2026.05.10 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日から壁に掛ける作品4点の画面にそれぞれ絵の具を用いて、杉板のレリーフとコラボレーションする背景を描くことになりました。杉板は幾何的文様を刳り貫いていて、しかも表面を炙って炭化させています。当初のイメージを振り返って、その意図に見合う題名を「炭景」としました。「炭景」というコトバは私が考案したものですが、別の意味があるかもしれず、念のためAIで調べてみると「炭を素材にしたインスタレーションや彫刻で『炭の風景』を構成している」とあり、ベストな造語であることが分かりました。背景となる下地には杉板の幾何的文様の要素を取り入れて、幾何的抽象作品にすることを決めました。幾何的抽象作品は前世紀に新造形主義を提唱したモンドリアンが創り出し、一方でドイツのバウハウスは教育内容にも取り入れていました。その成果として、現在ではデザインに幾何的抽象的な要素が多く見られ、私たちの生活に潤いを与えています。今では当たり前な美的要素ですが、この使い古された幾何的抽象的な要素を私が敢えて使う理由は、私自身が先端的なアートの価値観を求めず、旧態依然とした要素でも私の主張する造形が充分成立すると考えるからです。私は壁に掛ける作品にしろ、床に置く作品にしろ、己の中に湧き上がる視覚的イメージを大切にしていて、その具現化を図るためにさまざまな素材に挑んでおります。炙って炭化させた杉板は、床置きにする陶彫作品との繋がりの中で考案したものです。陶彫は土を窯で焼成して作り上げる作品ですが、その陶の肌触りと炭化した杉板の肌触りが微妙に相まって、独特な雰囲気を醸し出します。今回は別々の作品でそれを表していますが、作品によっては陶と炭化木材を組み合わせたものも多くあります。そこに理屈はなく、私自身の感覚によるものなので、何故と聞かれると返答に窮しますが、造形作品には論理的でないものも存在するとしか言いようがありません。
2026.05.09 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通っていました。仕事が素材を伴う立体的な作業から平面に下書きをする作業になり、この下書きを決定して色彩を施せば、壁に掛ける4点の作品は完成となります。壁に掛ける4点のパネルには、それぞれ杉板に文様を刳り貫いたレリーフを貼り付けていくことになりますが、その炭化した杉板をどう生かしていくかが現在取り組んでいる課題です。炭化した木材の質感と絵の具による平面の質感、それは炭化した木材の効果を上げるための背景と考えがちな色彩面になりますが、実際はそこに敢えて主従の関係は作らないようにしようと目論んでおります。適当な調和は画面を退屈にするからで、コラージュを予定している杉板を一旦除けて、まず画面だけでも充分見せられる表現にしようと思っています。杉板に合わせるのは文様の要素だけで、平面としてはその要素を使い、画面上では終わらない永遠のパターンを考えました。パターンに左右対称はなく、画面の枠には収まらない文様をイメージしました。鉛筆による下書きに1週間以上も費やし、直線や曲線を交差させ、都市の地図のような平面作品を作りました。そこに杉板を置くと刳り貫いた文様から下地の地図が見えて、面白い雰囲気になるのではないかと考えると、ちょっぴり楽しくなってきます。来週から彩色が始まりますが、平塗のグラデーションを多用して強弱をつけていこうと考えています。その強弱のついた色彩が壁に掛けられると、おそらく空間として錯視されるのではないかと思っています。最終的な仕上げとしては杉板との関係性を狙った効果的な彩色を施します。現在、下書きが終わった時点で、最終完成をイメージしていますが、果たしてどうなるでしょうか。平面的な仕事に関して私は経験が浅いので、なかなか思い切った処置が出来ませんが、ここはひとつ自分に賭けてみようと思っているところです。
2026.05.08 Friday
「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第8章 世俗化と大量生産の時代へ」の気に留まった箇所を取り上げます。「イタリアでロマネスクが成熟期を迎え、ピサの瀟洒な大聖堂のかたわらで、『斜塔』が傾き始めた頃、フランスではパリ近郊、イル・ド・フランスで新しい美術様式が逸早く完成をみた。1200年代初頭のことである。以後300年ちかくにわたってヨーロッパを席巻することになるこの新様式を、のちにルネサンス期のイタリア人は『ゴシック』と呼んだ。~略~一体と分断。ロマネスクの堂内には一体感が保たれているのに対して、ゴシックの堂内はいくつもの空間に分断されているような印象を受けるのだ。これは時代の社会・経済的な変化とも無縁ではない。~略~都市化と巨大化によって、ゴシックの領主層は聖堂全体ではなく、部分を寄進するようになった。大聖堂内の礼拝堂や、祭壇画、銀器その他の祭具である。~略~死後の安寧を願う彼らは、自分のために祈ってくれる聖職者を雇い、家族用の礼拝堂を大聖堂内に確保し、その維持費を支払う。堂内における礼拝堂の位置にもこだわる。つまり、楽園への道を保証してくれる聖人の聖遺物にできるだけ近い場所に陣取りたい。それはまた、寄進者自身へのステータスシンボルにもなったことだろう。