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  • 新聞記事より「きょうは檸檬忌」
    目に留まる記事には切迫した政治色がなく、日常が盛り込まれている何事もない記事に注目してしまうのが私の癖です。今日の朝日新聞「天声人語」には夭折の作家梶井基次郎の「檸檬」に纏わる記事が掲載されていました。そうか、今日は梶井基次郎の命日だったっけ。自分が若い頃、背伸びして読んだ「檸檬」はほとんど理解出来ないまま、書籍はどこかへいってしまいました。「東京・神保町のまちを歩く。大通りに面した歩道に電話ボックスがあって、何やら若い人たちが集まっている。何だろう。記念撮影をしている男性に話しかけると、韓国の観光客だという。彼は言った。『ここに来たかったんです。感動しました』。人気アニメ『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』には、主人公が電話ボックスでヒロインと出会い、一輪の白い花をわたす場面がある。ファンの間では、神保町のここがモデルとされているそうだ。電話のうえに花を置いていく人もいるらしい。なるほど。古臭いといわれそうだが、そう聞いて、頭に浮かんだのはレモンだった。黄色いレモンがひとつ、京都の書店の売り場に置かれる。そう、梶井基次郎の『檸檬』である。~略~きょうは檸檬忌。基次郎の没後94年である。黄ばんだ文庫本を書棚から取り出し、懐かしく、頁をめくる。〈えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた〉。将来への漠然とした焦燥を抱えながら、私は彷徨し、レモンを握る。夭折の作家をしのんで三好達治は『友を喪ふ』という詩を残している。〈日向に光る黒髪の 悲しや 美しや あはれ命あるこのひと時を 僕は見る〉。さて、このレモン、どこに置こうか。」文学とは不思議なもので、レモンを檸檬と漢字で表記するだけで、何か特別なモノに見えてくることに私は惹かれます。詩が面白いと感じた自分の高校時代に、外国の翻訳詩より日本の現代詩にその不思議さを感じたのは、言葉ひとつひとつの多様性が心に刺さった瞬間でしたが、それはあながち間違っていなかったのではないかと自負しています。梶井基次郎の「檸檬」も内容よりも題名に惹かれたのが、当時の私の正直な思いでした。
    「P理論の完成(1)」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第3章  ピクチャレスクと庭園」の「4ピクチャレスク理論の完成(1)」を取り上げます。本単元はナイトの「風景:教訓詩」が中心になります。ナイトはブラウンの風景庭園を辛辣に批判していました。「ブラウンの庭園は、風景の『材料』を周囲と『結び付けず』に『バラバラ』に置いただけの、豊かな自然とは相容れないものであるのに対し、よき『趣味』が生み出す理想の風景では『(景観を)構成する部分部分』は一つにまとまり、『目を魅惑し、魂を虜にする』『美しく、見事に混ざり合った全体』を作り上げる。~略~ブラウンやその追随者達に対する攻撃は、庭園内の自然はどうあるべきかという問題とは異なった面からも行われている。それは、所有者の財産をみせびらかそうとする彼らの卑俗性である。領地の地図を示せばよいのにそれをせず訪問者をさ迷わせて苦しめるのは、領主が自分の地所の広さを見せつけたいからであるとして、そのような行為は領地の豊かさとその一方での貧しさの両方を露にしていると詩人は非難する。~略~まずナイトはその土地の『天候と土壌』をよく『吟味』してどのような植物が最も『ふさわしい』のかを見極めるべきだとする。そうすれば豊かな葉や若枝が得られるのであり、その反対に樹木は『健康で生気に溢れて』いなければ、『目に心地よい』ものではなくなる。~略~今日ダウントンの峡谷には菩提樹、オーク、トネリコ、楡の木々の他、希少価値のある苔や地衣類など、60種を超える古くからの植物と、カワウソ、アイサ(鴨類)、姉羽鶴などの動物が生息し、これらの豊富な動植物がこの地域をナチュラル・イングランドの保護の対象にしている。人口芸術である庭園を『自然』に近づけることを目指したナイトの理想は、現代においてようやく完成していると言ってよいかもしれない。」今回はここまでにします。
    週末 展覧会、如月会、七回忌など…
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、昨日書くはずだった1週間の振り返りを今日に回してしまったので、改めて先週1週間の振り返りを行ないます。先週は用事が立て込む1週間でした。相変わらず工房での制作は続けていましたが、水曜日と土曜日は工房での制作は出来ませんでした。陶彫と違い、木材を使った作業は途中で止めることが出来ます。その代わり制作工程は遅れ気味になりますが、どこかで無理をして帳尻合わせをしなくてはなりません。壁に掛ける作品は、今のところ板材の刳り貫き作業をやっていて、まだ絵の具による下地までいっていないので、そのうち完成に近づけば精魂込めた佳境に入っていくだろうと思っています。さて、水曜日は家内と東京の美術館2ヶ所に出かけました。