、他のすべての芸術にも及ぼそうとする抗しがたい人間的欲求は、今日始めて明るみに出されたのであるが、それは今後、効用性という勝手な口実の強要する慣習的な抵抗に打ち克ってゆくであろう。」今日はここまでにします。

    「超現実造型論」について➀
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「超現実造型論」は短い論文ながら、密度の濃い内容になっているため、前後半にわけて気を留めた箇所をピックアップしていきます。「近代詩の領域ではアルチュール・ランボーの予見的位置、ロートレアモンの詩的弁証法的位置等を組織的に実験的に実現しようとしたのが超現実主義の詩法的態度であった。この意味でアンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポー共著の詩集『磁場』(1921)ブルトンの『超現実主義宣言書および溶ける魚』(1924)とは現代詩の、画期的な書であったように、造型的領域においてもそれを契機として新しい〈霊感〉の機能が発見され、適用されたのであった。この先駆者の一人としてわれわれはまずマックス・エルンストを挙げるのに躊躇しないであろう。彼の使用したコラージュ(糊付け)は超現実主義画法の恐るべき図解であり、同時に絵画の古い定律を蹂躙するものであった。~略~マックス・エルンストが心的状態の苛立たしさの能力から発展させ強調した、フロッタージュ(あるいは磨擦画)と呼んだ手法も、彼のいうところによれば、彼自身の発展の上ではコラージュ以上に大きな役柄をはたしたのであった。」中高の美術科授業で教えるモダン・テクニックの始まりは超現実主義にあったと言えます。「アンドレ・ブルトンは『超現実主義宣言書』(1924)のなかでシュルレアリスムというものを、辞典的に定義して、ー『シュルレアリスムとは、言葉であれ、記述であれ、他のいかなる手段によろうと、思想の真の機能を表現せんとする純粋な精神的自動法である。理性によるあらゆる統制なしに、また美学的ないし倫理的なあらゆる先入観念の外において行われる思想の書き取りである。』と書いている。」これはオートマティスムと呼ばれる現象で、その後の現代美術に多大な影響を及ぼしています。今回はここまでにします。
    新聞記事より「ものの表情を見る」
    今日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「まあ、ものの表情をしげしげと見る時間も惜しいみたいな生活、というのは反省しなきゃいけないんじゃないかな  柚木沙弥郎」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「ものが発する声。それを聞き取る中で、ものへの愛着も深くなる。昔、ものを買った時には『一人の家族が自分の家に入った位の感覚』があったと染色家は言う。その背後には、食べ、働き、育て、泣き、衝突し、といったリアルな生活感の堆積があったはずで、それが消費社会の中でかき消されつつあると。『柚木沙弥郎作品集』から。」その文章を読んで、私が思い当たったのは、20代の頃、海外で暮らしていた時に、節約をしながら慎ましい生活をしていましたが、どうしても欲しいコーヒーミルを見つけ、何度も店舗に足を運び、思い切ってそれを購入した思い出です。海外では唯一の贅沢として、それでコーヒー豆を挽いていました。コーヒーミルは私の宝物で、その木製のカタチを眺めては楽しんでいました。当然日本へも持参してきましたが、日本では教職に就いたことで生活が多忙になり、コーヒー豆は店で挽いたものを購入するようになりました。同じ例は幾つもあり、現在の生活を顧みると、ものの愛着より時間短縮や効率化を求めてきたと自戒しています。仕事を退職して時間が出来た今でも、多忙だったころの名残があって、自分が納得して手に入れたものを無造作に扱っているのではないかと思っています。それでもネットで購入することは自分には抵抗があり、欲しいものは必ず手に取って眺めつつ、確認してから自分の所有として招き入れているのです。私より家内の方がドライなので、いつの間にかネットで購入したものが私の周囲に溢れています。利便性は自分も恩恵を受けているので否定する気はありませんが、今日のような新聞記事があると、つい目が留まってしまうこの頃です。
    「詩と絵画について」のまとめ
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「詩と絵画について」について気を留めた箇所をピックアップいたします。本書で漸く美術に関する記述が出てきて、私としてはホッとしています。美術に関して言えば、私にも理解が出来る箇所があるのではないかと思うからです。「象徴主義のあるものから、超現実主義にいたる精神の表現史は、おそらく造型芸術の一分野に、決定的な、しかも不可避な協和を求めたであろうことは否定しえない事実である。あらゆる時代における、あらゆる芸術は、互いにその個有の領域で、多かれ少なかれその共通の理想に照応することは事実である。~略~ながい歴史を持つリアリズムの造型方法は、急激にその烈しい表現の精神を、写真とシネマに奪われて、その残流の多くは退屈なアカデミズムに化してしまった。そこで絵画は物質的分析と、古い原始に遡る精神的象徴力とに源泉を求めざるをえなかった。ピカソの変幻極まりない作画過程はこの過渡期をもっとも忠実に鮮明に物語るであろう。」外見を写実するだけの絵画は終焉を迎え、シュルレアリスムによる時代が始まったことを示唆する文章ですが、ここでアンドレ・ブルトンによる論考が引用されていました。「シュルレアリスムの芸術が利用しうる唯一の領域は、アンドレ・ブルトンによれば『純粋な心的表現のそれであって、単に幻覚的領域と同一視することなく、実際に知覚の領域の彼方にまで拡大される。そして重要なことは(オブジェの物理的存在の外における)心的再現は、フロイトのいわゆる〈心的機構のきわめて多様な最深部に展開する諸過程に関連した諸感覚〉を充たすことである。芸術においては、この諸感覚の必然的によりいっそう組織化された追求は、自我の彼方への揚棄に向かって努めるものである』。」美術に関しては予備知識もあり、私はシュルレアリスム関係の作品を思い起こすことができるので、何とか理解はできました。今回はここまでにします。