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  • 東京オリンピック・パラリンピックについて
    今日、東京オリンピックの開会式がありました。「東京オリンピック・パラリンピック2020」は、世界中に蔓延した新型コロナウイルス感染症のために1年遅れの開催となりました。それでも感染者数が減っているとは言えず、国民の中には祝祭どころではないと思っている人も多いと思います。安全安心と謳った東京オリパラは、私たちが考える安全安心にはほど遠いものになっていますが、それでも開幕したスポーツの祭典には、ここまで努力を重ねてきたアスリートに敬意を表して、私は応援を惜しまず、また心から楽しんでいこうと思っています。きっと筋書きのないドラマが展開されるはずです。1964年に開催された東京オリンピックの時、私は8歳で小学校低学年でした。私の家ではテレビを購入して家族で熱心に見ていました。私が子供心にびっくりしたのは国立代々木競技場の斬新な設計で、建築家丹下健三を知ったのはずっと後のことでした。あまりにも幼かった私はそれで建築への興味が芽生えたとは言えず、オリンピックのカッコよさだけが印象に残りました。いよいよ始まった「東京オリンピック・パラリンピック2020」。この課題山積だった祝祭を後世の人々はどう評価するのでしょうか。
    柳原流の西欧彫刻家交流記
    先日から読み始めた「孤独なる彫刻」(柳原義達著 アルテヴァン)にまだ存命だった巨匠たちと著者が交流していた場面が描かれていて、羨望とともに楽しさを感じました。旧版「孤独なる彫刻」(筑摩書房)にも収められていますが、海外から帰国したばかりで、これを読んでいた当時の私は、そこに気も留めていなかったのでしょうか。まず、ジャコメッティとの交流を引用いたします。「ある日、私がモンパルナスのババンのあるレストランへ行くと、そこのカフェテラスにちょうどジャコメッティがいて、彫刻家のザッキンと絵描きのアトランたちと話をしていた。そして私に気づくと、彼は手招きして『このテーブルに来ないか』という。そこで、私が彼らのところへ行くと、こんな話が始まった。私はまだまだ未熟なフランス語でその話に加わったのだが、ジャコメッティが、『日本に行くには、どう行ったらいいんだ』という質問を発した。すると、アトランもザッキンも『そりゃ、飛行機か船で行くしかないさ』と答え、私もそのとおりという顔をしたのだが、彼は言葉を続けて『絶対に、陸から行く方法はないのか?』と聞く。そこで、私が『日本は島国だから、シベリアかなんかを通って陸で行っても、最後は海を船で渡るしかない』と答えると、ジャコメッティは両手を開き肩をすくめて言った。『ああ、絶望的だ!それじゃ、もう日本には行けないじゃないか。』」ジャコメッティは大地から足が離れるのが恐怖だったようです。次にマリーニのアトリエの点景です。「マリーニはミラノのブレラ美術館の中にある美術学校の先生で、この学校の近くに彼の仕事場があります。仕事場はうなぎの寝床のように細長く、入った所の壁にリトグラフが貼ってあり、そのうしろの壁に油絵がかかっており、アトリエのすべてが所せまいばかりにでき上がった作品や制作中の作品でうずまっていました。それでもアトリエは、どこまでも整然としていて、今仕事中の馬の木彫の削り屑だけが、そこであばれているような清潔さです。」マリーニはデッサン、リトグラフ、油絵と併行して彫刻の制作をしていただけあって、アトリエは素材の坩堝だったようですが、お互いが一つの意思で結ばれていると著者は書いていました。いかにもマリーニらしい制作環境だったように思いました。
    個展に来廊してくれた旧友
    東京銀座のギャラリーせいほうで私の個展が始まっていますが、毎日ギャラリーにいるとさまざまな人たちが来廊していて、私自身は去来する思いに耽ってしまいます。今日はオープニングに来られた高校の同級生から連絡をしていただいたもう一人の同級生のことを書こうと思います。今日の午後になってやってきた旧友は、ベテラン俳優で映画監督でもある竹中直人さんです。彼と私は高校時代に美術系の大学に行こうと相談しあい、受験用の予備校に一緒に通っていました。彼は多摩美術大学、私は武蔵野美術大学と別々の学校に進学してしまいましたが、彼は大学で映像研究会に入り、自作自演の映画を撮っていました。そのうちコマーシャリズムに乗ってデビューを果たしたわけですが、同時期に彼は青年座に入り、演技を一から学び直し、本格的な役者への道を歩み始めました。浮き沈みの激しい芸能界で、彼が芯の通った演技で一目置かれるのは、持ち前の真摯な姿勢と絶え間ない努力の賜だろうと思っています。