2026.07.15 Wednesday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「人形1933ー1934」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ベルメールは人形制作を決意して、芸術家としての新たな一歩を踏み出した。『私は、新たな欲望を開拓するに至るまで情熱の頂点を再生させられるような、解剖学的な可能性をもつ人造少女を創造しようとした』~略~技師の専門知識をもつ弟のフリッツは、あらゆる仕事を放棄して人形制作をサポートした。憎き父親によって強要された技巧能力は、ついに、彼に衝撃と嫌悪感のみを突きつけるために用いられたのである。~略~ベルメールは脚部に関して困難を抱えていた。彼は木の接合箇所に単純なねじとしめ釘を使って脚とトルソをつなげようとしたが、その際に厚い木製の円盤を接合箇所に当てがった。最終的にはフリッツが木製の球体を使用することを提案し、ずっとしなやかに脚を動かせる関節を実現した。~略~『人形』に収録された10点の写真に加えて、少なくとも他に18点の人形写真が存在する。ベルメールは二つの動機から刊行のための10点を選択した。一つはフェティッシュ制作の進行過程を明らかにすることであり、もう一つは人形が喚起するエロティックな強迫観念を鮮明に伝えることである。しかし、選択からはずされた写真も魅惑的であった。~略~ベルメールの序文は、無邪気に思われた子供のたわむれが、大人の想像する罪のない性的妄想からいかに隔たっていったかを明らかにしている。人形は切断された身体パーツの必ずしも満足のいくアマルガムというわけではないが、『デフォルマシオンの塩』を含んだ写真群は荒々しくも不穏な、禁じられた幻想の体現であり表現であって、『悪徳と魔術の必要不可欠な総計』で構成されているのである。~略~妻や母親や弟の協力にもかかわらず、ベルメールは芸術家として孤立を痛感していた。しかも、ナチス支配下のベルリンでは非難と攻撃の的になりやすかった。ベルメールのつくるような作品は堕落と頽廃の烙印を押され、むしろイヴォ・ザリガーの《パリスの審判》のようにアーリア人種の美を表現したいんちきくさい神話作品が傑作としてもてはやされた。」今回はここまでにします。
2026.07.14 Tuesday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「ドイツ1902ー1933」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ハンス・ベルメールは1902年3月13日、ドイツ帝国のカトヴィッツで生を享けた。そこは東の国境付近で炭坑の中心地だったが、第一次世界大戦後はカトヴィッツェの名でポーランドの一部になった。~略~母親はやさしく愛情にあふれた母性的な女性で、ベルメールは彼女に生涯を通じて依存し続けたが、暴君のようにふるまう夫に母親は完全に支配されていた。~略~父親には、21歳にもなって何ひとつ達成できていないと思われていたようだ。父親の権威に向けられた侮蔑と国家の法に対する抵抗とは、許しがたい傲慢を意味していた。結局、ベルメールは父親のような技師となるべくベルリン工科大学に入学することを余儀なくされ、それにともなって1923年、彼ら家族はその地へと旅立った。ただし、ベルメールが父親の決定によって士気をくじかれることは決してなかった。~略~ベルメールは線描画の才を早い時期から発揮していたが、グロッスはこの能力に磨きをかけるよう促した。しかもグロッスはベルメールの最初の、そして唯一の師であったが、彼らの関係は一方的なものではなかった。すなわち、グロッスはかわりにこのエンジニアデザインの学生から遠近法の教えを乞うたのである。~略~1928年、マルガレーテという22歳の若い女性との友情が、デザイン仕事からくる倦怠と、親しい女性の不在による欲求不満からベルメールを救った。彼女はほっそりとした体型で、虚弱ではあったが、愛嬌があり魅力的だった。深く愛し合った二人は同年に結婚。短い夫婦生活ではあったが、お互い幸福であった。~略~ベルメールの結婚とデザインの仕事は、既成の秩序に従う世界と自らとの和解を表面的に示していたにすぎず、1933年に国家社会主義者たちが権力を掌握したとき、この和解が短い運命であったことが明らかとなる。彼の父親、すなわち憎悪すべき権威の化身は、当然のごとくヒトラーの党に加入した。」今回はここまでにします。
