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  • 週末 如月展&制作の1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行います。今週は日曜日に横浜山手にあるギャラリーと横須賀美術館へ学生たちを連れて回ってきました。横須賀美術館では教え子が参加している「HIRAKU」というグループ展と「日本の巨大ロボット群像」展を見てきました。月曜日は退職校長会主催による「如月展」の搬入があり、私は陶彫の小品を2点出させていただきました。私はその日が当番だったので、画廊にいると知り合いの方々がお見えになり、わざわざ足を運んでいただいたことに感謝しました。家内も友達を誘って金曜日に画廊を訪れたそうで、その日当番だった元校長の方が丁寧に対応してくださったと言っていました。明日が搬出日なので、私は明日の午前中から画廊に行っております。もう明日しか日程が残っていませんが、ご高覧いただけると幸いです。火曜日から今日の土曜日まで私は工房に通い、陶彫制作に明け暮れていました。美大が春季休業に入ったため、いつも来ている美大生が平日に工房に来て、熱心にデッサンをやっていました。コツコツ努力する彼女は、次第に技術が上達してきたように思います。今日の土曜日は、これも定番になった後輩の彫刻家が工房に来て、木を彫っていました。私も彼らに負けまいと陶彫制作に励んでいました。彼らがやってくると、私には張り合いができて、順調に作業が進みます。陶彫制作は慣れているのに、新鮮さを失わないので毎回頑張っているのです。明日は搬出日で工房を閉めるので、今日のうちに窯入れをすることにしました。窯入れの準備もなかなか手間のかかる作業ですが、完成をイメージしながら単調な作業をやっています。
    「ボルゲーゼ作品」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第7章 二点の《洗礼者ヨハネ》の主題 」の「3 ボルゲーゼ作品」の気になった箇所を取り上げます。「カピトリーノ作品の主題が洗礼者ヨハネではないという最も雄弁な根拠が、仔羊のかわりに牡羊が登場するという点であったが、角の生えた牡羊はボルゲーゼ美術館の《洗礼者ヨハネ》にも見られる。」未だに結論の出ていない作品に対し、様々な人が論考を寄せていて、聖書の解釈にかなり幅があることが私にも分かりました。「カピトリーノ作品の少年が微笑んでいるのに対し、ボルゲーゼ作品のヨハネは憂鬱そうな表情をしている。少年のモデルは同じボルゲーゼ美術館にある《ダヴィデとゴリアテ》のダヴィデと同一と思われ、それによって制作時期も同じ1609年あたりとされているが、思いに沈んだような表情も近似している。カピトリーノ作品についての最も早い記述は1613年のフランクッチの詩である。彼はガレリア・ボルゲーゼを賞揚する詩の中で、ラファエロの《十字架降下》に続き、カラヴァッジョの《洗礼者ヨハネ》について詳しく記述している。牡羊は誤って仔羊となっているが、作品の甘美で無垢で純粋な雰囲気やヨハネのやつれた顔貌や痩せた手足に注目し、彼がまだ来ぬ福音を待っているとしている。この詩が早くから指摘したように、このヨハネは旧約の世にあって贖い主の到来を待っているのではないだろうか。彼のもの憂げな表情もポーズも、何事かを待っている姿であると思わせる。そして、牡羊と棒の杖は、主の到来とともに仔羊と十字架に変わるのではないだろうか。つまり、仔羊ではなく角のはえた牡羊、十字架の横木の欠けた棒状の杖は、救世主がいまだ出現せず、人類の罪がまだ贖われていない状況を示すのである。これは、旧約の世にあって主の到来を予告したヨハネの位置を示すものにほかならない。」今回はここまでにします。
    「カラヴァッジョにおける『不在効果』」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第7章 二点の《洗礼者ヨハネ》の主題 」の「2 カラヴァッジョにおける『不在効果』」の気になった箇所を取り上げます。「登場する人物をあえて描かず、画面外の空間にその存在を想定させ、観者の位置に重ね合わせることによって、観者を画中の出来事に関与させるこうした趣向を『不在効果』と呼ぶことにする。いわば画中の主要人物の一人を欠くことによる欠落感・喪失感が観者の感情を画中の情景に誘い込む手法である。」カラヴァッジョはどうだったのか、考察した箇所をピックアップしてみます。「静物画や風俗画から出発したカラヴァッジョは、宗教画を制作するにあたり、バッサーノのような二重空間を用いることもできたが、彼は宗教画に静物画や風俗画を融合させながら聖なる情景の聖性を維持させることに成功した。また、見事な写実技法とともに不在効果を駆使して比類ない臨場感を作品に与えたが、宗教画でそれを成功させる前にまず一連の風俗画でそれを試みている。」カラヴァッジョは当時の絵画に新鮮味を加え、新しい表現方法を編み出していると言えます。