~略~空間の巨大化と美の世俗化は、職人たちに大量の注文をもたらした。聖堂の規模が大きくなっただけでなく、そもそも注文主が多様化し始めたのである。それまで美術品の注文主といえば聖職者か領主層と相場は決まっていたところへ、新興の富裕層すなわち商人や商工組合が名乗りを上げ始める。町なかで別格な建築物は城と大聖堂だけというロマネスクの時代は去り、装飾美術の媒体や質は大きな変貌を遂げてゆく。このような美の交替劇の様子をもっとも顕著に示しているのは床装飾の分野である。~略~大量生産されたタイルは、たしかに工場によって多少の差はあったものの、模様・厚さ・大きさはほぼ均質だった。厚さは『やや厚め』が標準になったという。厚すぎると、粘土や釉薬など材料を無駄に多く使ううえ、乾きが遅く、運搬にも重く、生産ラインの効率化が図れない。かといって、薄いと、運搬途中で割れる恐れがある。」床が大理石からタイルへ変更したのも時代としての流れがあったようです。今回はここまでにします。
2026.05.07 Thursday
「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第7章 ロマネスクの作り手たち」の気に留まった箇所を取り上げます。「ロマネスクの作り手たちは、いわゆる『芸術家』ではなかった。そもそも『芸術家』という語が『ある技術に秀でた者』を指し、さらには彼らを称揚する意味あいで使われるようになるのは、ヨーロッパでも13世紀末からのことである。~略~なお、中世美術の作り手たちの自画像でもっとも多く描かれているのは、跪拝像でも、まして肖像でもなく、作業中の姿である。12世紀ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂のブロンズ扉には、天秤と大きなやっとこを手にするブロンズ職人リクィヌスとその助手の姿が今に遺る。」この時代には女性の作り手もいたようです。「女性の作り手の名が残るのは、じつはふたつのジャンルに限られている。ひとつは、写本である。筆写は力仕事ではないが、繊細さと根気が求められる。才能ある修道女が登用されたとしても不思議ではない。~略~女性の作り手の名が残るもうひとつのジャンルは、刺繍である。現存する作例は写本よりずっと少なくなる。布という素材の性質上、長い経年変化に耐えがたいからである。」また名がなくても個性が目立つ作り手がいたこともあったようです。「署名は残らないし、史料に名前が記されているわけでもない。その意味ではまさに無名であるにもかかわらず、きわめて独特な作風から作品群が帰属され、当人の移動経路まで推測できそうな稀有な作り手がある。『カベスタニの匠』。」さらに時代が新しくなると作り手の名が残るようになりました。「ロマネスク期も12世紀に入ると、作り手の名声は次第に高まってゆく。作品に名を残すだけでなく、作り手自身が顕彰されるようになるのだ。ヨーロッパでいち早く、優れた建築家や彫刻家が活躍し、その名が高々と掲げられたのは北イタリアだった。イタリアの美術史家エンリコ・カステルヌオーヴォは芸術家意識の高まりと、自治都市の成立との関連を示唆している。~略~自治都市の成立によって、注文主が司教や領主など封建領主層でななく、複数の人物からなる『市民』となったとき、讃え、喧伝すべきは注文主の寛容さや建設の意図ではなく、作り手の才能となったのではなかろうか。」今回はここまでにします。
2026.05.06 Wednesday
先日、横浜の桜木町にある横浜美術館で開催されている「今村紫紅」展に行ってきました。日本画家今村紫紅のまとまった作品を見るのは私には初めてのことで、今さらですが、横浜の地元に生まれ35歳で早世した画家をもっと早く知るべきだったと思います。紫紅は10代の頃に粉本模写をしていて、その技巧を見ると早熟の天才だったことが伺えます。その後、紫紅は多方面に主題を広げていきました。私が見たかった「護花鈴」も展示されていて、これは原三渓の支援を受ける契機になった屏風で、大胆に構成され、かつ緻密な描写が際立つ作品でした。さらに紫紅はこんな文章を残しています。「一体、芸術に理屈は入らない。理屈が這入ると窮屈になる。窮屈になっては描けない。描くには暢気でなければならない。~略~ここに暢気と云うのは決して遊蕩せよとの意味ではない。」展覧会を見ていくうちに紫紅の画境が年齢とは別に老成していっているのが分かりました。夭折の芸術家には何かしら歴史に名を残す輝きがあると私は考えていて、紫紅も例に漏れずベテランの境地にあるような作品が散見されました。それは古典に根ざした革新性とも呼べる何かで、説明のしようがないものが作品の根底に流れていると感じました。図録より引用いたします。「紫紅はあるとき御舟たちに、『今迄のものは人に見せる絵であったが、友達に見せるような絵を一度描いて見たい』と語ったとある。胸襟を開いて語り合える仲間に吐露したこうしたことばからは、紫紅が《近江八景》そして《熱国之巻》という二つの画期作で『新しい日本画』への突破口を見出してもなお、優れた古画という巨大な存在から放たれて自由にならなければと気負い、格闘し続けていたことがうかがい知れる。~略~押しも押されもせぬ日本画の革命児として、若くして斯界を牽引し、旋風を巻き起こしてきた画家が、友達に見せるためだけに描きたかった絵、それは紫紅にとって、一つの理想の絵画であったのだろう。」(内山淳子著)