2026.08.09 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。現在制作中の新作は陶彫による複数の塔を作ろうとしています。塔を作った旧作は2014年にギャラリーせいほうで発表した「発掘~層塔~」と2015年に発表した「発掘~群塔~」です。「発掘~層塔~」は、木材を組んで、そこに陶彫を貼り付けて大きな塔をひとつ作りました。翌年発表した「発掘~群塔~」は、屏風にした土台に横位置に塔を接合したものと、屏風の前の床に同じ作りの塔を複数配置しました。これは壁から突き出た塔と床置きの塔の視点を変えた面白さを狙ったもので、自分としては新しい試みでした。これから作る新作は3点の陶彫部品を積み上げた塔を複数作る予定ですが、うしお画廊の展示空間を考慮して塔の数を決めていきます。私は画廊の広さに合わせて、その空間を変容させる目的で彫刻を配置していく方法を採っています。今年発表した「発掘~六蹟~」が6点の陶彫部品を向かい合わせ、その中心を想定した集合体だったので、来年発表する作品は拡散にしたいと思っていて、画廊の床に点在させていきます。新作は立体としての塔ばかりではなく、壁面を使った作品も同時に考えています。それは今年の「炭景」のような壁に掛ける作品ではなく、新作の立体作品と同じコンセプトで作る床置きの作品になり、壁に吊り下げるものではありません。画廊の壁が白く美しいので、それを最大限に生かせるものにしたいと考えているのです。まだ微妙に揺れ動くイメージを説明するのは難しいのですが、日々制作する中でイメージが次第に具体的に見えてくるのだろうと思っています。私にはイメージがあっても設計図はありません。エスキースをしないのと同じで、私は実際の素材に向き合って造形行為を行なっていくタイプなのです。ですから途中で大きな変更もあり得ます。行きつ戻りつ手探りで作品化を進めていくわけですが、窯入れをしない限り陶彫は自由です。また罅割れをしないような工夫をすれば何とかなるかなぁと思っている自分がいます。
2026.08.08 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週は個展が終了した直後の1週間となり、気持ちは来年の個展に向いています。新作は個展開催の前から取り組んでおり、次なるイメージの具現化に向けて、陶彫部品を作っているところです。漠然としたイメージは春ごろに湧いてきましたが、今はその土台となる陶彫部品の成形をやっています。私は新作のイメージを紙に描きとめることはしません。頭の中で幾度となく修正し、印象が刻み込まれるまで待つようにしています。紙にエスキースをしてしまうと、それに縛られてしまう恐れがあるので、敢えて頭の中でイメージが育つまで何もしないのです。その中には消えてしまう幾多のイメージもありますが、現行のイメージは頭の中で篩にかけて残ったイメージなのです。今週は酷暑に近い日もあり、空調設備のない工房での作業は厳しいなぁと思っていて、午後の作業はやらないようにしています。その分、午後は鑑賞に当てていて、映画鑑賞や美術鑑賞にも出かけて充実した時間を過ごしました。映画では「ヒトラーの毒見役」(横浜シネマリン)を観てきました。リアルなドラマ仕立てになっていて、緊迫した雰囲気が伝わってきました。豪華な食事の後で身体に異変がないか1時間待たされる若い女性たちの心理描写が秀逸でした。美術鑑賞では「ふたりのアフリカ、手仕事の宇宙」展(世田谷美術館)に行ってきました。アフリカの造形が好きな私には願ったり叶ったりの展覧会で、人類学者と陶芸作家の夫妻が収集した手工芸品を楽しんで見てきました。酷暑の日は映画館や美術館に行くのがベストかもしれません。しかもドイツやアフリカに気持ちが飛んでいって、日常を忘れさせてくれる機会だったと思っています。日常と言えば、今週の午後は歯科医院に歯のクリーニングにも行きました。半年に1回、私は子供のころから長年通院している横浜駅近くにある歯科医院で定期検査に行っています。歯科医院の雰囲気は嫌いですが、私は予防のために仕方なく行くのです。
2026.08.07 Friday
昨日と同じく今日も私は午前中陶彫制作をやっていました。午後になって家内と東京世田谷の砧公園にある世田谷美術館で開催されている「ふたりのアフリカ、手仕事の宇宙」展に行ってきました。本展は人類学者と陶芸家夫妻がアフリカで収集した手工芸品を展示した内容で、アフリカの仮面が好きな私は嬉々として出かけました。横浜中華街にも「チャイハネ」という手工芸品を販売している店があり、店内ではアフリカの布や造形を手に取っていました。展覧会に出品された手仕事の背景を知りたいと思った私は本展の図録を注文しました。パンフレッドには「ヨーロッパ・西アフリカ・日本という3つの異なる視座から文化を見つめ、口頭伝承が豊かに息づく社会を調査するかたわら、人々の暮らしの道具からうかがえる世界観を洞察した人類学者・川田順造(1934-2024)。1970年代、夫の川田の調査助手として西アフリカのサバンナの国・ブルキナファソで3年半生活し、帰国後は独自の『うつわ』の制作により国内外で高く評価されてきた陶芸作家・小川待子(1946-)。