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  • 「モーセとイスラエルの王たち」(3)
    「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「モーセとイスラエルの王たち」は8つの単元と2つの付記から成っています。今回は〔29サムソン〕と〔30ダビデⅠ〕を扱います。まず〔29サムソン〕。「サムソンが活躍したのは、イスラエルの民が土着のペリシテ人に支配されていた頃です。そのペリシテ人の娘に恋をしてしまったサムソン。両親の反対を押し切り、求婚するため娘の家へ向かいます。途中、ぶどう畑で1頭の若獅子に遭遇します。襲ってきた獅子をサムソンは素手でとらえると、『子山羊を裂くように』引き裂いたそうです。~略~その後、サムソンはデリラという女性を愛するようになります。サムソンにほとほと手を焼いたぺリシテ人の領主たちは、サムソンの怪力の秘密を、デリラに探らせました。~略~デリラの膝枕で眠るサムソン。7房の髪を切られ、力を失いました。ぺリシア人に襲われても、いつものように暴れまわることができず、捕えられます。」次に〔30ダビデⅠ〕。「ダビデは、2代目のイスラエル王。竪琴の名手で、旧約聖書『詩編』の作者と、中世の頃は考えられていました。賢王ソロモンー王都エルサレムに神殿を築き、イスラエル王国を繁栄させたーの父にあたります。以来ユダヤの人々は、『イスラエル存亡の危機にはダビデの家系から救世主が現れる』と信じるようになります。~略~ゴリアテとの格闘は、ダビデ伝では最大の『見せ場』です。ミケランジェロの彫刻やカラヴァッジョの絵画その他、古くは3世紀からの多くの作例が残ります。見どころは少年ダビデのすばしっこさと、巨人ゴリアテの豪快な倒れかた、小さきものが大なるものを倒すのは、見ていてスカッとしますね。少年と見て侮ったゴリアテ。ダビデが石を飛ばすと額に命中、巨人はばったりとうつぶせに倒れます。」旧約聖書には映像化されるような場面が多くあって、私は映画によってそれらを知っています。「十戒」にあったモーセの紅海を割る特撮や「サムソンとデリラ」、巨人ゴリアテを倒すダビデの物語は、宗教的背景を知らずに私は映画館に足を運んでいました。今回はここまでにします。
    アクアパーク品川を散策
    私は毎日工房に通って作業に明け暮れています。平日も週末もなく朝9時過ぎには工房のカーテンを開けて、作業台の上に素材を置くのが私の習慣です。教職との二束の草鞋生活そのものの勢いで今も創作活動を継続していますが、私は自分の好きなことばかりやっているので、教職に比べるとストレスがないのです。毎日楽しいと思えるのが休みを必要としない理由で、たまに時間を空けて美術館やら映画館に出かけています。そんな私を見ていて、もう少し癒しの時間があった方が良いと家内は考えたらしく、水族館に行かないかと誘われました。水族館かぁ、最後に行ったのはいつ頃だろうか、江ノ島だったか八景島だったか記憶にありません。流行りのテーマパークより水族館が私には良いかなぁと思い立ち、今日は工房での作業の後で、家内と東京のアクアパーク品川に出かけました。自宅の横浜に近く、また都市型水族館という施設にも興味を持ちました。当館は品川プリンスホテル併設の室内水族館でプロジェクション・マッピングもあり、水槽もデザイン化されていて、なかなか洒落た施設でした。ただ、映像よりも実際の水槽で泳ぐさまざまな魚や海の生物の存在感に私の心は捉えられてしまいました。とりわけ珊瑚の美しさに目を瞠りました。自然はどうしてこんな色彩の組み合わせを考え出したのだろう、どうしてこんな形態を創り出したのだろうと人智を超えるパワーに圧倒されました。それは美術館で味わう名画より何倍も優れた色彩感覚といって差し支えないほど心に沁みる世界で、これを自分の造形に生かせないかと瞬時に思った次第です。人間は古代からそうした自然の生みだす色彩や形態を模倣して造形美術として体系化してきたわけで、芸術の根源的なものは全て自然の中にあると改めて私は気づきました。クラゲが浮遊する前で暫し佇んでいると、私と同じように心ここにあらずの人がいました。まさに癒しの時間で、呼吸が認められるだけのクラゲの究極の動きに何故か惹かれてしまうのです。彼らにとっては日常の世界でも、私たちにとっては非日常の世界。水族館を一歩出れば、品川駅の雑踏の中に紛れ込んでしまう私たちのリアルな日常が待っていたのでした。
    「モーセとイスラエルの王たち」(2)
    「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「モーセとイスラエルの王たち」は8つの単元と2つの付記から成っています。今回は〔27モーセの生涯 Ⅲ〕と〔28モーセの生涯Ⅳ〕に加えて〔付記aモーセ異聞〕を扱います。まず〔27モーセの生涯 Ⅲ〕。「神はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放するため、いくつもの災厄をその地にもたらすのですが、その最後が『初子の災い』でした。~略~イスラエルの人々は災いを逃れるため、子羊もしくは山羊を屠り、家の入口の2本の柱と鴨居にその血を塗ります。『死の天使』は血のしるしがある家は『過ぎ越し』ました。~略~モーセ一行がファラオに見送られて町を出てゆく場面です。彼らが目指すのは約束の地カナン。アブラハムが暮らした、乳と密の流れる土地。しかし、つらい旅でした。~略~ファラオはまた心変わりして、イスラエルの民を追いかけたのです。場所は紅海の浜辺、人々は恐怖のあまり、モーセを責めます。