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  • 「ピクチャレスクとイギリス近代」読み始める
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)を今日から読み始めました。本書は以前、東京池袋にあるジュンク堂書店で購入したもので、きっかけとしては「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)に頻繁に出てくるピクチャレスクという語彙に、私が興味関心を持ったことが要因になっています。それは廃墟と結びついていた論文だったので、ピクチャレスクなるものを私はドイツロマン派の画家フリードリヒの古城を画題にした絵として、勝手に思い浮かべていましたが、これはイギリスで流行したもので、ここで改めてピクチャレスクの深掘りをしたいと考えたのでした。本書の序章として画家サンドゥビーの作品が出てきます。「多作だったサンドゥビーの作品の中で特に注目したいのは、1794年に描かれた二枚の風景画である。産業革命や農業革命の影響が浸透し始めて社会構造の変化が生じ、さらに国王が処刑されたフランスとの戦争が始まっていた1794年は、プライスとナイトがそれぞれの代表作を出版した、ピクチャレスクの変遷の中で節目となる年だった。この年にサンドゥビーは、『ヴィンターの景観』と『朝』という二つの風景画を制作している。」その二つの風景画の社会的背景や技法等の分析が続き、漸くここで、ピクチャレスクなるものをざっくり著わした文章が登場しました。「ピクチャレスクとは、その名が示す通り絵画、特に風景画を準拠枠とする芸術表現形式であるが、その流行の拡大と共に絵画や版画といった芸術の域を出て観光や庭園を始めとする様々な分野にひろがっていった。」この概案だけではピクチャレスクが何なのか具体的な把握は出来ません。それは今後、本書の中で詳しく語られるもので、結構厚手で読み応えがありそうな論文を追々紐解いていこうと思います。「ピクチャレスクが流行した18世紀後半は、産業・農業革命やフランス革命などを背景にして社会が急速に変化し始めた、まさにイギリス近代が始まった時期である。この激動の時代の流れの中で風景や自然環境自体も、またその捉え方も大きく変わっていったと思われるが、ピクチャレスクの風景はその変化を映し出してはいなかったのであろうか。」この問いかけはそのまま本書の序章としての役割を担っています。
    新聞記事より「時を刻むとは…」
    今日の朝日新聞の「天声人語」の、時間に関する記事が気になりましたので、今日はそれを取り上げます。「私たちは、時間に追われて、生きている。あと5分で起きなければとか、次のバスは7分後だとか、つねに頭のどこかに時という物差しを置き、暮している。カチカチカチ。時計の針の音を聞きながら、思う。時を刻むとは何なのか。漠然とした問いを抱え、千葉県船橋市の菊野昌宏さん(43)の仕事場を訪ねた。設計から製作まで、年単位の時間をかけ、世界で一つの時計を手作りしている独立時計師である。『時代が違えば、異なる時間の読み方があります』。彼は言った。この国では一般に明治になるまで分も秒も使わず、24時間の一日ではなかった。江戸時代には夜明けと日暮れを境に、一日を昼と夜に分け、十二支などで表した。だから、幽霊が出るのは丑三つとされ、昼の12時を正午と呼ぶ。季節によって昼と夜の長さは変化する。それに合わせ、十二支が示す時間の長さも伸びたり、縮んだりする。そんな揺れ動く江戸の時刻が分かる腕時計を菊野さんは作っている。なるほど。変化する自然に向き合う生活には、江戸の時間が合理的なのだろう。でも労働時間で賃金を決めたり、電車を走らせたりする時代には、定まった時間が必要になる。そういうことだろうか。~以下略~」数年前まで私は教職に就いていて、勤務時間が決められていました。分刻みで授業が開始され、また終了する繰り返しでした。退職した時に、私は定められた時間から解放されました。これからは自分のやりたいように創作活動ができると思い、気の向くままに生きていこうと思いました。やる気が出れば作品を作る、そうでなければ気が済むまで休むという生活。ところがいざ退職となると、私は工房に行く時間をあたかも勤務時間がある如く決めることにしました。気が乗ろうが乗るまいが常に創作し続ける生活。江戸時代の時間の読み方が可能なのに、私は自分が決めた時間を自分に課していて、敢えて不自由な生活をしています。いつでもそれを変えられる生活、それが自分には心地よいのかもしれません。時間とは不思議なものだなぁとつくづく思っています。
    「聖母像の到来」結語&読後感
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)は最後の章を迎えました。「結語 『子を抱く女神』の世界史的展望」について、気になった箇所を取り上げます。本章は冒頭の文章が全体のまとめになっていました。「本論では、16世紀後半、ローマ・カトリック教会が対抗宗教改革期において、新たな聖母崇拝の教義を定め、これに基づいて聖母画像を再編し、再編された聖母の画像を宣教のための有効な武器として全世界に伝播させたこと、その世界的な聖母像の伝播のなかで、日本に到来した聖母像がいかに受容され、そしていかに変容したかをあきらかにした。これは16,17世紀に世界に伝播した聖母像と、これを受けて立った、アジアの女神像との遭遇と合体をテーマにしたものである。~略~人類の最古の崇拝像は妊娠した女性像であり、それは旧石器時代の後半からユーラシア大陸の広範な地域で発見された土偶であった。」