2026.07.13 Monday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)を読み始めました。本書は「評伝ハンス・ベルメール」と副題があって、ベルメールはドイツ出身の画家であり人形作家です。私はエロティックな人形を撮影した写真によってベルメールを知りました。世界の美術史からすると、どちらかと言えば異端のマニアックな世界を持つ独特な造形作家なのだろうと思いますが、シュルレアリスムの潮流の中で捉えられる作家と考えれば、彼の存在感が定まってきます。人形作家四谷シモンはベルメールの球体関節人形の影響で、退廃的な雰囲気に包まれた人形を制作していたことが明らかです。私は四谷シモンの個展にも足を運び、若い頃見たベルメールの人形写真との近似性を感じていました。どちらも立体作品とは言え、私には到底真似の出来ない世界観があり、それだけに惹かれてしまうのです。自分と一番遠いところにある世界、幻想的であり、時に眩惑的であるエロティシズムは、どのような道を辿って芸術作品になったのか、本書を紐解いていきたいと思います。「ベルメールのイメージは、他の芸術家がかたく閉じたまま開こうとしない扉をあけ広げてくれた。私はすでにエロティック・アートの研究に興味を抱いていたので、『エロティシズムの総体的な理解への鍵』としてベルメールの作品を評価するという企画案にただちに同意した。~略~ドイツでナチスによる迫害を被った悲劇の時代や、最初の妻の死や、パリのシュルレアリストたちと合流するために亡命したことを思いだすと、ベルメールは非常に感情的になった。自分の作品がポルノグラフィとして拒絶され、芸術としてはまだ受け入れられなかったフランスでの貧困時代について苦々しく語ったが、文化庁の大臣が回顧展にかかわったのは、自分に対するかつての評価を改めようとする試みだとして歓迎している。」(ピーター・ウェブ著)という文章が本書の「はじめに」で綴られていました。じっくり読んでいこうと思います。
2026.07.12 Sunday
日曜日になりました。いつもなら創作活動に纏わることを書いていますが、昨日は1週間の振り返りを行なわず、別の話題にしてしまった関係で、今日先週の振り返りを行ないます。先週の創作活動では来年に向けて新作を作り始めていて、その第一歩となる陶彫部品の彫り込み加飾をやっていました。彫り込み加飾は、私の作品では重要な部分で、表面の陶土に凹凸をつけていくのです。旧作のほとんどが彫り込み加飾で覆っているため、基本となる形体は単純なものが多いのが私の作品の特徴です。新作も円筒の表面を僅かに削り取って、立体をより強調できるようにしました。最終工程で作品は窯に入れますが、厚みが部分的に変れば罅割れが生じてきます。その罅割れが起きないよう細心の注意を払って彫り込み加飾を施すのです。先週の鑑賞では東京の銀座のギャラリーを回ってきました。木曜日には「寿 直人の変な人…?」展(ギャラリーQ)へ行きました。同展に出品している竹中直人君は私の高校の同期生で、個性派俳優であり映画監督もやっています。軽妙なイラストを描いていて、毎回楽しませてもらっています。俳優としてシリアスな役からコミカルな役まで幅広く演じ分けられるプロのセンスがありますが、イラストを見ると、彼は奇妙な笑いの根底にペーソスが眠っているように思えてなりません。彼の笑いには苦さが付き纏うのです。役者と違って美術作品には本人の本性が現れます。ドギツイ部分もありますが、それが乾いた空気に包まれていると言ってもよいと思います。昨日の土曜日には母校の先輩にあたる女流画家が、うしお画廊で個展をやっているので顔を出してきました。彼女がやっているのは花と自画像を組み合わせた写実絵画です。全て点描表現でやっているので、かなり集中して描き上げた力作ばかりが並んでいました。午前中は陶彫制作をやっているので、東京の銀座には2回に分けて出かけました。また昨日の夜には久しぶりの懇親会があって話が弾みました。充実した1週間だったと振り返っています。
2026.07.11 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行なうところですが、今日は私が教職に就いていた頃の懐かしい人たちとの懇親会を持つ機会がありましたので、その話題にさせていただきます。学校全体ではなく、私のいた頃は学年組織の風通しをよくするために、学年ごとの懇親会をよく居酒屋を使ってやっていました。コロナ禍があったので、その時は一時的に絶えていましたが、おそらく今も教職員同士で集まって、そうした機会は持っていると察しています。年度当初や学期ごと、年度末になると一献酌み交わして、お互いの疲れを癒すのが懇親会の目的です。私は退職してから、そうした機会が無くなりました。ちょうどコロナ禍だったせいで、私の時は歓送迎会も無かったのでした。今日は私にとって久しぶりで、しかも25年前から「七夕会」という名称で当時の学年関係者が集まっている懇親会は、横浜では珍しいのではないかと思います。皆で記憶を辿りながら、あの人はどうしているか、この人はどうなったのか、知っている限りの情報交換を行いました。しかも退職している人が多いので、教職を退職すると、どんなことをやっているのか、いろいろ話を聞くことが出来ました。私のような彫刻家として個展を続けている存在は稀で、県外の実家に戻って畑を耕している人や私立保育園の園長をやっている人もいました。人生100年時代になると、退職後の人生が長くなって、もう一度何かを始めないと身体が老化してしまう現象を防ぐことができません。前のキャリアは捨て去って、新たな世界に身を投じる人が何人いるでしょうか。私は教職と併行して創作活動をやっていましたが、その頃は多忙を極めた二束の草鞋生活を無我夢中でやっていました。そのおかげで現在の私があると信じています。私の人生はこれからで、創作の道は延々と続いております。その到達地点が見えないのが、私に活力を齎す要因になっていると考えているのです。