Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • マティス&ピカソについて
    「名画を見る眼 Ⅱ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はマティスの「大きな赤い室内」とピカソの「アヴィニョンの娘たち」を取り上げています。まず、マティス。「フォーヴの画家たちは、そのような現実との結びつきを無視して、赤い色が必要な時には、樹木でも、船でも、人間でも、赤く塗るということをやってのけた。つまりそこでは、色彩は現実とはかかわりなしに、画家の表現の必要のために選ばれ、カンヴァスの上に登場してくるのである。マティスの『大きな赤い室内』が、このようなフォーヴの色彩表現の延長線上にあることは言うまでもない。~略~フォーヴィスム運動の激しい騒ぎが一応おさまって、それぞれの画家たちが独自の道を歩むようになると、マティスの形態は単純化され、肉付けや明暗は平面化されて、的確な描線と明るい平坦な色面による構成だけが画面を支配するようになる。~略~晩年のマティスが、『鋏は鉛筆よりももっと感覚的だ』と言って、色紙をいろいろな形に切り抜いて貼りつけるいわゆる『切紙作品』に熱中するようになるのも、同じ『単純化』への志向のあらわれと言ってよいだろう。」次にピカソです。「マティスが、カンヴァスの上に『平面化』された人物や静物を配置して、そこに奔放自在に自分の好みの色彩世界を展開するのに対し、ピカソは、色彩よりもむしろ形態の変貌の方に興味を寄せるのである。もともと、ピカソは、マティスのような色彩画家ではない。この『アヴィニョンの娘たち』と、後の『ゲルニカ』(1937年)と、ピカソの多産な生涯のなかでも特に重要な位置を占めるこの二点の大作が、いずれも色彩にはそれほど強い執着を示していないということは、ピカソという彼自身怪物であるかのような天才の造形的資質について、ある程度の暗示を与えてくれる。~略~1906年秋、ちょうどピカソがこの大作を制作している頃知り合った二人(※ピカソとブラック)が中心になって、その後数年間のあいだに次第に明確な形をとるようになるキュビスムの美学は、まずセザンヌの教えにしたがって対象を純粋に造形的なものとして捉え、次いでそれをそれぞれの面に分解し、そして最後にそれを画面の上で再び構成し直すという手順を踏んで画面を作り上げるというものであった。~略~『アヴィニョンの娘たち』に始まるキュビスム時代の探求は、ピカソのその後の生涯にとってのみならず、20世紀絵画の歴史にとっても、決定的と言ってよい影響を及ぼした。この時以後、すなわち第一次世界大戦前後から世に登場する画家たちは、ほとんどすべて、多かれ少なかれキュビスムの影響を受けているからである。」今回はここまでにします。
    ルソー&ムンクについて
    「名画を見る眼 Ⅱ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はルソーの「眠るジプシー女」とムンクの「叫び」を取り上げています。まず、ルソー。「絵画の歴史には、時に奇蹟としか言いようのない不思議が起こることがある。様式の発展とか、時代の動きなどというものとはまったく無関係に、思いがけない傑作が、まるで別の星の世界から突然やってきたかのように、われわれの眼の前に出現する場合がある。1897年のパリのサロン・デサンデパンダン(アンデパンダン展)に並べられたルソーの『眠るジプシー女』の場合がそれであった。~略~この作品に描かれているのは、『人間のいるどんな場所』でもない。それは、ルソーの想像力が生み出した幻想の世界である。砂漠と、猛獣と、ジプシー女という組み合わせは、どこか熱帯地方を思わせるが、それは現実にどこの国というのではなく、むしろわれわれの知っている日常世界とは別のものだという非現実性を強調するためのものであるだろう。ルソーの後期の作品にしばしば登場するこのような『異国風景』は、多かれ少なかれコクトーの言う『描かれた詩』なのである。」次にムンクです。「『叫び』において、自然は決して狂暴に荒れ狂っているわけではない。遠く入江に浮かぶ舟は、眠ったように静かな氷の上にただよい、空は明るく夕焼けの色に染められている。それはおそらく、ノルウェーの古都においてはきわめて平凡な、よく見慣れた風景であったに違いないし、そこには、人間に危害を与えようとするものは何もない。それにもかかわらず、ムンクはその平和な自然を前にして、言いようのない不安を感じた。われわれは『叫び』の画面の前に立つ時、ムンクのその不安とおののきを、はっきりと感じ取ることができる。いったいムンクの感じた不安の正体とは、何だったのだろうか。~略~世紀末の芸術家たちが見出した人間の『内部の世界』というのは、決して印象派の世界のように明るく光り輝くものではなく、むしろ逆に、底知れぬ不気味な恐ろしさを湛えた夜の闇の世界であった。ムンク自身をも含めて、世紀末の画家たちが、しばしば暗い、不安に満ちた夜の世界を描き出しているのは、そのためである。その夜は、また同時に、20世紀の新しい夜明けを準備するものでもあったが、ムンクのように病的なまでに鋭敏な感受性に恵まれた芸術家は、明るい光を恐れるある種の動物たちのように、暗い闇の世界においてのみ完全に自己の才能を発揮することができたのである。」今回はここまでにします。
    スーラ&ロートレックについて
