2026.06.10 Wednesday
「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「アブラハムとその子ら」は6つの単元から成っています。今回は〔22イサクの嫁取りとヤコブの祝福〕から〔24ヤコブとヨセフの物語〕までを扱います。まずは〔22イサクの嫁取りとヤコブの祝福〕。「年老いたアブラハムの最後の願いは、息子イサクの結婚でした。~略~町の娘リベカが水瓶を肩に載せてやってきました。彼女はじつは、イサクの従兄弟の娘で、際立って美しい乙女でした。従僕エリエゼルが駆け寄り、水を乞うと、駱駝にも『たっぷり』飲ませてあげましょうと、優しい。~略~リベカが子を産んだのは、その20年後。双子でした。兄のエサウは全身が毛深く、長じて狩りの名手となりました。~略~イサクは狩りの獲物が好物だったので、エサウを愛しました。リベカは、穏和な弟のヤコブを可愛がりました。ある日、ヤコブがレンズ豆の煮込みを作っていたところに、狩りで疲れきったエサウが帰ってきました。腹ぺこのエサウは食べさせてくれと頼みます。ヤコブが食事と引換えに『長子権』を要求すると、エサウは早く食べたいあまり、『ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい』とあっさり譲ってしまいました。」次に〔23ヤコブの夢〕。「眠るヤコブ、梯子、天使は、この場面に必須な要素。ちなみに、雲間から幾条かの光が地上に差し、天使が下りてきそうにみえる気象現象(薄明光線)を、英語では『ヤコブの梯子』と呼びます。~略~中世の神学では『ヤコブの梯子』は、『魂が徳を得て神に近づく諸段階』を表すと解釈されました。」次に〔24ヤコブとヨセフの物語〕。「旧約聖書の登場人物のなかでヤコブが特別面白いのは、必ずしも『品行方正』でないからです。兄のエサウから『祝福』を横取りしたばかりでなく、天使とつかみ合って格闘したり。~略~『神に勝利した者』すなわち『イスラエル』という呼び名の由来となったこの場面は、肉体をもたないはずの天使(あるいは神)と肉弾戦を行うという、じつに不思議な逸話です。中世の解釈では、人間の心のなかの『善悪の戦い』と考えられ、ロマネスク期の柱頭彫刻に多く登場します。」今回はここまでにします。
2026.06.09 Tuesday
「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「アブラハムとその子ら」は6つの単元から成っています。今回は〔19アブラハム Ⅰ〕から〔21ロト/ソドムとゴモラの滅亡〕までを扱います。まず〔19アブラハム Ⅰ〕。「アブラハムはイスラエルほか諸国民の父祖。ノアの息子セムから数えて10代目の子孫です。ユダヤ教でもイスラーム教でも尊ばれる預言者で、キリスト教でも、『アブラハムの懐』といえば『楽園』を意味します。~略~父祖となるはずのアブラハムですが、サラ(妻)には子ができません。サラは悩んだ末、エジプト人の女奴隷ハガルを夫にさしだします。ハガルは身ごもり、女主人を軽じるようになりました。~略~荒野の泉のほとりで、天使に勇気づけられたハガルは、アブラハムの元に戻り、息子イシュマエルを産みました。アブラハム86歳のときでした。~略~けっきょく、サラは子を産み、『イサク』と名づけられました。その名はヘブライ語で『笑う(イツハク)』の意。~略~イサクが成長すると、サラの心を占めるのは、アブラハムの跡目を誰が継ぐのか。サラはアブラハムに、ハガルとイシュマエルの母子を追放するように願い出ます。」次に〔20アブラハムⅡ〕。「息子も成長し、しあわせな老後を送っていたアブラハムに、ある日、神はこう命じました。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』『焼き尽くす献げ物』とは、肉を食べずに焼け尽くすという意味で、『燔祭』とも呼ばれます。」神はアブラハムの信仰の篤さを理解し、イサクは救われました。次に〔21ロト/ソドムとゴモラの滅亡〕。「ロトは、アブラハムの甥です。アブラハムとともに故郷を離れてカナンへ赴き、飢饉のときには、やはりともにエジプトに逃れました。~略~ロトは、ヨルダン川流域の低地がエデンの園のように潤い豊かなのを見て、そこに決めました。しかし、そこは、悪徳で名高いソドムとゴモラの町でした。~略~(アブラハムが)脱出を説得できたのは、嫁入り前の娘たちと妻だけでした。明け方になってようやく、ためらうロトとその家族は、天使たちに導かれて町を離れました。~略~朝日が昇り、一行が小さな町ツォアルに着いたとき、ソドムとゴモラに天から硫黄の火が降りそそぎ、全住民は草木もろとも焼滅しました。ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱になってしまいました。」今回はここまでにします。
2026.06.08 Monday
