Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 上野の「中尊寺金色堂」展
    先日、東京上野にある東京国立博物館本館で開催されている「中尊寺金色堂」展に行ってきました。金色堂は平安時代末期に、奥州藤原氏初代の藤原清衡が極楽浄土を表現する目的で建立したもので、今年で900年を迎えます。私が教職に就いて間もない頃、夏季休暇を利用して東北各地を旅しました。その時に平泉にある中尊寺金色堂を拝観しました。平安時代にこのような絢爛豪華なものが建てられたことに私は眼を見張りましたが、その全容が私には分かっていません。本展では8K映像による金色堂の再現や実際の仏像の数々を目の前にしながら、図録による解説で振り返ってみたいと思います。「清衡が、天治三年(1126)、鎮護国家のために大伽藍を建立し供養した際の願文の写しがいまに残る。」これが中尊寺創建の史料だろうと考えられます。「金色堂のもつ大きな特徴が、堂内に藤原氏歴代の遺骸を納めた棺を安置する葬堂と呼ぶべき性格である。当時、堂の下の地下に埋葬することや堂内に仮安置することはあっても、堂内に恒久的に安置する例は金色堂のほかにみられない際立った特徴である。このことの意味を正しく理解するのは困難だが、遺体が腐らないことを往生の条件とした中国の思想が流入している可能性が高い。阿弥陀仏の仏国土である西方・極楽浄土を厭離すべきこの穢土に現出させ、自らそこに眠ろうとした結果である。」図録序文の最後にこんなことが書かれていました。「古代史、中世史、考古学、美術史、建築史、仏教史、隣接するさまざまな分野からのアプローチが試みられ研究成果は枚挙にいとまがないほど膨大な数にのぼるが、金色堂ひいては平泉についての歴史叙述は難しい。金色であること、遺体を納める葬堂であること、密教的阿弥陀浄土であること、おびただしい荘厳で飾ること、須弥檀上に安置される仏像、巻柱にあらわされる菩薩像、清衡の遺体に懸けられた曳覆曼荼羅、金色堂を取り巻く思想の渦は個々の問題とともにそれぞれの関係性を踏まえた全体的な構想を描くのがなかなか容易ではない。~略~そうした史料的制約に対して、金色堂が現在まで伝えられてきたことは誠に幸運というべきだろう。おかげで、私たちは清衡をはじめとする奥州藤原氏の極楽浄土の夢を追体験することができるのだ。」(引用は全て児島大輔著)学術的解明はまだ困難と書かれていますが、それだからこそ魅力があって創造行為が入り込む余地があると私は考えます。奥州藤原氏の時代に想像を羽ばたかせてみたいなぁと思っています。
    上野の「本阿弥光悦の大宇宙」展
    先日、東京上野の東京国立博物館平成館で開催している「本阿弥光悦の大宇宙」展を見てきました。光悦は安土桃山時代から江戸時代にかけて創作活動の革新者として評価されていますが、その実態を知りたくて、私は本展に足を運びました。目の前の作品には、当時としては斬新な世界観があって、それを味わいながら、その背景は私の浅学では図録の解説に頼らざるを得ないので引用をしていきます。「光悦は刀剣三事(磨礪・浄拭・鑑定)を家職(家業)とする名門一族、本阿弥家に生まれ、生前から能書として知られるなど、諸芸に秀でたことで高く評価されてきた。その所産として肥痩(線の太細)の差を大きくとり、運筆の速度を自在に変化させた華麗な光悦の書が『光悦流』という一大潮流を創り出し~略~そして大胆で奇抜な意匠によってつくられた国宝『船橋蒔絵硯箱』をはじめとする、いわゆる『光悦蒔絵』の多くが現在、国宝や重要文化財に指定されている。」会場には有名な蒔絵や陶器の他に「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がありました。これは俵屋宗達の画と光悦の書のコラボレーションで、その画面配置には絶妙なバランスがあって、思わず息をのむほどでした。「光悦の造形に重要なかかわりをもつ俵屋宗達は、法華信徒であったことが想定されていたものの、確たる史料がほとんどなく、現在まで詳細不明という位置付けである。」日蓮法華宗との結びつきが光悦を中心とした集住生活を実現させ、鷹峰の地を徳川家康から拝領したことから始まったようです。「『古図』に載る五十余名は、すべて家職をもつ法華町衆とみなすことができ、鷹峰に集住することで法華信徒として紐帯を強めるとともに、彼らの日々の信仰生活が、そして、光悦が作陶や書の揮毫に勤しむこと自体が、先にみたように日常生活の結実として功徳となって、この鷹峰の地が寂光土となるのである。」(引用は全て松嶋雅人著)これは現在で言う工匠を集めた芸術家村の発祥であろうと私は考えます。ただ工匠たちは創作活動だけで集まったわけではなく、日蓮法華宗が精神的役割を担っていたのでしょう。江戸時代初期に独特な存在感を示した本阿弥光悦は、我が国が誇るマルチ・アーティストの一人と考えるべきだろうと思います。
    週末 鑑賞が充実していた1週間