「たたかう仏像」展(静嘉堂文庫美術館)と「下村観山展」(東京国立近代美術館)はいずれも密度の濃い展示内容で、満足を覚える展覧会でした。木曜日は午後から「如月会」の懇親会に出かけました。「如月会」のメンバーの一人が横浜市中区の関内近くにある居酒屋を予約してくれます。その店では焼き固まった塩を割って食べる鯛一尾の塩釜焼きを出してくれて、それが美味しくて毎年その店を訪れるのです。金曜日の夕方は、車を定期点検のためにディーラーに持ち込みました。点検は問題なく1時間程度で終わりました。土曜日は母の七回忌で菩提寺に出かけました。お経をあげていただき、墓の掃除をして妹一家と食事をしました。今日は午前中制作をやってから、家内の両親が眠る久保山墓地へ、春彼岸の墓参りに出かけてきました。用事が立て込む時は、本当に気忙しくなりますが、これも仕方がないことと思っています。横浜でも桜がちらほら咲いている様子が目に映りました。工房の周囲でも樹木が春めいていて、季節が確実に移ってゆく状況を感じとっています。
    週末 母の七回忌
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行なうのですが、それを明日に回して、今日は母の七回忌について書こうと思います。母が亡くなって随分月日が経ったものだなぁと改めて思います。母が存命だった頃、私は教職に就いていました。横浜市瀬谷区の中学校校長会があり、その日は欠席を他の校長に伝えた記憶があります。病院の一室で私は母の遺体と暫く一緒にいました。母は介護施設に入っていて、母と同居していなかったせいで家内も私も介護で辛い思いをしていないため、不思議と気持ちの整理が出来ていました。その日のNOTE(ブログ)によると、こんな文章で記されていました。「私の母が他界しました。享年94歳。大正15年生まれで、大正、昭和、平成、令和の4つの時代を生きた人でした。数年前から介護施設にいて、昨晩体調が悪化して病院に救急搬送され、その時家内と見舞ったのが母の最期の姿になりました。今日は職場に出勤していた私に家内から連絡が入り、急遽病院に駆けつけたのでしたが、11時16分心拍停止、呼吸停止で臨終となりました。」母の葬儀があった日のNOTE(ブログ)も見つけました。「横たわる遺体の風貌は母そのもので、安らかに眠っている姿が印象的でしたが、それは既に母ではなく何か別の雰囲気がありました。不謹慎を承知で言うと、母はもはや母ではないと感じました。人間は生物的な死とは別の、たとえば魂の在り処がどこにあるのか、それが失われるとその人は外見だけを留めた存在になるのではないかと思います。死を哲学できるのは高度な知性を有する人間に限られていて、そのために他界への準備を行い、後に残された人々が死者が歩んでいくであろう死後の世界をイメージできるようになるのだと私は考えます。」今日は自宅近くにある菩提寺で七回忌のお経をあげていただき、その後その菩提寺の一部屋をお借りして昼食になりました。親類縁者が少なくなって、妹一家と私たちだけの会食になりましたが、母を偲んで貴重な時間を過ごすことができました。
    竹橋の「下村観山展」
    先日、家内と東京の展覧会を巡った時に、竹橋にある国立近代美術館で開催している「下村観山展」を見てきました。本展はまだ始まったばかりの展覧会でしたが、多くの人が鑑賞に訪れていました。日本画壇について浅学の私でも、横山大観、菱田春草、そして下村観山の3巨匠についての業績は理解しているつもりです。観山のまとまった作品をじっくり観たのは、私は初めてだったので、超絶技巧による描写に目を瞠りました。東西の古典に学んだ観山の画力には、暫し足を留めて見入るほど凄さが伝わってきました。図録よりその理由を拾います。「先人の創作物に正面から向き合って現代との接点を探すことができたのは、観山がそれを熟知していたからであることは間違いない。~略~観山は古画模写事業をとおしてその『伝統』形式の一端にかかわった。修業の一環として古画を学んできたがゆえに、自分もまた『伝統』の末端に位置することを自覚したと思われる。」(中村麗子著)その実践記録が展示されていて、単なる模写ではない表現に観山独自の世界観も出ていました。また後世に影響を与えたことも図録にありました。「これまで同世代の大観らと比較したため、晩年の宋元画への傾倒は『回帰』という言葉で表され、マンネリ化とも評される一因となってきた。しかし、速水御舟(1894-1935)・徳岡神泉(1896-1972)・岸田劉生(1891-1929)といった次世代が日本画・洋画を問わず細密描写に強い関心を持ち、新たな眼差しで宋元画を見直し、自らの作画の糧にしたことを合わせ考えると、この時期における観山の、技巧を駆使した、より深化した表現は若い世代への応答と見なすこともできよう。」(板倉聖哲著)画面全体に金泥を塗り、遠近によって色彩の濃淡を変えていく手法と写実的描写は、観山のさまざまな作品に見られますが、私を捉えたのは「木の間の秋」と「小倉山」で、確か「小倉山」は横浜美術館所蔵作品として同館で見た記憶があります。本展を巡っていると巧みな描写に目が慣れてきますが、それでもクオリティの高さが「下村観山展」の魅力だろうと思います。