Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 陶彫制作&千葉の美術館へ
    今日は朝早くから工房に行き、陶彫制作をしていました。陶彫制作では、毎日自分でノルマを課し、ひたすらノルマを達成している感があります。ただし、自分を追い立てて余裕がなくなるのを避けるために、私は時折美術館に鑑賞に出かけているのです。実技と鑑賞は車の両輪と私は自分に言い聞かせていて、空間芸術は物質を介在する哲学でもあるとも考えています。そんな意味も込めて、今日は昼前に横浜の自宅を出て、千葉県にあるDIC川村記念美術館に車で向かいました。今日は家内が同行してくれました。DIC川村記念美術館で開催していたのは「カール・アンドレ」展で、カール・アンドレはミニマル・アートを代表する米国人作家で、今年の1月に逝去しています。ミニマル・アートとは抽象表現主義の主観を否定し、感情やニュアンスといったものを排して匿名的な形体や構造をもった、何ものをも表現しない彫刻や絵画を指すものです。私は学生時代にミニマル・アートの旗手ドナルド・ジャッドの作品を見て、ついに芸術はここまできたかと思ったのでした。ただし、カール・アンドレの立体作品はやや趣が違っていて、確かに匿名的な形体ではあるけれども、素材が木や鉄であるため、木の特徴である木目や裂け目がそのままあって、何ものをも表現していないはずが、芸術家の作為とは別の要素が加わっていたように思います。鉄板を並べた作品もそれぞれに錆がついていて、乾いた情緒が感じられました。確かに作家が素材を彫り刻むような行為はしていないので、「もの」派のように素材は素材のまま存在していたわけですが、そこに意図的な潔さがあって、私としては同時に心地よさも感じました。広い部屋に点在する素材の集合体は、その空間との関わりが私の感覚のツボを刺激したらしく、展示風景に満足していました。詳しい感想は後日改めたいと思います。今日は充実した一日を過ごしました。
    「《生誕》の位置づけ」について

    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第10章 失われた最後の大作 」の「1 《生誕》の位置づけ」の気になった箇所を取り上げます。本章が本書最後の章になり、本単元は失われた大作を見据えた導入部になります。「カラヴァッジョはその短い生涯のうちに、革新的な画風を確立し、さらに多様な画風展開を遂げた。しかし、ローマにおける円熟期以外の、初期の無名時代と晩年の放浪時代の数年間の画業はいまだ十分に解明されていない。特に、晩年放浪した、ナポリ、マルタ、シチリアに残された作品群は、各地でカラヴァッジェスキといわれる後継者・追随者を生み出す契機となったが、同時に数多くのコピーが生み出され、しばしばこうした作品とカラヴァッジョ自身の作品が混同されるにいたっている。~略~《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(一般に《パレルモの生誕》と呼ばれる)は、永らく彼の絶筆として知られてきており、パレルモのサン・ロレンツォ聖堂に飾られていたが、1969年10月18日深夜、不幸にして盗難に遭い、現在なお行方不明である。」この盗難された作品をめぐっては、さまざまな考察が行われているようです。果たしてこの絶筆と言われる作品は、パレルモで描かれたものかどうかさえ判明していません。「《生誕》が、1609年の夏にパレルモで描かれたということを裏付ける同時代の資料はなく、根拠となっているのは、1672年のベッローリの短い記述と、作品がパレルモに存在してきたという事実のみといえる。~略~彼がパレルモに滞在したとすれば、1609年の8月から10月の、せいぜい二、三カ月ということになる。期間的にも非常に短く、しかも資料が存在しないこと、そして時に、パレルモ滞在の唯一の証拠である降誕図が、様式的・図像的にメッシーナの作品と著しく異なることから、彼のパレルモ滞在と作品の制作時期が疑問視されてきた。」これが本章の導入部となり、次の単元では画面に描かれたモデルについて触れています。今回はここまでにします。

