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  • 「聖母、王族、神々」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の3つ目のパート「神々のバリエーション」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の3つ「第9章 母なる聖母」と「第10章 天界の王族」と「第11章 異形の神々」を取り上げます。まず「聖なる母」から。「『ヴィーナス』と呼ぶと女神あるいは理想的女性美を思わせるが、あくまで現代人の呼び名にすぎず先史時代の人々がどう思っていたかはまったく不明だ。なお、ずっと時代は下るが似たような印象を与える日本の縄文土器の土偶(遮光器土偶など)も、一般に豊饒祈願と結びつけて理解されている。~略~ギリシャ神話の性のシンボル、アプロディーテーないしヴィーナスの対極にあるのが純潔の象徴であるアルテミス(ローマ神話ではディアーナ)である。森林の野獣の保護者でもあれば狩りの女神でもあり、処女神でありながらお産の女神でもある。矛盾した性格を帯びた存在であるが、起源はやはり多産・豊穣系の女神である。」次は「天界の王族」です。「一部の神は、人間の共同体に規律をもたらす法の制定者として思い描かれた。原始的には、部族や民族の慣習的な掟が祖先や神の名によって権威づけられたということだろう。王権もまた法の神の神話を利用した。~略~光明神アポローンを理性と静謐なる美の象徴、反対に酒神ディオニューソス/バックス(バッカス)を狂気と暗い情念の象徴とすることがニーチェ以来定着しているが、ディオニューソスの象徴的事物はブドウの房やブドウの木である。」最後は「異形の神々」です。「キマイラ(異なる種族の特徴を足し合わせた体をもつ空想的動物)的造形は、人間の想像力が最初から現実を逸脱したものであったことを教えてくれるからだ。人間の思考はリアリズムよりもファンタジー/神話向けにできているのかもしれない。~略~歴史的な起源としては、象頭の神の信仰は太古のインド亜大陸の先住民の宗教に由来するらしい。古代の一時期には性的な秘儀を伴う宗派を形成したこともあった。その名残りとして、日本密教には、象頭の男女の神が互いに抱き合う形に描かれる『歓喜天』あるいは『聖天』という秘儀的な神の信仰がある。」今回はここまでにします。
    20年間通い続けた東京銀座
    昨日、NHKで「映像の世紀」をやっていて、私は同番組を必ず視聴しています。本作は資料映像や編集が秀逸で、番組作りに真摯に取り組んだスタッフたちの底力に、私は毎回惹かれてしまうのです。昨日は「銀座  百年の記憶」というテーマで、東京の銀座が舞台でした。その銀座が歩んだ歴史で、関東大震災で壊滅的な破壊を受けた街が、復興を遂げたのも束の間、第二次世界大戦の敗戦で米軍に占領され、そこに群がる日本の娼婦たちの逞しさが印象に残りました。モダンガールの出現など時代の最先端を牽引する街が、昼夜問わずスタイルの流行やエンターテイメントの清濁合わせ持った文化的や風俗的な有様があって、まさに戦後日本の驚異的な発展を物語る歴史になっていました。私は横浜に住んでいたにも関わらず、まだ田舎の風景が残っていた横浜から銀座を眺めるとまだまだ敷居が高く、幼いころ両親に連れられて日劇のショーを観に行って、その絢爛たる舞台にまばたきを忘れるほど驚いた覚えがあったくらいでした。銀座に敷居を感じなくなったのは美大に入っていた時代で、画廊が集まる街を頻繁に闊歩していました。師匠が個展をやる時に銀座8丁目にあるギャラリーせいほうで展示の手伝いをしました。私がその銀座のギャラリーで個展を企画してもらえるようになったのは2006年で、その年から20年間、20回の個展をやらせていただきました。個展の最初の頃、私はまだ教職に就いていて教務主任という立場でした。そのうち管理職になったわけですが、個展開催中は年休を取得して会場におりました。私が通い続けた銀座は、それでも20年間で建物の建て替えや新たな店舗が出来ました。銀座通りにあった赤煉瓦の「天國」の移転や複合商業施設「銀座シックス」などが目立っていましたが、それでも古き良き銀座の佇まいを感じていました。最近は外国人観光客の多さがニュースになり、新橋寄りの銀座通りには大型観光バスが何台も横付けしていました。銀座は新陳代謝を繰り返し、変わることで変わらない街であり続けるだろうと私は思います。テレビ番組で触発されて、私は20年間通い続けた最先端の街を思い返してしまいました。
    柿に纏わるよもやま話
