Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 25’師走を振り返る
    明日が今月の最終日ですが、例年大晦日のNOTE(ブログ)には1年間の総括を行なうので、今月の振り返りは今日やっていきます。今月は師走と言われますが、教職に就いていた頃に比べれば穏やかに過ごせています。それでも慌ただしい気持ちになってしまうのは昔の習慣でしょうか。今月は31日間あり、そのうち29日間は工房に通いました。明日も工房に行く予定なので、29日間に含めています。今月の制作工程として、陶彫部品に設置する厚板材を刳り貫いたものが6枚あって、それぞれに砂マチエールを貼り付けました。そこに油絵の具を染み込ませる作業も終えています。それがまだ乾いていないので、厚板材6枚は放置してあります。それらに油絵の具でドリッピングを施すのですが、しっかり乾燥させてから次の工程に移りたいので、作業は来月になるかなぁと思っています。新作の陶彫作品はそこまでで、今月の後半は壁に掛ける平面性に拘った作品に取りかかりました。それは4点ほど作る予定であり、それぞれのパネルは出来上がっています。その画面に配置する杉板材の刳り貫き作業に現在取りかかっている最中です。杉板材は炙って炭化させますが、それも来月に持ち越しです。今月は3日間工房に行かない日がありました。1日目は友人の菓子店から購入したシュトレンを山形県や長野県に住む先輩たちに送り、その足で家内と映画を観に行った日でした。2日目は宇都宮に行こうとした日に首都高速で事故があり、そこまで辿り着けずに、帰りがけに横浜中華街に立ち寄り、彫刻家の師匠に頼まれていた腐乳を手に入れた日でした。3日目は公共交通機関を使って宇都宮美術館に行った日でした。今月の鑑賞として美術鑑賞は「ライシテからみるフランス美術」展(宇都宮美術館)、映画鑑賞として「ペリリュー 楽園のゲルニカ」「アバター:ファイヤー&アッシュ」(両方ともTOHOシネマズららぽーと)、「ネタニヤフ調書」(横浜シネマリン)で、今月は映画鑑賞が充実していました。今月は夏の個展の搬出作品をロフトに上げ、後輩の彫刻作品を懇意にしているカメラマンに撮影をしてもらった日もありました。こう連ねて書いてくると、やはり師走は慌ただしいなぁと感じました。
    「日本布教の四段階」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「2日本布教の四段階」について取り上げます。「秀吉の追放令(伴天連追放令)にもかかわらず、ポルトガル船は来航し、南蛮風俗は栄え、布教は黙認状態で継続していった。しかし、1583年ニコラオ来日とともに正式にはじまった画塾セミナリオは、公式機関が正式には開設を赦さなかったため、追放令以後は西九州地方に分散して活動した。初等、中等の学校であるセミナリオでは、初期には絵画、銅版画の制作は正規の授業ではなかったが《音楽は最初から必修である》、1590年以降は課外として教習が行われるようになった。」布教には段階がありました。「相互に重なりあう問題を整理しつつ、キリスト教美術の制作の場、様態、作者を中心として、筆者は、日本の初期キリスト教美術を以下の三段階に区分する。(1)第一期ー布教初期、1549-1579、画像輸入時代  (2)第二期ー布教中期、1579-1614、画像制作時代 (3)第三期ー禁教・迫害・潜伏時代、1614-1857、変装、変容時代 (1)に関しては、聖画像が主として宣教師によって外部から招来された時期であることを特徴とする。~略~(2)に関しては、日本人が自ら西欧画を模範として制作した聖画像が大量に生産された時期である。~略~(3)に関しては、迫害と潜伏の時期にあって、キリスト教画像であることを隠蔽する必要が生じたため、二つの方法で、その隠蔽を行なった時期である。第一は『聖像の変装』である。これは、キリスト、マリアの衣裳、髪型を日本風に変装させた聖画像で、隠れキリシタンの納戸に置かれたため『納戸神』または『御前様』と称された。第二には、特に聖母像にのみ起こった現象であり、仏像とされる対象をマリアとして崇拝する、いわゆる『マリア観音』である。これを『聖像の変容』と定義する。すなわち、日本の聖母像は、世界にも稀な経過を辿って変遷した。まずイエズス会宣教師の公式図像が導入され、次に、土着の画家によって、それが日本の様式と材料で描かれ、すなわち和様化され(ここまでは中国、東南アジアで起こったことと同じである)、最後に、その姿を仏教の観音に変容させたのである。」今回はここまでにします。
    週末 ロフト上げ作業&後輩の撮影会
