2026.05.25
「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「天地創造からアダムとエバまで」は11の単元から成っています。今回は〔5エバの創造〕から〔7蛇の姿〕までを扱います。まず〔5エバの創造〕。「いよいよ、エバの登場。創造主は、動物たちの間に『片割れ』を見つけられなかったアダムのために、『助け手』を造ることにしました。~略~システィーナ礼拝堂の天井画を見ると、ルネサンスの画家ミケランジェロも、中世の図像を踏襲しているのがわかります。『肘を曲げて眠るアダム』『両手をあげるエバ』『脇腹から生じるエバ』などは従来の図を踏襲。けれど、同時に、人体の立体感や空間表現上で齟齬をきたさないよう、アダムの位置関係にひと工夫こらしているのが心憎い。」次に〔6堕罪〕。「アダムとエバが禁断の実を食べる『堕罪』の場面は、キリスト教の教義の要です。ふたりが『罪=原罪』を犯さなければ、それを贖うために救世主がこの世に降り立つこともなかったでしょう。~略~もしも目の前に、きらっきら輝く美味しそうな果物があって、『それを食べたら目から鱗が落ちる。別世界が広がるよ』なんて言われたら、食べないでいられるでしょうか。わたしには自信がありません。案の定、エバもアダムも食べてしまいました。蛇の言葉どおり、直ちに死ぬことはなく、ふたりの『目が開け』ました。裸でいることを恥じ、いちじくの葉をつづりあわせて、腰を覆いました。」次に〔7蛇の姿〕。「エバを誘惑する『蛇』が、たんなる蛇でないことが多々あります。たとえば、楽園追放図の背景に小さく描かれた堕罪場面。実をむさぼるエバの後ろで、少女の顔をもつ『蛇』が不敵な笑みを浮かべてこちらをみつめています。~略~エバの警戒心を解くため、悪魔が少女の姿に化けたというのです。その論法を、旧約聖書の外典『宝の洞窟』は、こう説明しています。『もしも蛇が醜い悪魔の姿をしていたならば、エバは話しかけられてもすぐに逃げ去っただろう。鸚鵡に言葉を教えるとき鏡を用いるように、自分と同じ姿を蛇にみいだしたからこそ、会話が成り立った。』」今回はここまでにします。