    昨日の朝日新聞「天声人語」の書き出しに柿が登場していました。「晩秋に思うのは、柿である。山の緑に映える橙色の実はどこか郷愁を誘い、駆け足で過ぎるこの季節を切なく感じさせる。渋柿は熟さないと渋いというのも、味わい深い。」実家があった頃に、私が思い出すのは庭に大きな柿の木が複数本あり、柿の実が赤く色づくと、竹の先を割った道具で実を採り、家族でよく食べていました。熟しすぎて柔らかくなった実を両親や祖父母が「甘い」と言ってよく食べていましたが、私はまだ固くてほんのり甘くなった実を齧るのが好きでした。当時はどこの農家にも柿の木が植えてあって、3時のお茶請けの代理として柿が出ました。蒸したサツマイモの時もありました。きっと第二次世界大戦が終わった直後は食料もなく、庭先に生った柿は栄養補給には格好の食料だったのかもしれません。その柿の木もどんどん姿を消していって、気がつけば周囲は住宅ばかりになってしまいました。実家にあった立派な柿の木もなくなりました。思えばそれを切り倒す時に工房に木材として運んでほしかったと、今でも私は残念に思っています。自分が子どもの頃は、柿はそこいらじゅうにあって自然に実をつけるもので、買うものではないという観念がありましたが、現在ではスーパーマーケットで柿を買っています。子どもの頃から好きだったものに未練があるのか、好きなものは結局否定できず、買い物に行くと必ず柿を買って帰るのです。「天声人語」に次のような文章もありました。「ふと、素朴な問いが口に出た。柿は何故、渋いのでしょう。~略~『鳥に食われないためでしょうね』。なるほど、でも、それだけだろうか。」渋柿の渋を抜く工夫にも記述が及んでいましたが、美味しいものを手に入れるために人間は、頭を使い、技能を高めていくもので、人を貶めたり、ましてや殺傷するために頭を使うものではないと私は強く考えます。柿もサツマイモも自然の恵み、土を焼くのも自然の恵みを工夫したものなので、私は現代にあっても生活の基本に出来るだけ逆らわずに生きていきたいと願っているのです。
    週末 完結しない網状のカタチ
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今回取り上げる内容は、完結しない網状のカタチというもので、昨日NOTE(ブログ)に書いた新作の目玉になる部分です。「厚板材を刳り貫いて、砂マチエールを全体に貼り、油絵の具を染み込ませる方法は、私が今までにもよくやっている常套手段」とNOTE(ブログ)に書きましたが、そうした方法で私は何を表現しようとしているのか、新作は床から立ち上がる陶彫部品が2段重ねで6点あり、それらが橋桁となって厚板材による網状のカタチを支えます。その網状のカタチが6点ないしは6方向から繋ぎ合わされると平面性の強い有機的なものになります。ところが橋桁から空中に伸びているカタチはそれぞれ繋ぎ合わされることがありません。網状のカタチは欠損しているのです。その欠損部分を鑑賞者の想像力で補いながら鑑賞してほしいと願っているのです。不足した部分があることによって、形態に空気が通り易くなると私は感覚的に思っています。完結したカタチに私は退屈を覚えることがあります。それは左右対称であったり、全て合点がいくような結論に想像力の入り込む余地がないと判断されることが多いからです。私が発掘シリーズを作り始める契機となったのは、ギリシャやローマ時代の遺跡にあった欠損された建造物でした。そこに広がる空気感は何とも心地よいものでした。この円柱にはどんな屋根があったのか、この広場の階段の先には何があったのか、それは住みやすい都市構造とは別次元の美術作品としての表現世界です。廃墟のピクチャレスクという都合の良いコトバを先日知り得ました。新作は私を新しい世界に導くもので、敢えて欠損した箇所を表現に盛り込むことをしようとしています。完結しない網状のカタチ…。作品のタイトルは新たに考えますが、新作は完結しない完成になるだろうと思っています。
    週末 新作は次の段階へ…
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。気候が良くなったので、今週も通常の朝9時から夕方3時までを作業時間として、新作の完成に向けて制作に励んでいました。陶彫制作の焼成は全部終わっていないにしろ、成形と彫り込み加飾は既に終わっていて、乾燥を待っている状態です。次から次へと窯入れをしたいところですが、一旦窯に入れてしまうと窯以外の電気を使えない状態にするので、窯内の温度が高温に達するまで他の作業が出来ません。そんなこともあって、窯入れは1週間に1回程度にしようかと思っています。今週は美術館等へ鑑賞に出かける予定がなかったので、月曜日の夕方に窯入れをして、火曜日は工房が使えない日にしました。火曜日は近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行く日で、運動の後は自宅でゆっくり休息をとることにしました。現在、制作の方は陶彫作品に組み合わせる厚板材の加工をやっています。実はこの造形が新作の主張の方向を表していて、ひとつの見どころになっています。厚板材を刳り貫いて、砂マチエールを全体に貼り、油絵の具を染み込ませる方法は、私が今までにもよくやっている常套手段で、単純な技法ですが、陶彫の素材とよく合うと私は考えています。では厚板材をどのように刳り貫くか、これが日々思索を重ねているところで、欠損して語れない何かをイメージしていこうとしています。廃墟のピクチャレスクを敢えて作ろうとしているのは、以前読んでいた書籍からの受け売りですが、いつまでも完結しない形を作っているのは、私がさらに上方に存在する何かを求めようとしている思考がどこかにあるためかもしれません。新作の制作は愈々佳境を迎えようとしていますが、実は今年の夏にギャラリーで発表した延長として、壁に掛ける作品をもイメージしていて、それにも同時に取りかかる必要を感じているのです。