ふたりが主に現地調査のなかで集め、日本に持ち帰ったさまざまな手仕事は、1980年代にその一部が公開されて以来、長らく展覧の機会がありませんでした。」とありました。今回展示された手工芸品を眺めると、私が好きな仮面だけではなく、儀礼用の楽器、草で編んだ籠、藍や泥で染めた布など生活のあらゆる日用品があって、その民族がもつ美意識に惹かれました。アフリカの野趣溢れる造形は、どうして創作活動に意欲を齎すのか、20世紀を代表する芸術家ピカソ然り、シュルレアリストのブルトン然り、その根源にある生命力に理由があるように思います。和楽器をやっている家内も、展示されている楽器を手に取って音を出してみたいと言っていました。その音楽もその風土で生きる人々の音程やリズムに裏打ちされたもので、舞踊もそれに伴って身体を動かしていくのでしょう。図録が届いたなら、学術的背景を読み込んでいきたいと思っています。
2026.08.06 Thursday
今日の午前中は工房で陶彫制作に勤しみ、午後になってから家内と横浜の中心街にあるミニシアターに映画「ヒトラーの毒見役」を観に行ってきました。平日にも関わらず映画館は観客で溢れていて、ほぼ満席状態でした。本作を私は新聞記事によって知りましたが、そうした情報を得た人が多かったのかもしれません。図録に「2012年、95歳のドイツ人女性マルゴット・ヴェルクが亡くなる直前に、生涯隠し続けてきた秘密を世界に明かした。彼女は2年以上にわたって、”狼の巣”に潜んでいたヒトラーのために毒見をさせられていたというのだ。」とありました。この証言を基に本作がまず小説として執筆され、更に映画化されたものでした。映画を観ていて私は、この物語のどこまでが証言によるものなのか、ほとんどドラマのように思えていましたが、原作者がヴェルク夫人に取材を試みていたところ、当の彼女は既に亡くなっていたので、専門家の協力を得て小説を書き上げたことが分かりました。それでも映画を作る上で、リアルを追求したことが図録にあって、戦時下のドイツで女性たちが被った暴力等も真実に近かったのだろうと私は感じました。「これは歴史の暴力に巻き込まれた若い女性たちの『小さな』物語なのだ。彼女たちを翻弄した戦争は、残念ながら今日の私たちにとっても他人事ではない。ヒトラーの毒見役の存在がどこまで事実かどうかは明らかになっていないが、長い年月を経て、戦争における搾取について声を上げた女性がいたということが重要なのだ。」図録にはこんな文章がありましたが、悲惨な戦争の裏側にはさまざまな事件が隠されていることは疑いのない事実でしょう。今日は広島原爆投下の日にあたりますが、こんな日に本作を観て、戦争について考える機会を持てたのは、私にとっては重要な巡り合わせだったと思います。ミニシアターで上映される作品で私は知識を得ることもあり、一概に映画と言っても多様な表現があって、自分自身は豊かになれると思っています。
2026.08.05 Wednesday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「イマージュの解剖学」について、気に留まった箇所を取り上げます。「『イマージュの解剖学』でベルメールは、少なくともメタファーとアナロジーの源泉については生理学的に、そして構造的に説明しようと努めている。そのようなシステムは身体に根づき、肉体の感覚とエロティシズムであまねく染めあげられている。肉体の欲求を満足させようとする努力こそが、メタファーの創造を、つまるところは知のあらゆる形態の創造を動機づけるエネルギーを供給することとなると彼は論ずる。~略~『イマージュの解剖学』の趣意は、非合理についての論説であると同時にある種の豊穣な非合理主義の実例でもあるという点で、ブルトンによる1924年の『シュルレアリスム宣言』を想起させる。~略~『イマージュの解剖学』は、肉体的無意識において作動する機構と人間的な表現を際立たせる過程とを描写するであろう。肉体と精神を連結させるこの機構を知れば、どうしてあるイメージ群が、表面上は非合理であろうとも、不可解なほど確実なものとして印象づけられているのか、そしてシュルレアリストたちが『痙攣的』と称した不穏の感覚をさえ呼び覚ますのかが明らかにされるだろう。~略~『イマージュの解剖学』を通じてベルメールは臨床の領域と芸術の領域を交互に行き来して語っている。というのも、想像力は肉体それ自体に根ざしているからであり、臨床的な徴候と詩的な、あるいは図像的なメタファーは、欠乏と欲望の接合によってひき起こされる転移においては類似しているからである。~略~ベルメールは個人の主体性=同一性と知覚の活動に関する問題について、思索を深めていく。彼によれば、知覚の活動はしばしば、われわれの側で主体的に選択されるものと考えられている。そしてイメージは、自我の側と外部の現実世界の側との間でふたたび舞台の中心を占める。『夢想はことごとく、自我の輪郭から逃れようとする唯一執拗な本能へと回帰する』と彼は断じる。」今回はここまでにします。