これは生命を宿す女性に対する奇蹟と考えられていた証で、宗教概念が興る以前からの崇拝対象だったのでしょう。「概観すれば、世界各地の聖母像の中には、原初の大地母神を信仰する民衆の根強い信仰心が脈脈と流れていることがわかる。宗教の名は違い、その教義は異なっていても、世界史を通底する民衆の願いは支配と刑罰を示す剣を持つ男性神ではなく、生命と愛による救済を約束する子どもを抱いた女神であった。~略~アジア側からみるならば、西洋の母神は、文化の基層に存在した東アジアの女神と合体して、はじめて自己自身の像となったのである。この意味で、『マリア観音』は、西欧と東洋の二つの普遍宗教の融合、さらにそのはるか深層の、世界史的なロング・デュレとしての、女神への民衆信仰を凝縮させているのである。」本書から私は多くのことを学びました。まず、日本という島国に入って来た異端宗教が形を変えながらも長く信仰された経緯で、キリスト教の何がそんなに人々の心に届き、刻印されたのかであり、また宗教という分野の持つ根強いパワーです。私自身が納得できるところは、原初の大地母神を信じる民衆の心理で、私自身もそこに未来に繋がる希望が見えるからです。本書は私にとって大変インパクトのある内容だったと振り返っています。
    「東アジアの女神」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第9章 聖母像の変容」は8つの単元から成っていて、今回は「7『マリア観音』導入の経路」と「8東アジアの女神」の2つの単元を取り上げます。「第一に、『マリア観音』の源流は、古代ペルシャ、古代インドの母女神を原型とする観音菩薩の一変化として大乗仏教世界に流布した観音婦女身である。第二に、それは中国における土俗的な送子娘娘神と融合することによって形成された『送子観音』として子供を抱く母の姿を獲得した。第三に、日本には土俗的な子授け信仰として古代から子安明神信仰があった。これが鎌倉時代以降観音菩薩婦女身と融合し、子安観音として信仰された。第四に、中国布教において聖母の東洋化を促進したマテオ・リッチの影響下で、16世紀半ば以降観音型聖母像が形成され、17世紀半ば以降に、禁教潜伏時代の日本キリスト教徒はこれを輸入、また後期にはみずから製作した。この場合、単独の聖母像と、善財童子、龍女を伴った三尊形式の聖母像の二種がある。後者はおそらく出目が送子娘娘であり、前者は白衣観音であった可能性が高い。しかし、日本ではその両者が総称して『マリア観音』と呼ばれ、双方の図像が再生産された。~略~隠れキリシタンが『サンタマリア』として崇敬し、その信仰の中心に据えてきた『マリア観音』が、その形状においても、その意味するものにおいても、東アジアの民間信仰において根強く崇敬されてきた女神の諸権能と多くの共通点をもつものであることを証明した。~略~とりわけ、迫害、逮捕、拷問、殉教と背中合わせに生きている隠れキリシタにとっては、十字架上に刑死する、暴力と血を刻印する男性キリスト像ではなく、生命を産み出す女性の慈愛の姿にこそその救い求めることができたのである。死の隣に生きる難民にとって、それのみが救いを与えてくれる像だったからである。その時に、開かれていた中国との海上ルートによって、白衣の観音像が輸入され、かれらはこれをサンタマリアとして崇拝した。仏教の像にマリアを見立てて拝んだのではなく、この像そのものをマリアとして崇敬したのである。なぜなら、そこにはかれらが西欧の聖母像よりははるかに親しみやすく思うことのできるアジアの母性神の姿が凝縮していたからである。」今回はここまでにします。
    「マリア像の東洋化」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第9章 聖母像の変容」は8つの単元から成っていて、今回は「5中国における観音の女性化と子抱き観音像の成立」と「6中国におけるマリア像の東洋化」の2つの単元を取り上げます。「明代の《普陀山子安観音》(拓本)は、白衣をかぶり、片膝を立てて流水のほとりに座し、子どもを抱き、上部には龍がいる。『マリア観音』の原型というべきであろう。そしてこの女性型観音は、白衣観音、龍頭観音、揚柳観音などと多くの共通点をもっている。これらはいずれもあるいは癒し、あるいは水、あるいは豊穣の恵みをもたらす女性神であり、付属物は水、木、水の化身としての龍である。~略~ヒンドゥー、中国仏教そして日本で広く崇敬された鬼子母神、送子観音、送子娘娘はともに子どもを抱いた母性像であり、子授け、安産、子育の願いを聞きいれる女神である。さまざまな母性原型を合流させながら、その定義がさだまり、仏教像としての、観音像が母性化したのは、中国においてであり、その社会的要因として儒教の世界観の基軸である家父長制的な先祖崇拝と、その血統を継ぐ子の生産という願望があったとみることができる。~略~16世紀後半にはじまるキリスト教の中国布教において、西欧の聖母像が、意識的にアジア化された可能性があるということである。中国布教において、聖母が日本同様に重要な位置を占めたことは、多くの報告によって明らかである。アンリ・ベルナールは、『中国ではいたるところに聖母像が流布し、奇蹟をおこした。スペイン人フランシスコ会士も多くの聖母像を携帯した』と述べている。~略~ここにおいて、すでに、中国における、聖ルカの聖母の明らかな『東洋化』が起こっていることがわかる。子どもは唐子のような髪型をしており、聖母の衣装は観音のそれと類似している。新関公子氏が指摘しているように、この像は福建省の徳化窯で作られ、日本に持ってこられた白磁の観音像ときわめてよく似ている。」今回はここまでにします。