2026.01.29 Thursday
家内の邦楽器仲間に映画通の人がいて、本作「ペンギンレッスン」を勧められたので、今日は時間をとって家内と横浜の中心街にあるミニシアターで「ペンギンレッスン」を観てきました。当初は動物と人間との微笑ましい触れ合いを描いた映画かと思いきや、映画の舞台となったアルゼンチンの独裁政治が人々の生活を脅かしている様子が如実に描かれていて、それも深掘りしたくなるような内容を含んでいました。映画の舞台は1976年の軍事政権下のアルゼンチン。夢を見失い、人生に絶望した英国人の教師である主人公は、名門の男子寄宿学校に赴任してきました。授業崩壊している生徒たちに手を焼いている最中、旅先で知り合った女性と共に、重油塗れで瀕死状態にあったペンギンを救うことになりました。女性にはふられ、残されたのはペンギンだけ。海に戻そうとしたり、動物園に引き取ってもらおうとしたり、いろいろ手を打ちますが、結局自分でひき取ってペンギンの世話をすることになったのでした。そのペンギンと暮らすうちに生徒たちとのコミュニケーションや自らの生活に変化が現れてきます。ペンギンとの間に流れる癒しの時間はクスっと笑えるような楽しいもので、それと比較されるように政権による不条理な出来事が度々あって、主人公だけでなく周囲の学校関係者などが不安な日常を募らせていきました。それこそが本作に通底する大きなテーマではないだろうかと私は感じていました。ペンギンの世話を手伝ってくれる女性が、主人公のすぐそばで車に連れ込まれ、逮捕されることになっても、主人公は何もできない臆病な男で、自己嫌悪に苛まれていました。その女性の嫌疑が晴れて戻って来るのと前後して、ペンギンが死んでしまうのも何か意味があるような気がしたのは私だけでしょうか。この物語は実在の教師トム・ミッシェルが、自らの体験を綴った回顧録に基づいて作られたようで、完全なフィクションではありません。全体的にリアルな感覚が漂っていて、しかも良質な映画だったと思えたのも、ノンフィクションの部分があったためだろうと振り返っています。
2026.01.28 Wednesday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第8章 聖母像の変装」は4つの単元から成っていて、今回は「4生月の『納戸神』にみる聖母像」を取り上げます。「生月の納戸とは、窓のない物置であり、座敷に面した戸は締め切りになっている。納戸神は平素は箱に入れて麦俵や糸車などの間に仕舞い、年に12回、祭りのときに納戸に飾り付けるが、決して納戸の外には持ち出さないことになっている。女性は一切それに触れることができず、男であっても『お番役』以外は手を触れることはできない。祭りの時も正面からこれを礼拝するのはお番役だけで、その他の信者はこれに背を向けて礼拝する。納戸の中の神に対して、神棚、荒神棚、仏壇が目につくところに備え付けられており、床の間には天照大神と書いた掛け軸、恵比寿、大黒などの置物を置く。これらを『表神』という。これに反して『納戸神』は秘匿された神なので、部外者は見ることも撮影することもできない状態だった。~略~変装はキリスト教布教地のすべての地域で起こっている世界的現象である。インドでは、聖母の顔容がインド化している。中国では聖母の容貌がアジア的な特徴を示し、家具調度は中国風になっている。~略~インド、中国の場合に『現地化』がなされたのはその地における宣教師の順応策の実践のためであった。メキシコにおいては、それが経験的に現地女神と習合したのであったが、インド、中国では、ポルトガル系統のイエズス会は高度な文化をもつ国家ではそのような適合、順応が政策的にふさわしいし、西の図像に東の衣服、顔容を重ねたのである。そこに統括者ヴァリニャーノの関与があったことはすでに述べたとおりである。~略~生月島の納戸神は、その信仰の形態を反映して、原図の基本構成を保存してはいるものの、様式、手法は土俗的となり、図像は仏師と融合している。これは日本の迫害期に発生した融合的な『土着化』図像というべきであろう。海と山の、温和で明媚な自然に包まれた生月では、農民、漁民の暮らしは、彼らを包む自然を小宇宙として完結し、彼岸は中江ノ島にあり、聖地は先祖の殉教の地にあった。イエスも聖母も聖人も先祖の姿形をとり、その苦難の歴史は彼ら自身の歴史であった。この独自で、固有の閉ざされた信仰/生活空間の中で、彼らを支えたのは信仰の中心である画像であった。そしてその画像もまた、大いなる母とその子の観念を骨格として持ちつつ、慣れ親しんだ仏画の、天女、瑞雲、そして衆生の救済のためにくだる来迎の仏の形状と融合していたのである。」今回はここまでにします。
2026.01.27 Tuesday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第8章 聖母像の変装」は4つの単元から成っていて、今回は「3生月隠れキリシタン」を取り上げます。「なぜ、キリシタン遺物が生月でこのように保存されたか。その理由として、第一に、ザビエルの平戸布教開始数年後に当時の生月の領主であった松浦藩の重臣アントニオ籠手田、バルタザル壱部の両氏が入信し、これに従って全島民が信者となったため、イエズス会年報にも登場すること30数回、初期日本キリスト教会の一大成果であったことがあげられる。~略∼『お洗濯』と称する礼拝像新旧交代の風習については、日本の民俗的な習俗が重なったものとみられる。本来、『納戸神』、『御前様』は、描かれただけでは崇拝の対象にならない。魂を入れる『授け(洗礼)』の儀式を経て、はじめて生きたアニマをもつ『御前様』となる。これは本来のカトリック美術の『聖別』の儀式である。また、古くなると描きなおされ(『お洗濯する』)、そうして何度も描きなおされているうちに時を経て次第にもとの西洋画が変化したと宮﨑(賢太郎)氏はみているが、『お洗濯』した絵は、また魂を入れる『授け(洗礼)』の儀式を経て、生きたアニマをもつ『御前様』になる。