2026.07.18 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週は来年に向けた新作の陶彫部品を作り続けていました。土台となる円筒形の陶彫部品は成形、彫り込み加飾が今日で2点終わりました。新作のイメージが少しずつ具体性を帯びてきて、私は期待を膨らませています。朧げなイメージが確かな形態となって見えはじめてくると、私には迷いがなくなります。彫刻制作の第一歩としては良い状態を示しているからです。どんどん作っていきたい衝動に駆られますが、このところの気温の上昇と湿気の多さで、工房に長く留まることができず、持参した水分がなくなったところでその日の制作は終了となります。若い頃のように気合だけで制作を継続すると、身体に負担がかかることも承知しています。まずは制作の第一歩なので、焦らず無理をせずに進めていきたいと思っています。さて、今週は鑑賞が充実していました。早めに今年の個展準備が終わっていたので、時間的な余裕があったのが要因のひとつですが、見たい展覧会や映画があったことも良かったのでした。美術鑑賞としては渋谷区広尾にある山種美術館で「川合玉堂」展に行ってきました。日本の原風景を緻密な技法で描いた作品は、日本絵画の貴重な財産であり、そこに懐かしさを感じる世代としては私が最後の世代かもしれないと思っています。玉堂の墨の運筆に私は暫し見惚れてしまいました。映画鑑賞としては横浜市鴨居にあるエンターテイメント系映画館に「キングダム 魂の決戦」を家内と観てきました。本作はその日が封切りだったので、かなりの観客がいましたが、面白さに溢れていて心底楽しめた時間でした。実は1週間前に家内の誕生日があって、何かして欲しいものがあるかと聞いたら、鰻が食べたいというので、映画を観た帰りに鰻屋に寄って白焼と蒲焼が半分ずつ入った鰻重を食べました。家内も私もこの歳になると誕生日を祝うことはなく、末永く生きていたいと願うようになりました。私の創作活動はまだ始まったばかりで、あと何十回誕生日を迎えたらゴールが見えるのだろうと思っているのです。
2026.07.17 Friday
私が今も愛読している漫画があります。原泰久氏による「キングダム」で、司馬遷が編纂した「史記」を基にした歴史漫画ですが、作者が想像で補っている部分が多く、そこに私は面白みを感じているのです。この物語は秦始皇帝となる嬴政とその片腕となる将軍李信を中心としたものですが、「史記」には僅かにしか登場しない李信を主人公に据えています。その方が想像力を膨らませることができて、ドラマティックになると図った結果でしょう。アニメも放映されていますが、映画版も5作目になります。その映画「キングダム 魂の決戦」は今日封切りで、私は家内と鴨居にあるエンターテイメント系映画館に本作を観に行きました。この映画の主だった内容は合従軍による函谷関の戦いを描いていて、漫画ならかなりの長編になるところを、どうしたら映画サイズに短縮させることができるのだろうと思っていました。函谷関攻防戦だけでなく、数々の戦さも省略してあって、映画では見どころを中心にして構成されていることが分かりました。漫画では順を追って登場する将軍たちが、映画ではいきなり多数登場して、漫画を読んでいない家内は混乱していましたが、それでも将軍それぞれの性格を多少なりとも描いていたのは演出の巧みさがあったと私は思っています。映像の大半を噴煙巻きあがる戦場を描いていて、本作は確かに群像アクロバットとして観ていて疲れる映画ではあるけれど、現代の映像技術はAIを用いたり、空上からのドローン撮影を効果的に入れていて、映像センスも感じました。物語の説明箇所で、石像化した武将が映像として動いている場面が挟んであり、美術スタッフの努力によるものと察しましたが、造形に拘る私はそれが美しいと思いました。ただし、函谷関攻防戦は本作では終わりません。続編が待たれるところです。何の衒いもなく観ていて楽しい映画は観終わった後も楽しい気分になりました。
2026.07.16 Thursday
今日の午前中は工房で陶彫制作に励み、午後になって渋谷区広尾にある山種美術館で開催している「川合玉堂」展に一人で行ってきました。恵比寿駅から傾斜の緩い坂道を登った先に山種美術館があります。午後は気温が30度を超えていて、茹だるような暑さの中を、汗を流しながら坂道を歩きました。美術館には川合玉堂による爽やかな日本情緒あふれる世界が待っていると、自分を励ましながら美術館へ行きましたが、期待は裏切られず、実に端正で、きめ細やかな風景画群がそこにありました。まさに清涼感と言えばいいのか、その隅々まで丹精込めて描かれた世界は外の酷暑を忘れさせてくれるような緊張感が漂っていました。図録には「玉堂は、円山・四条派の基礎の上に狩野派の様式を取り入れ、伝統的な山水画から近代的な風景画へと新たな境地を拓きました。」とあり、日本画壇では正統な画家として認められた存在でした。会場には代表作も数多くありましたが、私は墨の濃淡と掠れだけで驟雨を表した「雨江帰漁図」の湿気を含んだ表現が好きで、また、うっすらと薄日の当たる風景も感じ入って、暫し立ち止まって眺めていました。図録に画家の苦労が綴られていて、何気なく描かれたものに大変な苦労をされていたことが分かりました。