2026.10.27 Tuesday
「綺想の美術廻廊 種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「怪物」について、気に留めた箇所を取り上げます。本章では図録に添えた短文を、さらに選択して羅列してあります。「怪物に関するビュフォンの有名な定義は次の三つの博物学的網目から成り立っていた。『第一の網目は過剰による怪物のそれであり、第二の網目は欠如による怪物の、第三網目は諸部分の転倒、もしくは誤れる配慮による怪物のそれである。』」「18世紀におけるピュグマリオン・テーマの流行の背景には、ルソー主義的な『高貴な野蛮人』への憧憬がある。吸血鬼も、ドン・ジュアンも、フランケンシュタインの怪物も、ゴーレムも、すべて文明の汚染を知らない野性的な自然人として脚光を浴びた。」「悪魔礼拝の類似現象である人狼変身や吸血鬼変身は、性器的性愛を中心とする人間の性愛の位階制度からの、口唇期的肛門期的攻撃性の無際限の解放としての動物変身である。」「古代人は、大地なり、ある場所なり、地下の世界(冥府)なりの魔術的な力が根を通じて地上の植物に送り届けられ、それが花を咲かせたり、植物の薬効を育んだりするのだ、と信じていた。とりわけ根は冥府の神々に近いところにあるために、悪魔信仰には不可欠の特殊な力の源泉であった。」「キマイラやケンタウロスは現実には存在しない動物だが、その肢体の部分部分は現実に存在する要素から採集されている。悪魔でさえも角は山羊、足は四足獣、手の水掻きは両棲類、身体中に密生する鱗は水中生物から取材した合成像である。」「一般に空想や幻想は旅や旅人の産物である。異国の物産や習俗が自分たちのそれとあまりにかけ離れているために、異質のものを一つに結びつけて理解しようとするあまり、期せずして概念の怪物が出来上がってしまう。」「ファンタジーはいつも、同質の文化圏の連続性のなかでより、異質の文化の衝突のなかでめざましい役を果たす。~略~幻想は交通量と反比例する。現代のように交通が便利になってしまった時代に桃源境や魔境や幽界がおいそれとは見つからなくなってしまったのも、まさにそのためだ。」今回はここまでにします。
2026.10.26 Monday
「綺想の美術廻廊 種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「化身」について、気に留めた箇所を取り上げます。本章では図録に添えた短文を、さらに選択して羅列してあります。「安直に変身してしまえるには、一つだけ条件がある。変身する『私』があらかじめ自我を放棄して、誰でもない人になっていること。」「鏡を知った以後の人間は、他者および他者の視線を知ることになった。それが人間にとって、鏡に与えられたいちばん大きな意味じゃないかと思います。」「女性は個性を抑制して類的存在の外貌を帯び、人形のように同じ顔になってはじめて永遠に女性的なるものの秘密を証すのである。」「すべてが機械に代行されて人間が何もしなくていいという無為の楽園は、その裏側に何一つやることがなくなってしまうという外界に対する接触不能の地獄をひそませているかもしれない。」「人形への愛にはあらかじめ当てにできる到達点というものがない。それは、うつろな眼窩のように愛や崇拝の感情をことごとく吞み込んで、いかなる応酬もしない非情な虚無である。」「鉱物の絶対性、永遠の不変性は美と栄光の輝かしい象徴たるべく運命づけられているが、同時に不変なるものにたいして移ろい行く生のはかなさを鋭く対比づける酷薄な試金石でもあった。」「同じく人体を象ってはいても、彫刻であれば、古典的な美の規範に支配され、素材が金属、粘土、石、木、その他何であれ、大地のなかから採られてきたものでありながら、造形意志の力によって大地から純粋に聳立し、高度に分離している。だが、人形はちがう。人形はともすれば、それが生まれてきた大地のなかに崩れ落ち、土に還り、虚無に吞み込まれる、危うい予感をたえず湛えている。」「両生類はとどのつまりは完全な水棲動物に退化し、ついに子宮内の羊水の逸楽を復元するかのように、熱帯の温水の水底深く漂いながら地球という原母胎に還り、ここに巨大な全生命的規模の母胎還帰願望が完結するのである。」今回はここまでにします。
2026.10.25 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。現在、新作である6点の塔で構成する陶彫作品を作っています。6点はそれぞれ三段の陶彫部品を上積みして塔にしようとしています。今は一番上段になる三段目の陶彫部品を作っていますが、この部品を下段、中段でやったようにタタラと紐作りの併用で作るのではなく、型で作っていこうとしています。つまり粘土で原型を作り、石膏で型取りをして、その雌型の内側に陶土を貼り付けて、型抜きをしていく方法です。これは私が大学で彫刻を学び始めた10代の終わり頃に石膏型取りの教えを受けて、それから頻繁にやってきた技法でもあるのです。私は大学に入学するまでは工業デザインを学びたかったので、彫刻を始めたのは大学1年生からです。それまで石膏で型を取ることすら私は知りませんでした。