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  • 「カシミール・マーレヴィッチと至高主義」について
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」の中で具体的な芸術家を取り上げていますが、今回の単元はロシアの画家「カシミール・マーレヴィッチと至高主義」を扱います。「マーレヴィッチはタブローから、あらゆる具体的あるいは象形的要素を完全にのぞきさっただけでなく、いっさいの形態を暗示するもの、また形態になりえたかもしれないいっさいのものを除きさった。かれの美意識はそれほど徹底していたので、かれはみずからこれを至高主義的(シュプレマテイスト)と名づけた。ここではいかなる和解、妥協の余地もありえなかったし、また抽象の意志、かれにあっては同時に、しかもとりわけ、抽象本能の形をとっていた抽象の意志は、異常なほどの細心さをもって、もっとも単純な形態のなかからいくつかの抽象的な形態を選びだし、これらの形態によって、タブロー全体の空白から、タブローの主題となる、もっと正確に言うならタブローになる、あの感覚、あの内的経験をよび起そうとしているのである。~略~マーレヴィッチの芸術は純粋感情の美学となる。かれは書いている。『いつ、いかなる場所においても、創造の試みの源泉は、ひたすら感情のなかにのみ求められねばならない。』感情によって導かれる幾何学、これこそかれの絵画の本質をなすものであり、形があのような魔力をもっているのも、感情が形をみたす、そのみたし方によるのである。かれの有名な絵、『白の上の白』にわれわれが見るのは、純粋な詩的抒情へ到達するための、色彩の抹消、形態の抹消である。~略~マーレヴィッチは、疑いもなく、あらゆる画家のうちでもっとも抽象的な画家である。なぜなら、かれはタブローから具象的形態を、ついで幾何学的形態を除きさり、さらに形態になお残されたものをすべて非物質化することによって、無形態以外のなにものでもない非物質的な形態をさえ把握しようと望んだからである。かれが幾何学的形態を採用したのは、物語的、自然主義的なものから解放され、もはや一時的でも相対的でもない、本質的で永遠的な実在に到達しようとしたからにほかならない。」マーレヴィッチの徹底した姿勢は、ロシア構成主義に影響を与えたのでした。今回はここまでにします。
    「ロベール・ドローネー」について
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」の中で具体的な芸術家を取り上げていますが、今回の単元はフランスの画家「ロベール・ドローネー」を扱います。「キュビスムやフォーヴィズムとならんで、ドローネーのなかでは、対象の圧制から逃れようとするきわめて明確な欲求が形をなしつつあった。ただ、それはキュビストの場合のような、形態の組織的な分解とも、フォーヴにおける色の祝祭の、目くるめくばかりな爆発とも異なる方向へ向かおうとするものだった。~略~ドローネーは、みずから言っているように、《キュビスムの異端の開祖》となる。しかしかれは、印象主義だとか《装飾的》だとか非難されながらも、アポリネールがかれに呈し、かれ自身も同意した形容語、引き裂かれたキュビスムという言葉によって、なおキュビスムにつながっていた。」私は嘗てドローネーの「エッフェル塔」という油絵のシリーズを見て、この画家が何を求めていたのかを考える機会がありました。エッフェル塔が幾重にも分割され、背景と一体化した世界観は、当時パリを席巻していた様々なイズムの潮流があったとしても、私には美しく面白い世界観に見えました。ドローネーは当時どのくらい芸術的に斬新だったかというよりも、画面の分解構成の感覚を私は大変気に入っていて、今も好きな画家のひとりなのです。「ドローネーの作品のうち真に抽象的といえるのは一部分にすぎないのだが。ドローネーがつねに抽象と具象との二本道を歩んだということ、そして非常にしばしば、このふたつの傾向が交叉し、互いに影響しあったということは興味のある事実である。かれが拒絶しようとしたもの、それはかれが伝統的具象絵画とよぶところのものだった。なぜなら、かれは自分の描く形態のなかにさえ、まったく非対象的なものを感じとっていたからだ。かれは《純粋な現実》、《絶対的な現実》を追求する。この現実は、自然にはもはやなにひとつ負うところのないものであるはずだった。」今回はここまでにします。
    新聞記事より「薬師如来立像」の印象