「自然の光景に於て光の面白いところ、例えば日光の雲に映じた快き色を見て、其の光や色の好い感じを画き現わそうとしても、日本画の絵具や縑素では充分なる効果を収めることが困難で、材料の不充分を感ずることが多い。自分は酷だ自然の風景を愛し、常に其観察に努めつつあるが、中々に感じたるままを画き現わす能わざることが多い。ー今は苦しき時代である。併し苦の多いだけ、随うて面白味も多い。」現在の日本画は世界的に見てもかなり特殊な画法によって、世界中の人々を魅了しているのですが、墨ひとつでさまざまな技法を生み出し、そこに深淵な世界を内包しているわけです。私はそれが日本人としての誇りでもあり、その世界を味わい尽くすことが日本人としての自覚だろうと思っています。周囲の自然は徐々に失われてしまうかもしれませんが、玉堂の描いた世界が昔懐かしい記録ではなく、私にはまだその世界に浸れるものを有していることに幸福を覚えます。
2026.07.15 Wednesday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「人形1933ー1934」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ベルメールは人形制作を決意して、芸術家としての新たな一歩を踏み出した。『私は、新たな欲望を開拓するに至るまで情熱の頂点を再生させられるような、解剖学的な可能性をもつ人造少女を創造しようとした』~略~技師の専門知識をもつ弟のフリッツは、あらゆる仕事を放棄して人形制作をサポートした。憎き父親によって強要された技巧能力は、ついに、彼に衝撃と嫌悪感のみを突きつけるために用いられたのである。~略~ベルメールは脚部に関して困難を抱えていた。彼は木の接合箇所に単純なねじとしめ釘を使って脚とトルソをつなげようとしたが、その際に厚い木製の円盤を接合箇所に当てがった。最終的にはフリッツが木製の球体を使用することを提案し、ずっとしなやかに脚を動かせる関節を実現した。~略~『人形』に収録された10点の写真に加えて、少なくとも他に18点の人形写真が存在する。ベルメールは二つの動機から刊行のための10点を選択した。一つはフェティッシュ制作の進行過程を明らかにすることであり、もう一つは人形が喚起するエロティックな強迫観念を鮮明に伝えることである。しかし、選択からはずされた写真も魅惑的であった。~略~ベルメールの序文は、無邪気に思われた子供のたわむれが、大人の想像する罪のない性的妄想からいかに隔たっていったかを明らかにしている。人形は切断された身体パーツの必ずしも満足のいくアマルガムというわけではないが、『デフォルマシオンの塩』を含んだ写真群は荒々しくも不穏な、禁じられた幻想の体現であり表現であって、『悪徳と魔術の必要不可欠な総計』で構成されているのである。~略~妻や母親や弟の協力にもかかわらず、ベルメールは芸術家として孤立を痛感していた。しかも、ナチス支配下のベルリンでは非難と攻撃の的になりやすかった。ベルメールのつくるような作品は堕落と頽廃の烙印を押され、むしろイヴォ・ザリガーの《パリスの審判》のようにアーリア人種の美を表現したいんちきくさい神話作品が傑作としてもてはやされた。」今回はここまでにします。
2026.07.14 Tuesday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「ドイツ1902ー1933」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ハンス・ベルメールは1902年3月13日、ドイツ帝国のカトヴィッツで生を享けた。そこは東の国境付近で炭坑の中心地だったが、第一次世界大戦後はカトヴィッツェの名でポーランドの一部になった。~略~母親はやさしく愛情にあふれた母性的な女性で、ベルメールは彼女に生涯を通じて依存し続けたが、暴君のようにふるまう夫に母親は完全に支配されていた。~略~父親には、21歳にもなって何ひとつ達成できていないと思われていたようだ。父親の権威に向けられた侮蔑と国家の法に対する抵抗とは、許しがたい傲慢を意味していた。結局、ベルメールは父親のような技師となるべくベルリン工科大学に入学することを余儀なくされ、それにともなって1923年、彼ら家族はその地へと旅立った。ただし、ベルメールが父親の決定によって士気をくじかれることは決してなかった。~略~ベルメールは線描画の才を早い時期から発揮していたが、グロッスはこの能力に磨きをかけるよう促した。しかもグロッスはベルメールの最初の、そして唯一の師であったが、彼らの関係は一方的なものではなかった。すなわち、グロッスはかわりにこのエンジニアデザインの学生から遠近法の教えを乞うたのである。~略~1928年、マルガレーテという22歳の若い女性との友情が、デザイン仕事からくる倦怠と、親しい女性の不在による欲求不満からベルメールを救った。彼女はほっそりとした体型で、虚弱ではあったが、愛嬌があり魅力的だった。深く愛し合った二人は同年に結婚。短い夫婦生活ではあったが、お互い幸福であった。~略~ベルメールの結婚とデザインの仕事は、既成の秩序に従う世界と自らとの和解を表面的に示していたにすぎず、1933年に国家社会主義者たちが権力を掌握したとき、この和解が短い運命であったことが明らかとなる。彼の父親、すなわち憎悪すべき権威の化身は、当然のごとくヒトラーの党に加入した。」今回はここまでにします。