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  • 「ピクチャレスクと村」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第4章  ピクチャレスクと建築」の「7ピクチャレスクと村」を取り上げます。「彼(ポーコック)が言う望ましいコテージの外観は、規則性を排した泥壁、草葺の建物で、森の木々の間から屋根だけが見え、煙突からは人が住む証拠である煙が立ち昇っていると説明される。また、彼は周囲の風景の中で建築物を捉え、その場の風景に溶け込むような外観の建物を設置するようにと説くが、これらはいずれも典型的なピクチャレスクの発想である。その他、一般論としてコテージは風景美に貢献するだけでなく、慈善や国防にも役立つという利他的有用面や、地域の資材を使って経済性を考慮したり、漆喰等を使うことで耐久性にも配慮するといった実用面もポーコックは強調しているが、これらはいずれも目新しい主張ではない。~略~理想の村やコテージに関する理念はこれらとはやや異なる方向へも展開した。それは、コテージや村を新しく建設するのではなく、現存するものを保存すべきであるという考え方が現れたことである。~略~本章で取り扱ったコテージなど小規模な建築物やその集合体としての村は、都市部以外の地域に住んでいた労働者階級の人々の日常的な生活の場である。それがどのように建てられ、あるいは形成され、そしてどのように維持・改築されるべきかという問題は、そこに住まう人々の生活はどうあるべきかという根本的な問いかけに直結していた。ピクチャレスクの建築哲学が最終的に行き着いたのは、長い期間のうちに環境に順応し地域に根付いた生活スタイルに適合しているかどうかが理想の美の一つの基準だということである。『自然と一体化した』そのような建物は、手を加えながら可能な限り住み続けられるべきであり、やがては住居としての役目を終えて廃墟化し、最後は自然に還ってゆく。ピクチャレスク美学の中で風景装飾として注目され始めたコテージ建築は、イギリスの近代化の中で変容していって現代に生きる我々の価値観に通じる人生のモラルを具現する存在になっていった。」今回はここまでにします。
    週末 素材の変容について
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日のテーマは過去にNOTE(ブログ)で幾度となく取り上げたものですが、素材の変容について繰り返し述べてみたいと思います。このところずっとやっていた新作の杉板の刳り貫き作業にそろそろ終わりが見えてきて、次の段階として杉板を炙って炭化させる制作工程に入ります。これは4点の壁掛けの作品に貼り付ける部品です。ただ、杉板をそのまま使うのではなく、素材を変容させて、私はその効果を狙いたいと考えているのです。画面の下地には油絵の具を使うので、塗装した面と炭化した木材の組み合わせで、幾星霜の痕跡という自分の世界観を出そうとしています。素材の変容は自分の初期作からやっている方法で、そもそも陶彫は最終工程で窯に入れるため、陶土は変容して窯から出てきます。これも批評家の言葉を借りれば、模造された出土品とも言えて、つまりは私の創作行為の基本は変容ありきなのです。その陶彫と組み合わせるために木材を炭化させることを思いついたのですが、炭化という変容が益々面白くなって私のその後の作品によく登場しています。火災をはじめとする災害の多い日本において、風景彫刻ではマイナスイメージに捉えられることもあり、ある程度留意する点も必要ですが、純粋に炭化の肌合いに私は魅せられているのです。木材を炭化させるか塗装を試みるか、またそのまま使ってみるか、作品全体のイメージから判断していますが、木材に砂マチエールを貼り付けて油絵の具を染み込ませる方法も私の得意とするものです。ともあれ私は素材の変容が好きなのだと思っています。その究極が窯入れで、高温で焼成されることにより陶土は石化します。私は陶土が、炎神に翻弄され鎧を身に着けたサムライのような印象を持ち、窯入れ前と窯入れ後ではまるで異なるモノとしてその存在感を放っていると感じます。造形には変容が面白い要素であることに間違いはありません。
    週末 鑑賞の機会を設けた1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通い、制作一辺倒の1週間でしたが、1週間のうち1回は鑑賞の機会を設けたいと思っていて、それが出来た時は理想の1週間だったと振り返っています。前に幾度なくNOTE(ブログ)に書いていますが、実技と鑑賞は車の両輪で、私は自分の感覚の中でバランスを取りたいと考えています。勿論、見に行った展覧会や映画が自らの表現に直接結びつかなかったとしても、心地よくなったり、心に刺激があったりすることで、人が何かを創り出す行為が素晴らしい行為であると自覚できるからです。私はそうした意欲に支えられて、毎日過ごしていると言えます。毎朝工房に行って陶彫や木工に挑むにしても、毎日が昨日の続きではありません。何か新鮮なものがそこにあって、今日のこの瞬間を味わえて良かったと思うのです。