今年の個展で発表する陶彫による集合彫刻のタイトルを「発掘~六蹟~」としました。私はタイトルにあまり凝るほうではありませんが、「発掘シリーズ」では似たタイトルが多くなる傾向があるので、新作の造形的な特徴を言語化するようにしています。今回の作品は六点のブロックで構成している集合彫刻なので、六という数字をタイトルに入れました。六点のブロックはそれぞれ4点の部品で形成しています。その形成部品のうちの一つは厚板材を砂マチエールで固めたもので、崩れかけた状態を作りました。「六蹟」というタイトルについて、予めAIに「六蹟」について聞いています。AIによると「六蹟」は中国の六人の書家による名跡の総称であるけれど、一般的な日本語の資料に見当たらず、また日本では造語である場合もあるといい、これは確かに私の造語なので、私は本作を「六蹟」というタイトルでいこうと決めました。本作は画廊内の展示空間に点在させていくため、ある程度の広さを占有してしまいます。これは空間演出であり、庭園のように複数の個体で表現する世界です。これに辿り着いた要因は、20代の頃、5年間の滞欧生活を引き揚げる際に、エーゲ海に広がるギリシャ・トルコの都市遺構を見た印象が原点になっています。広漠とした大地から掘り出された都市空間の在り様に私は夢中になり、空間には空に向かうプラスの空間があるだけではなく、地中に埋められたマイナスの空間があると認識しました。嘗ては栄華を極めた古代都市は土砂に埋まり、その一部が現われ出ているのを見て、隠されたマイナスの空間に思いを馳せました。その状況を現代彫刻の形式を借りて、何とか表せないかを考えるに至り、「発掘シリーズ」が始まりました。余談になりますが、空間の中で個体と個体が引き合う見えない糸に、音が響き合い、音の余韻に浸り、いずれ訪れる沈黙に意味を持たせる現代音楽に似ているのではないかと私は勝手に思っています。
2026.06.07 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。壁に掛ける作品には、それぞれ絵の具によるサインをして完成としましたが、陶彫作品に私は落款をつけて完成としています。落款は落成款識の略語で、ネットで調べると「落成」は作品の完成、「款識」は署名・捺印を意味するようです。陶面には印は押せず、私は和紙に印を押し、それを切り取って、陶彫部品の裏側など隠れてしまう箇所に貼り付けています。陶彫による大きな作品は集合彫刻にしているので、印には番号を付けています。組み立てが誰にでも分かるようにしてあるのです。印は新作ごとに新しく作ります。昨晩新しい印材を取り出し、印面にデザインをしました。今日は工房で印面を彫っていました。印には陽刻(朱文)と陰刻(白文)があり、その混合でデザインをする場合もあります。私のデザインは篆刻のような拘りがあるわけではなく、かなり自由に作っています。時にはアルファベットも組み入れることもあり、小さな抽象絵画のような扱いにしているのです。今回は「相原裕印」と4文字にして、すべて陽刻で彫ることにしました。4文字の方がバランスが良いのです。一見すると線を駆使した絵画のように見えるというのが私の狙いで、小宇宙としての構成的な楽しみがあります。印は作品に隠れてしまうのですが、それでも私は全力で作ります。そのうち陰に隠れている印だけで展覧会ができるといいと思っています。私は書家ではないので、文字の巧拙は考えておらず、全体構成が面白ければ良しとしています。毎年この印を彫り始めた時が作品が完成した時なので、今年も個展が出来るなぁと安堵しているわけです。陶による小品は「陶紋」というタイトルの連作なので、印は昔彫ったものを使います。
2026.06.06 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。先週の土曜日には「彩色&写実絵画展へ」というタイトルをつけて週の振り返りを行ないましたが、先週は日本人画家「牧野邦夫」による写実絵画展、今週はアメリカ人画家「アンドリュー・ワイエス」による写実絵画展に行きました。日米どちらも写実絵画で表現された世界観に画家の人生そのものを投影した精神性の高さを感じ、その背景に私は思いを巡らせました。2週間にわたって卓抜した写実絵画を味わえて、私の鑑賞意欲は満たされましたが、ただ私が現在作っている作品は写実ではありません。その壁に掛ける「炭景」4点は、愈々今週完成を迎えました。これは昨年個展で発表した「痕跡」2点に繋がる作品で、私としては新しい試みになります。もう少し画面全体を整理すれば良かったかなぁと今さら思いますが、現在の私の内面吐露と考えれば、これはこれで良いのではないかと思います。鑑賞された方がどう受け取るか、色彩の氾濫を板材に施した幾何形体によって制御していると言うのが、完成直後の作者のありのままの素直な感想ですが、こういう作品は見た鑑賞者に全てを託すので、どんな感想が返ってくるのか、楽しみな面もあります。写実絵画と違って説明のつかないイメージの具現化があり、私自身もモヤモヤしたなかで、カタチを探りました。抽象作品はある程度完成された想定ありきで制作を進めていくのが定番ですが、私の場合は制作途中で立ち止まることが暫しあって、当初のイメージを思い出し、もう一度軌道修正することもあります。その場合は造形的な主張が揺るがないようにすることが肝心です。写実的な説明がないからこそ、主張がストレートに鑑賞者に届くというのが私の持論です。今週で陶彫による集合彫刻も、壁に掛ける平面性の強い作品も、さらに陶彫による小品4点も終わったので、明日からその作品たちを展示するための細かな作業に入ります。まず新作に貼る印を作り、陶彫部品の隠れた箇所に貼る作業があります。新しく作る図録のデザインやレイアウトも考えていこうと思います。撮影まであと1週間、気を抜かずにやっていこうと思います。