どんな絵画であれカラヴァッジョの非凡な才能が認められる論考があちらこちらに散見されます。「カラヴァッジョは『二重空間』に用いられていた静物や風俗の描写を聖なる情景に融合させ、それを光の効果によって統一することで現実感を与え、また『不在効果』の手法を用いて観者を画中の一員に誘う臨場感を備えた宗教画を創造したのだった。これによって、反宗教改革的なわかりやすい宗教論に、神秘性や聖性を失うことなく現実性がもたらされたのである。カピトリーノ美術館の《洗礼者ヨハネ》も、こうした効果を用いたものであろうか。少年は画面から張り出すように観者の近くにおり、観者を見つめて微笑みかけている。それは精妙な光と見事な写実性とあいまって、観者を画面空間にひきこむのである。」今回はここまでにします。
    「カピトリーノ作品」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)は、今日から「第7章 二点の《洗礼者ヨハネ》の主題 」に入ります。本章最初の単元「1 カピトリーノ作品」の気になった箇所を取り上げます。「カピトリーノ美術館にあるカラヴァッジョの通称《洗礼者ヨハネ》は、近年その主題について新たな疑問が投げかけられている作品である。~略~仔羊の代わりに大きな角を持った老羊を抱くこの少年は本当に洗礼者ヨハネであろうか。ヨハネでなければ誰なのか。この問題は近年さかんに論議されたが、十分に納得できる結果を見ていない。」《洗礼者ヨハネ》の主題から離れた見解を示す人々のことを書いた箇所がありました。「笑みを浮かべてこちらを見つめるこの全裸の少年について、フロンメル、ポズナー、ブランディらは、挑発的でエロチックな性質を認め、カラヴァッジョのパトロンであるデル・モンテ枢機卿の私生活とも関連する同性愛的な表現がキリスト教的な偽装を施されたものであるとした。また、マーンと同じくこの作品を『牡羊と少年』と呼ぶモアールは、牡羊は好色の象徴であり、少年が嘲笑しながらレダのように牡羊を抱擁するこの作品は宗教色のない異教的な悪童を描いたものあるとした。」また、この少年がヨハネではなく、「解放されたイサク」であるという説も出てきました。「この作品の主題が『解放されたイサク』であるという説が、今や最も説得力をもっているように思われる。しかしいくつかの難点もないわけではない。まず、犠牲の場面以外にイサクを扱った作例がない、つまりイサクを単独で表現した例が存在しないという点である。たしかにカラヴァッジョはしばしば伝統的な図像に逆らい、図像上の革新を推進した画家ではあったが、過去に作例の存在しない宗教的主題を描いたためしはないのである。次に、裸体の青年が荒野で修業するという洗礼者ヨハネの図像に近い、あるいはそれを容易に想像させるという点である。」果たしてこの作品の主題は何なのか、カラヴァッジョ本人に聞かないと分からないのかもしれません。今回はここまでにします。
    横須賀の「日本の巨大ロボット群像」展
    先日、私の教え子から招待券をいただいて、工房に出入りしている学生たちと横須賀美術館に行ってきました。目的は教え子が出品していたグループ展でしたが、同時開催で「日本の巨大ロボット群像」展をやっていて、なかなか盛況でした。漫画やアニメに登場する巨大ロボットは、日本が世界に誇るサブカルチャーで、子どもだけなくマニアックな大人たちも魅了する分野なのかもしれず、企画としては大変面白いものと感じました。私にとって巨大ロボットの原点は「鉄人28号」で、新商品好きだった亡父が近所に先駆けて購入したモノクロテレビから現れた鉄人は、忽ち私を魅了しました。近所にテレビがなかった時代に、我が家は自宅が街頭テレビ化してしまっていて、近所で遊んでいた子どもたちが我が家に集まってきていました。図録によると鉄人28号の発想は「ユダヤ教の伝承に存在するゴーレムに行き当たる」のだそうです。「ゴーレムは泥から生まれた巨大な人形であり、主人の言うままに動きます。これは操縦機を手にした者が善であろうと悪であろうと関係なく、その威力を発揮する鉄人28号に極めて近いと思われます。」とありました。意志を持たない巨大なロボットという発想が、その機械的な動きとともに、当時の私には新鮮でした。その後、パイロットが巨大ロボットに搭乗するのが「マジンガーZ」で、さらに複数メカの合体や用途別にロボットが形状を変えていく要素が加わり、ロボットアニメの全盛期を迎えるのですが、私はロボットアニメを卒業しつつありました。大ヒットした「ガンダム」とは既に疎遠になっていて、私が社会人になって興味を示したのは「エヴァンゲリオン」くらいです。展覧会を廻っていると、私は必ずしも巨大ロボットのマニアではなく、アニメが放映された頃に夢中になっていただけに過ぎないことが分かりました。巨大ロボットが日本のサブカルチャーとして、または実際に災害救助や医療の現場でリアルに登場する日も近いだろうと思っています。巨大ロボットは漫画やアニメの世界ではなく、近未来で活躍することを私は期待しています