人体塑造は粘土で作っているので、それを保存するための方法として素材を粘土から石膏に換えていくのは理に適っているなぁとその時思いました。ただ粘土から石膏に作品が換わると別の作品になってしまうので、そこに不満を持ちましたが、当時は石膏型取りが日常化していました。人体塑造から現在の陶彫による集合彫刻に至っても、時折私は石膏型取りをしていて、工房には石膏の雌型が幾つも残っています。人体塑造の石膏型取りは雌型が出来ると内側に分離液を塗り、雌型同士を合わせて、そこに石膏を流し込み、石膏が固まったところで外側の雌型を壊していくのが基本です。陶彫の場合は雌型の内側に陶土を貼り付けて型を抜くので雌型は何度も使います。今回は先がやや尖った形状にした縦に長い円錐形で、型抜きが出来たら、そこにそれぞれ6点の塔に合わせた彫り込み加飾を施していく予定です。6点の塔で構成する作品は愈々最終段階を迎えていて、従来の私の作品群の発展的形態とも言えるものです。これは来年春頃には完成予定ですが、夏の個展には別の新作も出品する予定なので、それを考えると余裕は持てません。無理をせず頑張っていこうと思っています。
2026.10.24 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況を言えば、新作の焼成が出来上がっている陶彫作品が3点あり、今日4点目の窯出しをしました。まさに焼成の1週間でしたが、作品が窯に入っている焼成時は、いつものように工房が使えず、地元の市立中学校で開催された学校運営協議会に出席してきました。久しぶりに教育現場に触れましたが、自分が現役の時と違い、新鮮な空気を感じました。しかも今年から横浜市は1年生が35人学級になっているのを目の当たりに見てきました。しかも生徒の手元には一人1台の端末があり、時代とともに教育環境が恵まれつつあるのを実感しました。創作活動に戻れば、今週は6点の塔で構成される陶彫作品の一番上段になる部品について考えていました。上段は先端が細くなる塔になり、当初のイメージ通りにするにはどうしたらよいのか、下段や中段のようにタタラと紐作りの併用技法だと、細すぎて内側に手が入らない状態になり、これは作り方を変えていく必要があると思いました。そこで上段の原型を粘土で作り、石膏で型取りをし、その雌型を使って成形をやっていこうと決めました。型を使って成形をやったことは過去に何度もありました。確か前に購入した切金や焼石膏があったはずだと思い立ち、棚を探したところ、かなりの量の未使用の焼石膏が見つかりました。それほど湿気も含んでいないので、これはまだ使えそうだと思い、早速先日より原型制作に入りました。久しぶりの石膏型取りで、昔のことを思い出しながら作業を進めました。石膏型取りに関しては別稿を起こしてもよいかなぁと思います。読書に関しては今週から「綺想の美術廻廊 種村季弘・異端断片集」を読み始めました。私の創作世界の真逆にあるエロチシズムや情念を主題にしていて、私としては実は大いに関心のある世界なのです。幻想に遊ぶことで、生命力を謳うことを目的として、今後は大切に読んでいきたいと思います。
2026.10.23 Friday
「綺想の美術廻廊 種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「吸血鬼」について、気に留めた箇所を取り上げます。本章では図録に添えた短文を、さらに選択して羅列してあります。「吸血鬼は、寄辺ない近代人のヴェールを剝がれた不安な素顔そのもの、その被投企の実相の神話的形象への投影にほかならない。」「吸血鬼は死と生との世界に同時に住み、両界を自在に往還するすべを心得た二重存在なのである。」「市民社会化が進み、とりわけそれぞれの世紀末の衰退した雰囲気のなかですべてのものが沼のように無気力に澱みすえた魔の時刻に、吸血鬼は跳梁しはじめるのである。」「吸血鬼はむろん女の吸血鬼も、それぞれがそれぞれにとって異形である男女の怪物性のひたすらエロチックな意味に即して深められ拡大された畸型学的誇張である。」「アニマには二つの顔がある。死と地下世界に通じる冥府的破壊的側面と、天上的宥和的側面である。そもそもがひとつの全一性を形作っていたものが二つに割れたのだから、その一方にあこがれれば、もう一つの側もその影として姿をあらわさないわけにはいかない。」「ドイツ語では現在でも売春を意味する動詞hurenは同時に『偶像を礼拝する』の意味である。時間という黒い汚染源に清らかな額を洗われて、聖性はしだいに卑賎へと失墜してきたのだ。」「悪魔は教会芸術と神学的文献のなかで形成された、その論争的な、大衆説得用のあざといこけおどしめいた形姿を、戦術的にかなぐり捨てただけかもしれないのだ。」「血は永生の霊液であり、吸血鬼信仰は不老長寿精力増強の妙薬たるこの血の呪術的効能に基づいている。」「生の本能たるエロスは、いうまでもなく生体維持、進歩、場の確保を目的とし、タナトスの破壊し、消滅させ、退化させる力に対立する。」「誘惑し凌辱する死の襲撃にたいして美(=女)は奸智をこらして逃れようとし、鏡や装身具や意識的な媚態のような、その虚栄象徴の人工性の極致をこらした防衛策をつくして死の解体する力と競い戦い合うのである。」今回はここまでにします。