    「名画を見る眼 Ⅱ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はスーラの「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」とロートレックの「ムーラン・ルージュのポスター」を取り上げています。まず、スーラ。「スーラは、この静謐な風景のなかに、彼自身実際に観察して得たさまざまな人物モティーフをはめこんでいく。優れた詩人の魂の持ち主でありながら、スーラは人物でも風景でも、自分の想像力のみによって形態を生み出すことをせず、かならず実際に見た光景や、現実のモデルを写し出した姿を利用した。ただ、それらの人物や光景は、現実の世界からスーラの画面に移される時、現実の不純物をすっかり失って、清潔な造形要素に変貌しているのである。~略~モネや初期のルノワールのあの『色彩分割』の技法は、実はその複雑な効果を表現するために生み出された。しかし、モネやルノワールたちは、それを感覚的に、ほとんど本能的と言ってもよい鋭敏な感覚で捉えて表現した。彼らのタッチ(筆使い)が、大小不揃いで、何の法則性もないのはそのためである。それに対しスーラは、光の反射が物体に及ぼす影響を科学的に明らかにしようとし、それを表現するタッチも、一定の大きさの点を均等に配分するという『合理的』方法を考えた。彼自身は、自分のその方法を『色光主義』という名で呼んでいたが、当時の一般の人びとのあいだにーそして現在でもなおー『点描主義』という名称がスーラやその仲間の作品に与えられたのは、そのためなのである。」次にロートレック。「ロートレックは、新しい『ムーラン・ルージュ』のポスターを作るに際して、大変な強敵を眼の前に控えていたことになる。彼のポスターは、いやでもシュレの作品と比較されるのであろう。むろんロートレック自身そのことをよく知っていたに違いない。そのために彼が自己の武器として用いたやり方は、シュレの甘く華やかな様式とは正反対のものであった。彼は第一に彼自身の天賦の才能である冷たいまでに鋭い現実観察と、石版刷りの特色を生かした大胆な画面構成で、かつてない新しいポスターを生み出したのである。」今回はここまでにします。
    週末 万博について思うこと
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、今日は大阪・関西万博が開幕した日で、テレビ報道が絶え間なくその状況を流していたので、その話題を取り上げます。開幕前から評判が今ひとつだった大阪・関西万博でしたが、開幕すれば多くの人が訪れ、それなりに盛り上がるのだろうと思っています。私は1970年の大阪万博の時にはまだ中学生で、両親や妹と一緒に、父が運転する自家用車で大阪の千里丘陵にあった万博会場へ出かけたのを思い出します。その時は世界の最先端技術を見たいと思っていたのでしたが、会場では大変な混雑に遭い、子どもながら疲労困憊していた記憶があります。アメリカ館に長蛇の列ができていましたが、そこに一家で並び、月の石を見たのが唯一の思い出で、後の展示品はほとんど覚えていません。あれから50年が経っているのかと思いつつ、今回の大阪・関西万博には横浜から行こうという意欲が、正直に言えば持てません。大阪・関西万博で紹介される最先端技術に、今の時代となっては驚くこともなく、大抵のものは首都圏にいれば事足りると感じているからです。私は創作活動を長年やってきていて、展覧会散策が大好きなのですが、万博のように興味の対象が広がり過ぎるのも考えものです。この場所は万博後にカジノになるのでしょうか。そのきっかけ作りに万博を誘致したとどこかで聞いた気がします。東京五輪は終わってみれば汚職に塗れたイベントでしたが、大阪・関西万博はどうなのでしょうか。政治的な考え方をすれば、純粋な意味で万博をやる意義がどこにあるのか、私には分かりません。マイナス要因を考えればキリがなくなりますが、3年前まで横浜で校長職にあった私は、もし大阪近郊の学校に勤めていたなら、この大阪・関西万博に生徒引率をするかどうか、判断に迷うところです。条件によっては参加を見送る可能性もあるかなぁとさえ思ってしまいます。そんなことも頭に入れながら、半年に及ぶ期間、このイベントを見つめていきたいと思っています。
    週末 平面作品&美術鑑賞の1週間
    週末になりました。今週を振り返ります。今週も朝から夕方まで工房に籠って制作三昧でした。今週は陶彫制作ではなく、主に平面作品に取り掛かっていました。縦横120cmの正方形をした板材を2点用意して、これを画面として作品を作っています。支持体として絵の具による塗装を考えていますが、その前にやるべきことがあって、それに時間をかけていました。やるべきことは薄い杉材を切断したり、穴状にしたカタチを刳り貫いたりすることでした。この杉材を画面に貼っていくのですが、その際、支持体と杉材の間に隙間を作ります。こうなると平面作品はもはや絵画ではなく、浮彫のような作品になるのです。勿論支持体の上から絵の具を流したり、散らしたりするので、そこに絵画性は生まれますが、筆で描写をするわけではなく、偶然をコントロールする方法をとろうとしています。まずは杉材を使った細工に毎日時間を費やしているのです。今週は水曜日の夕方に乾燥した陶彫部品4点に仕上げを施し、化粧掛けをして窯に入れました。木曜日は窯以外の電気を使えないようにしたので、その機会を利用して東京の美術館を2ヶ所回りました。東京都美術館で開催していた「モダンアート展」は、元同僚の絵画作品が展示されていたので見てきました。上野公園の桜も見てきましたが、満開は過ぎていて葉桜になっていました。それでも観光客が大勢いて、暖かくなった季節を満喫してきました。そこから地下鉄で竹橋に移動し、東京国立近代美術館で開催されている「ヒルマ・アフ・クリント展」に行ってきました。秘教的思想やスピリチュアリズムが創作動機になっている作品は、私や家内の心に響きませんでしたが、ネットでの宣伝のおかげか、大勢の鑑賞者が訪れていました。季節のせいか、加齢のせいか分かりませんが、美術館を2ヶ所回ると結構疲れます。美術館散策は、多分歩き回っている距離が長いのだろうと思っています。せっかく東京に出てきたのだから、あれもこれも見に行こうという気分にならないのです。電車で席が空くと必ず座ります。これも足腰が弱くなったせいなのかなぁと思ってしまいます。