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  • 週末 焼成&鑑賞充実の1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況を言えば、新作の焼成が出来上がっている陶彫作品が2点あり、今も3点目の作品が窯の中に入っている状態です。今週は毎日工房に通って、窯入れのための準備を行なっていました。乾燥した陶彫部品にヤスリをかけて、化粧掛けを行なうのが窯入れのための準備です。これは陶彫の制作工程で言えば最終工程に当たるもので、新作の完成が確かなカタチになってくるので、新作の方向がはっきりしてきます。私が作っているのは集合彫刻なので、まだその一部分しか完成していないのですが、それでも確かな手応えを感じています。陶彫の最終工程に焼成があるために、陶彫の制作すべてが、作品を窯に入れるための配慮をしながら作業を進めているわけです。前に幾度となくNOTE(ブログ)に書いていますが、陶彫制作の一番面白いところがそこにあります。最後は焼成と言う神頼みで作品が出来上がっていくのです。窯入れをしている最中は途中で電気ブレーカーが落ちないように、窯以外のブレーカーを初めから落としておきます。つまり焼成中は工房での作業が出来ません。今週は3回目の窯入れを金曜日に設定したので木曜日の作業終了時に窯のスイッチを入れました。そこで金曜日は朝のうちに工房に行って窯の温度確認を行なった後、東京の上野に出かけました。家内は邦楽器演奏があったので、今回の鑑賞は私一人でした。東京国立博物館「大徳寺展」は開催間もない時期なので、展示品の質量からしてみればさほど混雑しているとは思えませんでした。次に向かったのは東京駅に隣接しているステーションギャラリーの「水滸伝」展で、ここも大きな混雑はなく、ゆったりと見ることが出来ました。どちらの展覧会も細密な描写作品が多く目が疲れました。「大徳寺展」の詳しい感想は後日書かせていただきますが、狩野派による障壁画が私には印象的で、墨の強弱や運筆に幽玄を感じていました。また「水滸伝」展にあった歌川国芳の豪傑を描いた絵画の刺青に目を凝らし、その緻密さに驚きを隠せませんでした。疲労を顧みなければ、私は優れた展覧会2ヶ所を十分に味わった1週間になりました。
    東京駅の「水滸伝」展
    昨日、工房で窯入れを行ない、それに伴って電気ブレーカーを落としてしまったので、今日は工房が使えない状態です。もう恒例化していますが、それを利用して私は鑑賞に出かけています。今日は東京の上野にある東京国立博物館で開催している「大徳寺」展と、東京駅にあるステーションギャラリーで開催している「水滸伝」展に行ってきました。「大徳寺」展は膨大で貴重な作品があり、これは後日改めて誌面を割きたいと思います。さて、「水滸伝」展ですが、私がいつ頃、中国四大奇書である「水滸伝」を知ったのか、思い返してみれば、高校生の時にNHKで放映していた人形劇「新八犬伝」に遡ります。この人形劇は滝沢馬琴「南総里見八犬伝」を原作としていて、さらに「南総里見八犬伝」は「水滸伝」の影響を色濃く受けていました。「水滸伝」の荒筋を大まかに知ったのは大学生の頃で、これも実写ドラマで知りました。図録には「『水滸伝』は、宋江を首領とする百八人の豪傑が、山東にあった梁山泊という巨大な沼沢地に集結して、権力に反抗する物語である。」とありました。本展では、その豪傑たちを描いた歌川国芳の密度のある絵が数多く展示され、その質量ともに私は圧倒されてしまいました。図録より拾います。「『水滸伝』という主題そのものに正面から取り組んだのが、浮世絵師・歌川国芳であった。彼の『通俗水滸伝豪傑百八人一個(壱人)』は、独立した水滸伝人物像として爆発的な人気を得た。本作には、先行する葛飾北斎画『新編水滸画伝』の図像はもちろんのこと、陸謙系の水滸伝人物図、陳洪綬『水滸葉子』版画本など中国由来の図像を摂取した痕跡が明らかにされている。中国絵画からの影響は国芳自身も自覚しており、自身の武者絵制作について、李公麟の水滸伝人物像を模したことで世に名を知られるようになった、と幼き日の河鍋暁斎に語った。~略~中国絵画にみられる抑制された動きの人物像に対し、国芳は豪傑たちを、刺青や筋肉、武器、劇的な構図によって、激しく躍動する身体として描き出した。」(引用は全て小松謙著)国芳のどの絵画をとっても刺青に覆われた豪傑の動的な姿態があって、しかも繊細なタッチに驚きました。本展にあった曲亭(滝沢)馬琴作 葛飾北斎画による「新編水滸画伝 初編」はまさに現代の劇画そのものの線描が使われていて、私は今も生きている水滸伝の画法に親しみを感じていました。
    「奇想の美術館」読後感
