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  • 映画「ブルータリスト」雑感
    いつもなら工房で窯入れをし、窯以外の電気を使えない状態にして、映画なり美術の鑑賞に出かけるのが常でした。ところが陶彫作品の乾燥が微妙だったために、今日は午前中陶彫制作に励んで、午後になってから家内を誘って、横浜市鴨居にあるエンターテイメント系映画館に「ブルータリスト」を観に行きました。本作は、本年度アカデミー賞3部門、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞に輝いた3時間35分に及ぶ長尺の大作でした。図録から本作の骨子になるところを拾います。「ホロコーストを生き延び、ハンガリーからアメリカへやって来たユダヤ系の建築家ラースローは、本来なら希望に満ちたこの自由の国で、多くのものを奪い取られる。従兄弟のアティラのもとで手にした仕事も、建築家としての誇りも。3年後、日雇い労働に身をやつした彼に手を差しのべるのは、かつて彼の設計に難癖をつけた実業家のハリソン・ヴァン・ビューレンだ。~略~ラースローはハリソンの強大な力の前になすすべもない。翻弄され、アルコールとドラッグに蝕まれたラースローは、こんなふうに吐き捨てる。『米国の人々は我々を望んでいない。我々がイヤなんだ!我々は無だ。無にも満たない』と。対してエルジェーべト(妻)は、『この地は腐ってる。景観も口にする食べ物も、国すべてが腐っている』と唾棄し、ついにはハリソンを面前で強姦魔と罵る。」(門間雄介著)本作は建築が主体となって、しかもバウハウスで学んだ機能的構築物を創る建築家が主役の映画です。ただしドキュメンタリーではなく、完全にフィクションなので、建築を巡る人間関係やその生きざまが克明に描かれていて、建築そのものより寧ろ人間性のドラマになっていると私は感じました。ブルータリズムとは装飾より構造が剥き出しになっている様式で、近代デザインを牽引したバウハウスの考え方が反映されているのです。私はそんな興味関心から本作を観ようと思ったわけですが、移民の苦しさや文化的な違和感が主題になっている箇所が多く、建築の新しい構想をもっと描いて欲しかったと思っています。そこがドキュメンタリーではないので、本作には限界があるのかなぁとも考えました。
    八重洲の「アルプ展」
    先日、東京八重洲にあるアーティゾン美術館で開催されている「アルプ展」に行ってきました。正確には「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展で、要するにアルプ夫妻によるデザインや彫刻による2人展なのでした。私は彫刻家ジャン・アルプの作品を知っていても、ゾフィー・トイバー=アルプは知らず、本展で彼女がテキスタイルから様々なデザインへ展開した作品の実績を知ることが出来ました。夫妻で協働した制作もあり、興味深く鑑賞しました。図録によると「1930年代後半に、1918年の《デュオ=コラージュ》以来となる、久々の協働での作品制作がなされているのは、この状況(※ナチス政権のこと)と無縁ではないだろう。《夫婦彫刻》と《標抗》という2点の彫刻がそれにあたる。この協働がどちらに発して主導されたものかは不明である。木を用いた立体作品を既に手がけていたトイバー=アルプのみならず、アルプもまた1930年初めから主に石膏で彫刻に取り組み始めており、自然物の組成や循環をモデルとする有機的な形態を生み出していた。丸みとしなやかなシャープさとが同居した協働による彫刻は、1910年代の《デュオ=コラージュ》とは対照的に、創造の自由の希求をめぐる連携が確認されているかのようである。」とありました。それでも私はアルプ個人の彫刻につい惹き込まれてしまうのです。「アルプの彫刻制作において、石膏は特に重要な素材であった。通常、石膏は粘土によるオリジナルの複製に用いる媒体で、多くの場合はその先に大理石のヴァージョンやブロンズへの鋳造を見据えた、彫刻制作の総体のプロセスでは過渡的な位置を占める。~略~大理石やブロンズと異なり、一旦形態を確定した後もヴォリュームを調整することのできる石膏が好適な素材であったであろうことは、想像に難くない。」(引用は全て島本英明著)本展ではジャン・アルプの形態がどのように作られていったのかがよく分かりました。またゾフィー・トイバー=アルプはデザイナーとして出発した故に匿名性があるため、資料が散在してしまった場合があり、その記録を履歴に起こすのが大変だったようです。それでも本展では彼女の色彩や形体を物語る資料に、その実力を垣間見た感じがしました。
    上野の「ミロ展」
    先日、東京都美術館で開催されている「ミロ展」に行ってきました。日本では幾度となく展覧会をやっているジュアン・ミロですが、今回の展覧会にはミロの世界を概観するのに充分な作品群が揃っているような感覚を持ちました。私が好きな絵画は1940年頃に描かれた「明けの明星」、「女と鳥」、「カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち」があります。会場では薄暗い中で、そこだけ照明が当てられて、決して大きくはない作品ですが、表現された世界に大きな空間を感じていました。ミロが取り組んだ表現形式の中で、とりわけ私は立体作品が好きで、本展にも何点か来ていました。彫刻の既定路線とは違う趣向があって、ミロの立体に見られる自由さが私の気に入っているところです。図録にそんな立体に関する論述がないものか探してみたら、こんな文章に眼が留まりました。