    「騎士団長礼賛」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第9章 犠牲の血 」の「4 騎士団長礼賛」の気になった箇所を取り上げます。本単元でも前から継続して「洗礼者ヨハネの斬首」を扱っていて、現在オラトリオに設置されている作品に関する状況の追加説明をしています。「(カラヴァッジョの作品は)騎士団長ヴィニャクールが島に来る以前に起こった大包囲だけでなく、彼の治世に起こった事件を反映し、その輝かしい戦績を称える意味をも担っていたと思われるのである。とはいえ、《騎士団虐殺図》がカラヴァッジョ作品のすぐ上の設置されていたという事実は、カラヴァッジョ作品もまた、元来、騎士の殉教を称え、その鎮魂という意を担っていたことと無縁ではないのであろう。」騎士団長ヴィニャクールはカラヴァッジョをどう見ていたのか、そこに触れた文章がありました。「カラヴァッジョがマルタ島に来た理由はさだかではないが、まずヴィニャクールの肖像を描くという仕事を受けたことから、騎士団長が招いた可能性も強い。しかも近年アッツォパルディやマチョーチェらによって発見された史料があきらかにしたように、ヴィニャクールはカラヴァッジョがローマで殺人を犯したことを知っており、騎士団の規則を曲げてまで画家を騎士にしようと苦心しているのである。~略~洗礼者ヨハネの斬首という図像伝統の大枠に従いながら、犠牲を暗示する処刑の特殊な様態やいくつかの特殊なモチーフによって、騎士団にまつわる現実的な意味が付加されていたと思われるのである。つまりこの作品は、制作当初において、騎士の戦死、洗礼者ヨハネの殉教、キリストの犠牲という重層的な意味をもっており、対イスラム戦の英雄的な活動を主導した騎士団長ヴィニャクールへの称賛と、戦死した騎士たちへの鎮魂を込めたものであるというものである。」今回はここまでにします。
    24’卒業制作展に行く
    工房に出入りしている美大生で、女子美術大学で染織を専攻している学生がいます。彼女はまだ2年生ですが、先輩が卒業制作をしている姿を見ていて、その完成作品を見たいと言っていました。今日は工房に出入りしている学生を、その子も含めて3人誘って女子美術大学の卒業制作展に行ってきました。女子美術大学は相模原の緑地の中にあって、施設周辺の環境は抜群です。おまけに今日は晴天に恵まれ、絶好の展覧会散策日和になりました。同大の工芸学科染織専攻と美術学科日本画専攻には密度の高い作品が多く、私はじっくり見せてもらいました。工房に出入りしている染織専攻の子は、日頃から課題が多く出され、春季休業の現在も課題が出されていると悩んでいましたが、それには確かに理由があるなぁと、私は卒業制作展を見て納得してしまいました。彼女は素晴らしい環境で染織の勉強をしていると思っています。染めの工房も垣間見させていただきましたが、数人の学生が来て作業をしていました。大学は入試も終わり、あとは卒業式を待つばかりで、何人かの学生が往来していました。私は卒業制作展を見て来ると、いつも考えることがあります。卒業した後、多くの学生は就職していきます。素晴らしい環境で学んだ創作活動は、そこで終わってしまう学生も少なからずいると思っています。とりわけ絵画や彫刻を学んだ子は、自分のやりたいことが将来もできる保証はどこにもありません。私自身が経験した辛さが、多くの学生の身に起こるのです。創作意欲が高く、メンタルが強い子はそれでも創作活動をやっていくでしょう。そうした卒業生が何人いるのか、私には卒業した後の末路を知りたいと思う時があります。工房に出入りしている学生たちはどうでしょうか。そんな複雑な気持ちを抱えたまま、夕方になって卒業制作展を後にしました。
    週末 トイレにあるP・クレー
    今日は日曜日なので創作に纏わることを書きます。私が自宅の中で注目しているのはトイレに貼られた月捲りのカレンダーです。2年前から我が家は、パウル・クレーの画像が全面にあるカレンダーにしていて、トイレに入る度にその色彩と線描を眺めては、私は時に心が安らぎ、また時に心に刺激を受けているのです。ドイツの画家パウル・クレーは20世紀初頭に活躍し、当時革新的な美術教育をやっていたバウハウスで教壇に立っていました。作風は色彩や線を実験的に多用し、そこから迷宮のような世界に私たちを誘います。一見子どもが描いたような痕跡に見えますが、それは児童画のような自由自在な装いを纏っているだけで、塗られた色彩や何気なく描かれた線描には、緻密な計算があるように思えます。パウル・クレーが感覚的に線を引いていたとしても、どこかに知的遊戯性を感じてしまうのは私だけでしょうか。このような絵画は誰でも描けるように見えて、パウル・クレー本人にしか描けない世界観なのです。それはドイツという国のもつ気候や国民の気質に通じています。同じような子どもが描いたような痕跡をもつ絵画にジョアン・ミロの作品がありますが、ミロの世界観はスペインの明るさに通じていて、クレーのそれとは異質な美的情緒です。私は20代の頃にドイツ語圏の国に暮らしたことがあるので、クレーの世界観は感覚的に理解できます。私はクレーの色彩と線描に深淵なるものを感じ取っていて、冬の厳寒な気候を思い出してしまうのです。そこに陽光はなく、曇り空が毎日続いている鬱々とした気分が甦ります。壮大な音楽や哲学が発展したのも、自分がかの地で暮らしたからこそ解るものだったんだなぁと思います。トイレにしゃがみこんで、今日はそんなことを考えました。