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)を読み終えました。訳者あとがきに「独特の感性で選びだした12のイメージー絵画、写真、彫刻、建築ーを例にあげ、『美術作品を見るときに人が考えること』を探ろうとしたのが本書である。」とありました。また、あとがきで著者は「舞踊や芝居を見るとき、人は踊り手や俳優に自分を重ね合わせる。それと同じように、世界を前にして考え、行動する人は、自分の考えや行動と同化することになる。誕生の瞬間から私たちは、ほかの人たちが考え、行動するのを見つづける。そして、その人の喜び、アイデア、直観、苦しみなどを自分のものとして感じる。そんな親密な共存関係から、自分がほかの誰かになりかわったような錯覚が生まれる。快楽、教育、そして安らぎのために、私たちが意識して作りだすイメージはそんな錯覚を拡大する。~略~本来、イメージとはすべて、色の染み、石の塊、網膜に作用する光でしかなく、それが引き金になって発見や回想が導き出されるだけのことである。」と書かれていました。美術作品を鑑賞するときに、何かを感じ、考えを巡らせることを著者なりの表現で著したものは、一般的に出回っている美術評論とは異なる論法があって、私は面白いと思いました。時折、不可解な箇所もありましたが、私が思いもよらない視点からのアプローチがあって、共感も覚えました。ただ、残念なのは本書が西洋美術に限られていることで、西洋で育った人が西洋美術を考えるという限定的なものが、私にはやや物足りなさを齎せました。たとえば彼の感性を持って東洋美術を取り上げたなら、どんな著作が生まれただろうと想像してしまいます。とりわけ私が生まれた日本は、奇想の画家の宝庫です。彼らは西洋美術に匹敵する世界観を有しています。「奇想の系譜」(辻惟夫著 筑摩書房)を紐解くと、伊藤若冲をはじめとする奇想の画家が並んでいて、私にも想像が及ばない奇抜とも言える奇想天外を、西洋人がどう捉えるのか、興味が尽きないところです。
    「劇場としての絵画」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第12章である「劇場としての絵画」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はカラヴァッジョの絵画についての考察です。「(ナポリの教会において)栄光の場所である高祭壇の上の絵は、1607年、カラヴァッジョに注文され、《慈悲の七つの行ない》(一時期は《慈愛の聖母》と呼ばれたこともあった)が描かれた。ローマ当局に追われ、まじめな教会参事には疑わしい目で見られていたにもかかわらず、当時のカラヴァッジョはきわめて人気の高い画家だった。~略~カラヴァッジョの舞台装置はなんの意図ももたず、寓意的な含みもない。貧困を浄化するために教会が用意した舞台装置とは異なり、またコンメディア・デッラルテの様式化された娯楽の舞台ともちがう。これも劇場ではある。だが、カラヴァッジョにとって、慈悲の行ないがくりひろげられる舞台ーそれが真実を語るものならーには観客も参画すべきだった。したがって、カラヴァッジョは絵を見る者が部外者として留まることを許さない。彼らを役者の一人に変えてしまう。目の前でくりひろげられている事件の関係者にする。~略~ナポリの貧民たちを神聖なキャンバスという舞台に乗せたとき、カラヴァッジョは、すでに古くなっていたトリエント公会議の決定に背いただけではなかった。彼はあいかわらず、さまざまなものを作品にとりこんでいた。コンメディア・デッラルテとともに、庶民たちが街角や路上でくりひろげつつあった公共の舞台、カーニバルや愚者の祭り、教会が主宰する祭礼の行進や聖史劇さえもヒントになった。そのような貧しい人びとこそ、カラヴァッジョが自分の絵のために探してきた俳優だった。~略~カラヴァッジョの絵は偽善を糾弾する。表現についてのカラヴァッジョの考え方は、バロック美術によって提案され、対抗宗教改革を唱える教会によって奨励された抽象性とはかけ離れていた。」今回はここまでにします。
    「記念碑を作るということ」について
    「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第11章である「記念碑を作るということ」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はピーター・アイゼンマンの建築についての考察です。「ケーテ・コルヴィッツの彫刻《父母》やシンシア・オジックの小説『ショールの女』は、私たちが芸術作品という水路を通って恐怖の体験に至るときの助けになってくれるーダンテの地獄めぐりを先導するウェルギリウスのようなものだ。それらは、問いを言葉にする手助けをしてくれるが、答えは教えてくれない。それらは、きわめて文学的な意味で、私たちの知りえないことを思い出させてくれる。なぜならホロコーストの苦しみは犠牲者だけにしかわからないものだからだ。~略~現代建築家のなかでも、ピーター・アイゼンマンはとくに議論の的になりがちな一人である。彼の興味は構造にあり、装飾よりもむしろ、建築物を支える部分に可能性を見出そうとする。矛盾するようだが、彼の設計は快適さや保護的な要素(たとえば中世の教会に見られる梁や控え壁は建物全体をもちあげると同時に構造を維持していた)を強調するのではなく、不安定さや気まぐれ、崩壊や乱調などにつながる危険要素を取り入れたため、彼の建物はまるで何かの『ふり』をしているかのようで、見る者を落ち着かない気持ちにさせた。~略~アイゼンマンの案は議論の重さを無視し、記念碑そのもの、建築物、『芸術作品』の威光を表現するだけで、この記念碑によって記憶に留めるべき忌まわしい出来事はどこかへ消えてしまっている。~略~理論やコンセプトを提示するだけで、あいまいなシンボルに留まることを選び、動的なシンボリズムの境界を超えられなかったために、ベルリンのホロコースト記念碑を訪れた人びとは、そのような警告を読みとることができない。アイゼンマンの記念碑は見る者を拒絶する。きわめて知的なデザインを通して伝わってくるのは、危ういほど無関心に近い、見せかけだけの自由である。」今回はここまでにします。