『荒野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましだ。なぜ連れてきた!』しかしそのとき、モーセが神のお告げのとおり手を海のほうへ差しのべると、海の水がふたつに分かれる奇蹟が起こりました。イスラエルの人々は海の底の道を通って去り、追いかけたエジプト軍は波にのまれてしまいました。」次に〔28モーセの生涯Ⅳ〕。「シナイ山上でモーセが十戒を受け取ったとき、麓にいた民は恐れました。稲妻が光り、山は煙に包まれたからです。モーセがなかなか下りて来ないので、人々は死んだと思いこみ、不安のあまりモーセの兄アロンに神像を作るよう要求します。アロンは人々がつけていた金の耳輪を集めて、金の子牛像を作りました。そしてその前に祭壇を築き、献げ物をし、みんなでどんちゃん騒ぎをはじめたのです。~略~残念なことにモーセは約束の地カナンに辿り着くことなく、この世を去りました。」次に〔付記aモーセ異聞〕。「イスラーム教でもモーセは重要な存在。イエス・キリストも含め、旧約聖書に登場する族長や預言者も、イスラーム教では神の言葉を預かる『預言者』。そして最後にして最大の預言者がムハンマドとなります。」今回はここまでにします。
    新聞記事より「与えられてあること」
    先日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「内容を欠いた思考は空虚であり、概念を欠いた直観は方向を見うしなっている。イマヌエル・カント」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「人間の認識には二つの源泉がある。感覚に与えられるものを直観的に受け取る能力と、これらを通して対象を概念的に摑む能力だと、18世紀ドイツの哲学者は言う。直観を欠けば思考は野放図になり、概念を欠けば直観は偶然に流される。何かが在るというのは与えられてあること、でもそのためにどんな受け皿が要るかを忘れないこと。『純粋理性批判』(熊野純彦訳)から。」この文章で私が気になったのは通常使う直感とあまり気にしたことがない直観という語彙。直感は勘のようなもので、直観は本質や真理を一気につかむものとして理解しています。「感覚に与えられるものを直観的に受け取る」ことと「対象を概念的に摑む」ことの関係性を説いているのが「純粋理性批判」の中に収められているのでしょう。それは存在とは何かを考える上で、与えられてあることの受け皿を必要とすることだとしています。私は普段考えたこともないことをカントの言葉によって、もう一度頭の中で意味を組み立て直さざるを得ず、その試みは時にやってみるのも良いと思っています。またカントの考え方は、一般的にはほとんど生活に浸透しているものを改めて認識し直す作業になるのではないかとも考えます。難解な言葉であっても、深く知れば、実はシンプルな意味に辿り着くことがあり、それがどうしたと言えば、それまでで、物事の成り立ちを理解するかどうかは本人次第なのでしょう。私の親戚の中にカント哲学者がいた関係で、私もほんの少しだけ哲学を齧りました。亡き叔父の量義治と本当は哲学談義をしたかったのですが、私の力量不足があって及ばず、私の勉強を待たずして叔父は逝ってしまいました。叔父が個展に来てくれて、そこで残してくれた言葉を思い出すたびに、直観やら概念のことが頭を過ります。叔父は私の造形に対する結論しか言ってくれませんでしたが、その思考過程を今更知りたいと思っている私がいます。
    週末 霞立つ風景
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日は来年に向けての新作について書いていきます。新作のイメージはいつ頃やってきたのか、自分の記憶としては冬の寒さが緩んできた時期で、朝の起床の何気ない時にふと目に浮かんだ朧げな風景だったのでした。その頃は、今年の個展で発表を予定している作品が完成に向かって佳境を迎えている頃で、一心不乱にならなければならない状態の時に、制作の腰を折るような気の抜けた感覚とも言える心の在りようでした。現行の作品に対する現実逃避なのかと自分がその時思ったのも当然な成り行きで、そのどこからともなく現れた風景は、季節を考えれば春霞とも言えて、表題の「霞立つ風景」をいうのは後付けで考えたものです。私の場合はどこかの風景のシルエットがやってくる場合が多く、実に視覚的であり絵画的なイメージなのです。さらに時間をおいて、彫刻として肉付けをする時に、そのイメージが保てないこともあり、そのまま新作として考えを固めていくのは多少無理がある場合もあります。無理と分かったら、次のイメージがやってくるまで待つしかありません。今までのところ、寝起きに浮かんだ霞立つ風景は、何とか彫刻に生かせそうです。その風景は丘の上に数本の塔が聳え立つ風景で、いつものような地下遺構には拘っていない特徴がありますが、「構築」シリーズとして位置付けるのはちょっと違う気がしています。塔にはそれぞれ大地に根を張っているイメージがあり、巨木のようでもあり、蟻塚のようでもあるからで、地表に出ていないところに意味を持たせようとしています。それも後付けによるものですが、私にはやはり「発掘」シリーズを推し進めていく方がすっきりとまとまる気がしています。イメージに出て来た数本の塔にはそれぞれ距離があって、霞立つシルエットには濃淡がありました。塔の先端はどうなっていたのか、そこはあまりにも朧気で、消え入るようになっており、はっきりしません。ともかく新作はこれでいこうと考えています。具体的な部分は陶土を触りながら掴み取っていくつもりです。