    今日は週末であり、三連休最終日です。いつもなら土曜日にその週の振り返りを行うのですが、昨日は家内と映画館に行ってしまった関係で、先週日曜日から昨日の土曜日までの1週間の振り返りを今日行います。先週日曜日は「如月展」の最終日で搬出作業がありました。来月にメンバーで本展の打ち上げをやろうと言う話になり、友好を深めたい私には良い機会になります。水曜日は教え子と東京と横浜の博物館・美術館を回ってきました。「本阿弥光悦の大宇宙」展と「中尊寺金色堂」展は東京国立博物館、「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」は横浜そごう美術館で開催していて、じっくり見てきました。同行した子は感受性が豊かなので、展覧会鑑賞後の感想が私には刺激になります。土曜日は家内と映画「ゴールデンカムイ」を観てきました。家内も感想が面白いので、作品に豊潤さを齎すなぁと感じています。この1週間は鑑賞が充実していたと思います。残りの日は相変わらず制作三昧でしたが、実技と鑑賞が車の両輪のようにバランスよく回っていると、自分の充実度が増すのです。なかなか理想的な1週間を過ごすことは出来ませんが、機会があれば実践していきたいと願っています。土曜日には親の代から懇意にしている税理士がやってきました。集合住宅を所有している私は、確定申告を個人でやることが出来ず、しかもその書類が年間を通じて我が家に送られてくるので、家内がその都度保管しているのです。その整理を前日になって家内が、床一面に書類を広げてやっていました。税理士に提出した日に、家内のストレスを映画鑑賞で和らげていたのです。そんなことがあった1週間でした。
    週末 映画「ゴールデンカムイ」雑感
    週末になりました。今日は午前中工房で作業を行い、午後に確定申告の関係で自宅に税理士がやってきました。毎年恒例になった税務の打ち合わせの後、家内と映画に行くことにしました。確定申告の資料を整理したのが家内だったので、その負担を和らげるために楽しい映画を観てこようと私が誘ったのでした。横浜鴨居にあるエンターテイメント系映画館で観たのは「ゴールデンカムイ」で、教え子に勧められていた映画でした。私自身もアイヌの文化に興味があったので、是非観てみたいと思っていました。内容は日露戦争を戦った元軍人が、北海道で砂金採りを行っていた際に、アイヌ民族が埋蔵した金塊の存在を知るところから物語が始まります。そんな折、主人公がヒグマの襲撃を受け、間一髪のところをアイヌの少女に救われます。そこから二人の協働生活がスタートしますが、金塊を狙うのは彼等だけではなく、帝国陸軍第七師団の面々が、金塊を探る主人公とアイヌの少女に絡んでくるのです。私は映画の荒筋よりもアイヌのコタン(村)の生活に関心がありました。若い頃に私が北海道を旅していた時に、アイヌの村に立ち寄り、そこで見た衣装のデザインや木彫り雑貨のデザインに惹かれました。図録にはアイヌの生活再現の撮影裏話が掲載されていて、それも興味津々でした。現在もアイヌ文化を色濃く残す地(二風谷)にコタン(村)を作り、チセ(家屋)職人として有名な人に再現してもらった木造の家は、撮影が行われた場所として残して欲しいなぁと思いました。今後も続編が作られそうな「ゴールデンカムイ」ですが、また是非観たいなぁと思っています。一緒に行った家内は「キングダム」に似ていると言っていました。主人公が同じ俳優なので、なおさらそう感じたのかもしれません。
    矛盾を抱えた宗教画家
    現在読んでいる「カラヴァッジョ」の伝記で、彼が作り出した宗教画以上に関心を持っていることが私にはあります。私が画家カラヴァッジョを知ったのは信じ難いエピソードがあったためで、そんな彼が生きた時代背景が知りたかったこともありました。宗教画は、キリストの教えを、文盲だった当時の人々に絵画を通じて分かり易く伝えたアイテムだったはずです。宗教画家は全員が聖人君子であることもないと思っていますが、殺人を犯した人がキリストの教えをどう他者に伝えようとしたのでしょうか。まさにカラヴァッジョは矛盾を抱えた宗教画家だったのではないかと推察しています。「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)によると「1606年5月29日、乱闘の末にラヌッチョ・トマッソーニを殺害し、自らも深手を負ったカラヴァッジョは、夜陰に乗じて馬を走らせ、ローマから逃走し、二度とローマに戻ることなかった。最初はフィレンツェに逃げたという噂が流れ、画家もそれを企てたのかもしれない。しかし結局コロンナ家の領地のあるローマ南東部の丘陵地帯に逃れ、以後、同年10月6日にナポリに現れるまでの約四カ月を、カラヴァッジョはコロンナ領の山岳都市、ザガロロ、パレストリーナ、パリアーノを点々と潜伏して過ごす。ローマでは、逃亡したカラヴァッジョに対して、見つけ次第だれでも処刑してよいという恐るべき『死刑宣告』が出され、以後、画家は死と隣り合わせの不安な逃亡生活を余儀なくされたのである。」とありました。逃亡中に画家には悔恨があったはずであり、自ら犯した罪をキリストに繰り返し懺悔したこともあるだろうと思います。悔い改めたことが絵画表現に影響したことは間違いなく、その後のカラヴァッジョの作品をチェックするのが本書の最終章になるのかなと考えます。