    東京国立博物館で開催されている「神護寺―空海と真言密教のはじまり」展。何回となくNOTE(ブログ)で取り上げましたが、ほとんど両界曼荼羅に拘ってしまい、展覧会場で存在感を放っていた「薬師如来立像」についてはあまり誌面を割いていません。今日の朝日新聞夕刊に「薬師如来立像」の記事が掲載されていたので、当の仏像と対面した時の印象が甦りました。「東京国立博物館の丸山士郎研究員は『現代まで伝わる仏像は多くあっても、作り手の意識が強く感じられる像はそう多くはない。この像は、考えて、考えて、作られている』と話す。顔の造形しかり、衣の表現しかり。左袖の側面に見られるような、波のように丸みのあるひだと尖ったひだを交互に刻んだ表現を『翻波式衣文』と呼ぶが、『これほどきれいに翻波式衣文を彫っている像はなかなかない』と丸山さん。」(松本紗知著)作り手の意識は私にも伝わっていました。衣文だけではなく、眼差しや指一本にも仏師の思いが込められていると感じていました。威厳のある顔にどっしりとした存在、それが神護寺が荒廃した平安末期には、雨ざらしになっていたというのは些か驚きでした。私は時折、仏像が見たくなって寺院を訪れますが、寺院の伽藍に収まった仏像と博物館で見る仏像は印象が大きく変わります。寺院に安置された仏像は周囲の雰囲気も相まって、信仰の対象となり、思わず合掌したくなるのです。この御顔を見つめていると自分の願いが届くのかと思うのは信心の第一歩かもしれません。それに比べて博物館で見る仏像は鑑賞の対象で、全体のバランスを見て、細部の造形を味わうのです。私は同じ仏像を寺院と博物館双方で見るようにしていて、仏像を信仰と鑑賞の両面から味わうことにしています。先日見てきた「薬師如来立像」は場所が博物館だったこともあり、仏像との距離も近く、また仏像の背中も見ることができ、さらに計算された照明の演出もあり、立派な彫刻作品として鑑賞してきました。記事にあった「この像は、考えて、考えて、作られている」というのも納得の印象でした。
    お礼状の宛名印刷
    先日、お礼状の印刷が出来上がってきたので、今日は宛名印刷をしました。私は個展の度に、わざわざ東京銀座まで足を運んでいただいた方々にお礼状を出しています。ただし、ギャラリーせいほうから郵送された案内状を持って来られた方々の中には、芳名帳に住所がない方が多数いらっしゃって、その方々には失礼ながらお礼状が出せません。改めてこの場を借りて来廊の御礼を申し上げます。私の知人・友人は住所を把握していますので、芳名帳に住所がなくてもお礼状を送らせていただきます。私は3年前まで教職との二束の草鞋生活をしていて、生活そのものが多忙だったためと、私自身撮影が苦手だったために懇意にしている2人のカメラマンに、図録の撮影とホームページの企画や運営をお願いしています。その流れがあって、個展初日にホームページのExhibition(展覧会)掲載用の撮影をカメラマンが来て行っているのです。その中でお礼状の画像を選んでいます。毎回私が感じることですが、自分の作品がギャラリーに展示されている様子を、他者がその風景を切り取って示してくれることに大変興味を持っていて、自分とは異なる感覚なり視点なりに新鮮な驚きがあります。今回の展示はまさに他者が入り込んだ状況が多くありました。全体構成もスタッフ任せ、撮影もカメラマン任せで、自分はただ只管作品を作るだけに終始しました。それでも面白い世界観が打ち出せることに私は満足しました。作品は作者の手を離れると一人歩きを始めると、先輩の方々から言われたことはこういうことかと改めて認識しました。幸運であれば作品は自分よりずっと永く存在していくので、そんなことも考えていました。お礼状を巡ってさまざまなことが私の頭に去来しました。
    週末「発掘シリーズ」の原点を探る
    日曜日になりました。週末になると、毎回創作活動についてNOTE(ブログ)に書いていますが、来年発表する予定の新作のイメージが朧気ながら現れているので、今回はそれについて書きます。新作は実家を解体した折に出た大黒柱を使います。大黒柱数本は間隔を置いて床に倒します。柱に溝を彫り込んで、そこに陶彫作品を埋め込むか並列に配置しますが、陶彫作品は柱の厚みに合わせた高さで作ります。全体としては床を這うようなイメージですが、陶彫作品には柱を跨ぐ陶橋を作り、その多少上空に浮き出た空間の繋がりと構築性を新作の目玉にしていこうと思っています。また同時に展示する平面作品にも造形が浮き出たレリーフを準備しています。平面作品も橋で形態を繋ぐテーマは一緒です。新作を考えていくうちに、私は「発掘シリーズ」が始まった30年近く前のことが頭にありました。私のデビュー作品は「発掘~鳥瞰~」で、大地を鳥の視点で見た情景に、陶による都市がところどころ露出している有様を表現したものでした。それを屏風仕立てにして展示しました。トルコ、ギリシャの広漠とした風土の中を長距離バスで旅していた20代のころに、点在していた都市の遺構が心に焼きついてしまい、私はそれを抽象化して作品にしたのでした。私の彫刻は大地を境界として、上に向かう造形と下に埋もれている造形の二極化する考え方を具現化したので、新作にも大地をどうするかが常に頭にあったわけです。木材の柱は、私が見てきた広漠とした風土の中では朽ち果ててしまうものですが、これはあくまでも象徴としての風景であるので、古木の存在感はそのまま使わせていただこうと思います。大黒柱はそこに実家の記録の蓄積が詰まっていて、単なる素材として扱うことは出来ません。堂々とした風格を生かしていけたらいいなぁと私は考えています。