「ミロは以前からオブジェを組み合わせた彫刻をいくつか制作していたが、1960年代に入るとブロンズを用いた創作に本格的に取り組み始める。そうした彫刻の出発点は常に予想外のものとなった。ミロは、『私は見つけたオブジェだけを使う。大きなアトリエにすべて集め、床に広げて置く。そしてそのなかからひとつ、またひとつと選ぶ。そのなかのいくつかを組み合わせて作ることもあれば、時にはほかの彫刻から一部を取り入れることもある』どのオブジェを選ぶのか、理由はさまざまである。ふと形を気に入ることもあれば、ユーモア、皮肉、暗示的な力、あるいは独特の象徴性に触発される場合もあった。日常的なオブジェにも深い詩情を伝える力があるとミロは考えていた。オブジェが組み上がると、ロストワックス法を用いてブロンズに鋳造するのだが、ミロが重視していたのは最終的な仕上げだった。この段階では、鋳造所の職人たちとの連携が不可欠となる。ミロは彼らの手で実現される『野性的で力強い表情』をもつ質感(パティナ)の表現力を常に高く評価していた。」(エステル・ラモス・プラ著)私はバルセロナにあるミロ美術館で見た着色ブロンズの立体作品の数々が今も忘れられずにいて、本展にも何点か来日していたので、嬉しくなりました。絵画にしろ立体にしろ、爽やかな詩情に溢れているのは、ミロ本人がもつ豊かなセンスがあればこその造形なのだろうと思っていました。
    週末 美大の卒業制作展へ
    昨晩から降り続いていた雪が、今朝はうって変わって晴天となり、すっかり雪はなくなっていました。今日は相原工房に出入りしている若いスタッフを連れて女子美術大学の卒業制作展に行ってきました。そのスタッフは同大学で染織を学んでいて、現在は3年生です。来年度に向けて卒業制作の構想を練らなければならないと彼女は言っていました。そうした教え子がいるために、私は学園祭(芸祭)や卒業制作展に行く機会が結構あります。若い世代の一所懸命取り組んだ作品には、考えさせられることが多く、また元気ももらえます。毎年卒業制作展に来て思うことは、この制作を継続できる子が卒業生の中でどのくらいいるのか、ここで制作を止めてしまうにはあまりにももったいないなぁと感じることです。デザイン業界で働こうとしている卒業生なら、その力量が試せることもあるだろうし、今まで培った学習が生かせる場面もあるでしょう。ファインアート系はそういうわけにはいかず、別の職業を持って、創作活動を続けていく人がほとんどではないかと察しています。実際私も二束の草鞋生活を送りながら彫刻を続けてきました。諦めの悪い自分は、一度染まった彫刻の魅力を捨てられず、それなりに苦労してきました。初志貫徹はなかなか困難な道です。ただ、最終学歴の4年間だけは好きなことを思い切りやった満足があれば、今後他の職業に就いても、精一杯努力する姿勢は身についているだろうし、将来の希望をたとえすり替えたとしても、そこでの頑張りで効力を発揮するのではないかと思っています。人生に一度は好きなことを好きなだけやった経験があるというのは、自分にとって最良な財産となるはずです。そんなことを考えながら、絵画や立体作品を見て回りました。特に私は彫刻をやってきているだけに、素材に面と向かって造形しようとする学生の姿に好感を持ちます。今年はインスタレーションが少ないようにも感じました。私は古い考え方を持っていることを認めますが、思想よりまず体験が先と思っている節があります。造形思想は大切ですが、まず身体ごとぶつかる姿勢を貫いてみろ、その上で思索していけと、つい前時代的な考え方をしてしまいます。今年の卒業制作展はそんな前時代的な作品が多くあったと感じました。
    週末 美術&映画鑑賞充実の1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行ないます。今週も朝から夕方まで陶彫制作に精を出していました。新作は主に陶彫部品を繋ぐ橋の制作をやっていましたが、小品にも取り掛かりました。水曜日に乾燥した陶彫作品4点に対して、ヤスリをかけて仕上げ、化粧掛けを施して夕方になって窯に入れました。木曜日の朝は温度確認に工房へ行き、そのまま家内と東京の美術館へ出かけました。東京都美術館で開催中の「ミロ展」、続いてアーティゾン美術館で開催中の「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展を見てきました。詳しい感想は来週になりますが、どちらの展覧会も充実した内容で、自らの新作で立体とともに平面作品を模索している自分には、大変参考になりました。来週にはパネルを準備して平面作品の第一歩を始めようと思います。スペインの芸術家を代表するミロにしろ、ドイツで活躍したアルプ夫妻にしろ、従来までの造形概念から自由になって、それぞれの創造行為を雄弁に語っている作品群を前にして、私も自分の中に閉じ籠らずに、最初のイメージを大切にしようと考えていました。自由になると言えば、金曜日の夜に観て来た映画「名もなき者」は、カリスマ性のあるシンガー、ボブ・ディランの曲作りやその源泉となる社会に対する眼を感じ取り、己の主張を大衆に投げかけていくパワーにも心が動きました。自分が関わっている美術にしても、映画に通底していた音楽にしても、人を興奮させたり、人を癒したりする力が宿っていて、大勢の人の感性を刺激する分野なんだと改めて認識しました。人の心を捉えるモノを作るには、どうしたらいいのか、どこを努力して、どこを目ざせばいいのか、こんなことを考えた今週は、結構充実していた1週間だったと思います。外部の刺激を入れ、自分の中で咀嚼して、自分の表現に高めていく、当たり前なことを再度知らされた1週間でもありました。