映画監督をやったことは美術を専攻したことが所以になっているのではないかと察しているところですが、もう一度発想豊かな新作映画が見てみたいと私は彼に注文をつけました。私も教職をやりながら創作活動を続けてきたからこそ、こうして彼と再会する機会を持てたのだろうと思っています。10年くらい前には住む世界が違うと私は思っていたにも関わらず、クリエイティヴ・シーンが交じり合う機会が持てたことに、今も信じられない思いになります。それでも彼と会えば、高校時代に記憶が戻ってしまい、二人でデッサンに明け暮れた当時が甦ります。今も変わらない自分がそこにいました。その時点からどのくらい自分は己を広げられたのか、お互い確認しあった今日のことを忘れないでいこうと誓った一日でした。
    新旧の「孤独なる彫刻」について
    先月、平塚市美術館で開催されていた「柳原義達展」の会場で図録代わりに購入した「孤独なる彫刻」は、1985年に発行された同名の「孤独なる彫刻」があります。言わば新旧の書籍があって、どちらも彫刻家本人の著作になります。1985年初版の書籍は立派な箱に入っていて、ずっと以前から私の手元にあり、彫刻家本人のサインと掌を象った線がついていました。発行元は筑摩書房で2600円でした。これをいつ頃、私が手に入れたものか忘れてしまいましたが、1985年は私がヨーロッパから帰国した年に当たるため、あるいはその頃に手に入れて読んだものかもしれません。そうだとしたら本書に収まっていた海外の彫刻家論評を、私は夢中になって読んでいたのかも知れず、昨年初版になった新装の書籍を読み始めると、俄かに思い出す部分もありました。彫刻は大地に立つものであり、螺旋を描いて上へ向かうというフレーズが私の頭に摺り込まれていたのは、本書の初めに出てくるロダンの論評から受けたコトバである可能性を否定できません。新旧の収蔵論文を比較すると、旧書籍には「ジェルメーヌ・リシェ」「彫刻家の素描十選」「香月泰男」「高山辰雄」があり、新書籍にはそれがありません。その代わり新書籍には「無題(現代彫刻10人展図録より)」「生命の動勢《ブージェ》」「孤独な芸術家・舟越」「孤独に生きる」「心の安らぎ大和」「対談 柳原義達vs矢内原伊作」が収められています。私は「孤独なる彫刻」(柳原義達著 アルテヴァン刊)を論文によっては再読、または新しく仕入れる知識として読んでいこうと思います。現在は東京銀座で私の個展開催中なので銀座までの電車に揺られながら、改めて彫刻について考える機会にしたいと思っています。
    21’個展のオープニング
    今日から東京銀座のギャラリーせいほうで私の個展が始まりました。個展は16回目になります。昨年の個展は新型コロナウイルス感染症の影響で鑑賞者が減ってしまったので、緊急事態宣言が東京に出ている今年も個展に来てくれる人がいるかどうか不安はありました。ところが初日の今日は思ったより来廊してくださった方々が多かったと思いました。例年なら今日は「海の日」で休日のはずですが、今週に東京オリンピック・パラリンピック開催があるため、「海の日」が移動して、今日は通常の日になったにも関わらず、いろいろな人がいらっしゃいました。改めて感謝申し上げたいと思います。個展開催で例年インパクトがあるのは昔の知り合いに出会えることです。まず教職時代の同僚だった人が亡くなって、奥様がいらっしゃいました。これに私は衝撃を受けました。彼はとても気心が知れた人で、学校が抱える大変な状況を一緒に乗り越えた仲間でした。例年の個展には息子さんを含めた一家3人で来ていただいていました。私の母の場合もそうでしたが、コロナ渦で葬儀等を知らせることが出来ず、今になって私は彼の病の重さを認識したのでした。奥様に返す言葉もありませんでした。その後に工房の近隣に住まわれている方々が現れた時に、漸く私の気持ちは落ち着きました。さらに毎年来ていただいている美術評論家の瀧悌三氏とも言葉を交わすことが出来ました。午後になって印象的だったのは税理士をやっている高校の同級生に数十年ぶりで会えたことでした。彼は昔の仲間とまだ連絡を取っているようで、懐かしい名前が次々に出てきて、忽ち私も過去に戻されてしまいました。あの時のあの情景が思い浮かんで、私の頭はグルグル回り始めました。意外にも10代の記憶が我ながら鮮明なことを思い知りました。きっと今日は人がいない個展初日だろうと思っていましたが、蓋を開けてみれば、こんなインパクトがある一日になるとは思いもよらず、悲しいことから嬉しいことまで過去が巡りに巡った一日になってしまいました。個展開催が繋ぐ縁も、いろいろな意味で良いのかもしれません。