創作活動は技巧的に同じ方法でも、作ろうとしているものは毎日異なります。また自分の行為の跡を確認して満足を覚えるのも創作活動の魅力のひとつです。最近は寝起きに思いつくRECORDのアイディアもあって、日々の創作的刺激は自分で作り出すものだろうと思っています。鑑賞で言えば今週の木曜日に東京の上野にある東京都美術館に行って、スウェーデンの絵画展を見てきました。具象的傾向の絵画展でしたが、風景や人物に施された色彩に北欧らしさがあったと感じました。私は20代の頃に5年間ヨーロッパに暮らしていましたが、北欧には足を踏み入れたことがなく、この時に行っておくべきだったと残念な思いを持ちました。南欧には何度も行っていたくせに、若い私は北欧に魅力を感じなかったのでしょうか。北欧を巡って来た旅行者から、北欧は物価が高いと言われたことも影響しているのではないかと思っています。毎晩時間を決めている読書では、ピクチャレスク関連の書籍がもう少しで読み終えます。これも庭園や建築に絡んだ箇所に興味が尽きませんでした。
    上野の「スウェーデン絵画展」
    昨日は上野の東京都美術館で開催されている「スウェーデン絵画展」に行ってきました。展示された絵画を見始めてから、自分はスウェーデンの絵画史を知らなかったことに気づきました。在日大使のメッセージに「時代を超える普遍性と心に響く叙情性の両方をそなえた作品」とありましたが、どの作品も写実に立脚した深い情緒を感じさせてくれて、自然描写が好きな日本人体質に合った作品ばかりだなぁと思いました。展覧会タイトルに「北欧の光、日常のかがやき」とある通り、微妙な光の捉えが北欧ならではの色彩の妙を感じました。図録からその美術史を拾います。「『美術の物語』(※エルンスト・H・ゴンブリッチ著)は、過去75年にわたり世界中で親しまれてきた『美術の教科書』であるが、その19世紀、20世紀の章に出てくる北欧の画家はエドヴァルド・ムンクただ一人である。そのムンクも、ファン・ゴッホからドイツ表現主義への『様式』の変遷のなかで語られ、画家の母国ノルウェーの美術との結びつきには触れられない。このことは、伝統的な西洋近代美術史における北欧美術の『不遇』を端的に示す『証拠』として、近年の北欧の美術史家たちに、折に触れて批判的なニュアンスで言及される。~略~『モダニズムの勝利』に時代に、19世紀末から20世紀初頭の北欧美術はいくつかの例外を除いて、多かれ少なかれ不遇の時代を過ごしたが、今日では西洋近代美術の多様性を象徴するものとして受け取られている。個人コレクターの手によって国内に留まった多くの作品は、今日、スウェーデンを含む北欧各国の人々に、自国の優れた美術作品を身近に見られる喜びをもたらしているだろう。そしてそれらが映し出す独自の芸術の存在は、文化的な自尊心を育むよすがとなっている。」(萬屋健司著)今回「スウェーデン絵画展」で見た作品は、私の心に沁みていきました。20世紀初頭のパリで興った新しい芸術の潮流に巻き込まれずに、北欧の自然に根ざした冷静な作品群は、確かな存在感があるため見応えもありました。
    葉桜の上野公園にて
    満開の桜の時季になると大勢の観光客で賑わう上野公園ですが、桜がほとんど散って葉桜になった同公園では一時の賑わいはありませんでした。今日はそんな同公園の美術展に家内と訪れました。東京都美術館で開催されていた公募団体「モダンアート展」は、知り合いに出品者がいるため、招待状をいただいて私は毎年ここに来ているのです。ただし、平日と言えども上野が混んでいる状況は変わらず、外国人観光客も大勢見かけました。「モダンアート展」には元同僚の画家が会員になっている関係で、継続して見させていただいていて、彼の作風の変化も順を追って分かっているつもりです。彼も私と同様に教職を退職して時間ができたためか、作品の質は間違いなく上がっているように感じます。画風としてはアンフォルメル(非定形)を抑制して、精神性を追求しているように思われますが、塗装されていない余白の空間が雄弁に表現を物語っていると私は理解しています。沁みや色彩の流れをコントロールして日本の書のような世界観をもち、最終的には彼は幽玄を表したいのかもしれません。私は毎年出品された彼の作品を見るのが楽しみになっていて、これは作品がより高い精神性を備えてきている証拠だろうと思います。私は東京都美術館で、「モダンアート展」以外にも「スウェーデン絵画展」が気になっていて、家内とその企画展も見ることにしました。北欧の絵画と言えばムンクしか思い浮かばなかった私は、展覧会のタイトルにあった「北欧の光、日常のかがやき」の意味が本展で漸く分かりました。19世紀から20世紀にかけてスウェーデン絵画は、写実的な風景や人物、日常の描写に精魂を傾けていて、その淡い光の捉えが抒情を醸し出していました。これは日本人が好きそうな内容で、そのさりげなく丁寧な描写を熱心に見入っている鑑賞者が多かったように思いました。「スウェーデン絵画展」の詳しい感想は後日に回します。桜が舞い散り、新緑と言うにはまだ早い季節の上野公園を歩きながら、美術展によって充実した時間が過ごせたことで今日は幸せだったと振り返りました。