古くなった絵は、『戻し(葬式)』の要領で魂を抜かれ、『ご隠居様』となる。~略~自然を聖なる力として肯定するそのような態度は、まず、日本の風土という固有の条件と分かちがたく結びついているであろう。その気候は、時として地震や台風や洪水や日照りなどの大きい激しい変化を示すことがあっても、おおむね安定した四季のリズムを刻み、熱帯や、亜熱帯や、大陸性の激しい気候風土、あるいは砂漠地帯や極北極寒冷地帯のそれと違って、温暖で人間に優しい風土である。このことは、宗教という、人間の生の全体にかかわる地平からすれば、大きな深い意味を持っている。~略~生月は古来クジラを獲ることで知られた民であり(生月の博物館『島の館』はクジラ獲りとキリシタンの展示で占められている)、かれらが、典拠とするキリスト教司祭と儀礼と教書を失ったとき、古来の民衆宗教に半ば回帰し、かれらの住む海と島を全宇宙として沖に浮かぶ処刑の島を他界とみたことは、かれらが本来の民衆宗教の世界観に回帰したという要素があったのではないかと考えられる。」今回はここまでにします。
2026.01.26 Monday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第8章 聖母像の変装」は4つの単元から成っていて、今回は「1隠れキリシタンと潜伏キリシタン」と「2隠れキリシタン存続の様態」の2単元を取り上げます。「『潜伏キリシタン』とは、潜伏期の信者たちをいい、いっぽう『かくれキリシタン』とは、禁教の高礼が撤去された後もなお教会に復帰しない人びとである。~略~ただひとつ確実なことは、もともとキリスト教徒であった民衆が、指導者を失い、幕府の継続的な弾圧のもとで一種の地下組織を作って自分たちの信仰を防衛的に固守してきた結果に生じた状況であるから、歴史的にはキリスト教の特異な民俗的形式として扱うべきだするのが筆者の立場である。」さて存続の様態について取り上げます。「1633(寛永10)年から39(寛永16)年にかけて家光は包括的な鎖国令を布き、日本人の海外渡航禁止、キリスト教の禁止と信者の徹底排除、南蛮人や混血児の追放、海外貿易の制限、ポルトガルとの国交断絶などを実施した。これら一連の鎖国令と、1635(寛永12)年の中国船の長崎集中、1641(寛永18)年のオランダ商館の出島移転などを含めて、家光の寛永段階における鎖国政策は完成した。このように、1640年代までが『殉教の時代』で、主だった宣教師や武士キリシタンが殲滅された。この恐怖の記憶が民衆をして何ものにかえてでも信仰を秘匿するという決意をさせ、子孫をしてそれを守らせてきたものであることは確実である。~略~大橋(幸泰)氏は、幕府の対キリシタン弾圧にいくつかの段階があったと同時に、キリシタン民衆側の心性にも変化があったとする。それは両者の関係をダイナミックなものとしてみる視点であり、同時代の美術を考える上でもっとも参考になる。なぜなら、徹底したキリシタン弾圧が260年も継続したにもかかわらず、信仰を隠しつつ維持した潜伏キリシタンが少なからず存在していたという事実は、日本人の信仰心の強さとか、志操堅固などという精神主義的解釈では説明がつかないからである。大橋氏によれば、民衆の側には、かれらをキリスト教へと導き、かつ信者のために殉教した土豪への、土地を媒介とした民俗的な信仰が深く潜行し、それが自分らの信仰を『隠匿すること』を自己目的化したのだとする。」今回はここまでにします。
2026.01.25 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日は彫刻を初めとする美術の面から、西洋の概念が入ってきた時代のことを書こうと思います。それは工部美術学校が誕生した明治時代と言いたいところですが、現在読んでいる「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)によると、西洋絵画が日本に齎されたのは安土桃山時代で、カトリック教会が宗教改革(プロテスタント)に対抗するため、布教範囲をアジアや南米に広げたことに由来し、宣教師が日本にやってきたことが、日本人が西洋絵画を目にした最初のことだったのでした。宣教師ザビエルが記した言葉が、当時の日本人の気質を物語っています。引用すると「この国の人びとは今までに発見された人びとのなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のなかでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。おどろくほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」という内容で、これは日本人全体に気高い意識があったことを意味しています。当時の一流の文化を享受していた一部の支配階級や法曹界の人々ではなく、どんな階層であっても教養があったことが、現代を生きる私たちにとっても誇らしく思えるところです。異質な西洋概念に対して、文化渡来当時から肯定的な姿勢を示したことが、あらゆる文化を吸収して折衷してしまうところに現在に続く日本人気質が見られ、それが私たちの長所であり短所でもあるのかもしれません。私の彫刻も和洋折衷です。日本の教育は西洋を模して明治時代以来続いてきたので、ものの見え方、考え方は西洋の概念にありますが、同時に西洋人が理解できないものの見え方、考え方もそのまま受け継いでいるのです。その感性のバリエーションが私たちを形成していると言っても過言ではありません。ただし、私たちは美味しいところ取りをしてしまう故に、オリジナリティの脆弱さがあるかもしれません。器用貧乏は創作をやる上で、学生時代から嫌われる要素でしたが、日本人全体がそうしたことに陥り易いこともあるのではなかろうかと思っている次第です。