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日は創作活動というより、工房の荷物整理と後輩の木彫家の作品撮影を行なったので、それについて書いていきます。工房の荷物のいうのは、今年の夏に個展に展示した陶彫作品を箱詰めしたものを、工房のロフトに上げる作業でした。工房に関わりのある若い女性スタッフ3人と後輩の彫刻家に朝9時に集合してもらい、工房の天井に設置したリフトで木箱を上げていきました。後輩と私は1階でリフトを操作し、スタッフ3人を2階ロフトに配置しました。24箱あった木箱は次々にロフトに収まり、梱包した大黒柱4本と壁掛けの作品2点もそこに収めました。実は夏の個展では搬出してきた作品をロフトに上げることができずに、1階部分に今まで置いていたのでした。夏はロフトの気温が上昇し、作業ができる状態ではなかったので、冬になるまで待っていたのでした。昼前にはロフト上げ作業は終了し、その時間から2人のカメラマンが参加して、後輩が週末に熱心に作っている木彫作品の撮影会を始めました。今回の彼の作品は、学校で使っている生徒用机の天板を使ったもので、言わば廃品をレリーフとして再生したものです。その数は60数枚あり、野外工房にそれらを並べて撮影をしました。今日は晴天に恵まれ、レリーフの彫り込みには微妙な影が出来ていました。床に心象風景が彫り込まれているような錯覚になり、なかなか美しい出来栄えでした。その後、室内に移動し、絵画用のイーゼルに1枚ずつレリーフを設置して個体撮影になりました。それをデータ上で彼が改めて再構成するようで、アナログとデジタルを使い分けた楽しい方法だなぁと私は思いました。私の陶彫作品でも言えることですが、亡父の残してくれた畑にはさまざまな樹木が植えられていて、そこに彫刻を置くと思わぬ効果が期待できます。後輩のレリーフも樹木を支えにして立てることができて、作品に葉の影が落ちて光が織りなす美が出現していました。彫刻の魅力のひとつに環境を取り込んだ空間演出があることも忘れてはならないと思いました。
    週末 2本の映画が印象的だった1週間
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週は毎日工房に通っていましたが、制作時間を短くして映画鑑賞に2回出かけました。新作の制作では壁に掛ける作品の構成要素になる杉板の刳り貫きをやっていました。壁に掛ける作品はレリーフになり、4点の連作を考えています。杉板を炙ることで得られる効果がイメージの中にあり、画面全体を考えながらコツコツ作業を進めていました。炭化した板材を浮かしてみたり、斜めに貼り付けることで、架空都市の痕跡を留める作品になればと思っています。さて、今週は何よりも2本の映画を観て、その表現力に圧倒されていました。初めに観た映画は娯楽を中心に据えたエンターティメントであり、またもう一本は現在の国際情勢を左右している一人の人間の生きざまを描いたドキュメンタリーでした。エンターティメントの映画は「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」。3Dを駆使した映像は、滑らかで美しく、また画期的なデザイン性に溢れていました。本作は人が想像した架空の世界ですが、私の作っている彫刻作品も言うなればファンタジーです。そんな幻想世界でも、現代人が抱える問題を垣間見せ、私たちが忘れてはならない本質を描き出していると感じました。こうした世界観は夢を与えてくれるため、私たちの日常に活気を齎せてくれるのです。観終わった後で元気になれると思ったのは私一人ではないはずです。その逆をいくのが、現状を抉り出すドキュメンタリーで、ガザを攻撃しているイスラエルの現時点を捉えた「ネタニアフ調書」でした。映画の前半は首相ネタニヤフの汚職に触れた部分で、警察の尋問を受ける姿が映し出されていました。貢物をした人物たちからのインタビューもあり、逮捕を遅らせるために彼は戦争を長引かせているのではないかと映像は語っていました。一人の汚職隠滅のために数多くの人命が失われていく事実、これは決してファンタジーなどではなく眼前で行われている紛れもない現実なのです。観終わった後で憤りが込み上げてきたのは私一人ではないはずです。両極端な映像表現に直面して、何と印象的な1週間だったのだろうと振り返っています。
    「日本人と聖画像」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「1日本人と聖画像」について取り上げます。「それまでは宗教画の主流は建造物とくに教会建築に付属した壁画だったが、15世紀の末頃からイタリアでもアルプス以北で発展した小型の板に油彩またはテンペラで描いた、壁から独立した携帯可能な小型祭壇画が普及し、宗教画が携帯用になり、布教師がこれを全世界に携帯することができるようになったと彼(アンリ・ベルナール)は指摘する。したがって、ザビエルが鹿児島で見せたものも、そうした携帯用の祭壇画であっただろうと彼は推測し、『それ以来、ヨーロッパのタブローはポルトガル人の輸入品目となり、日本でもそれを模写制作するようになった』と書いている。」やがて、日本ではキリスト教に対する禁教令が出されます。「日本の信者から熱烈に慕われた聖母像であったが、1614年の禁教令以降、地上から聖母画像は姿を消した。しかしそれは消え去ったのではなかった。それ以降は変装と変容の時代に入る。しかし、信者を摘発し転宗を迫るための検閲の儀式としての『踏絵』には、効果的な画像として聖母像が用いられた。~略~日本の信者にとって聖母像はいかなるものであったかを最もよく語るのは、開国後の1865年3月17日に新たにパリからやって来たプチジャン神父によって建立された長崎の天主堂で起こった、劇的なキリシタン発見の事件である。このとき隠れた信者発見の決めてとなったのが、浦上の老婆がプチジャン神父に尋ねた『サンクタ・マリアの御像はどこ』という言葉だった。老婆はさらに聖母マリアの像を見て『そうだ確かにサンクタ・マリアだ。御子ジェス様を抱いていらっしゃる』と叫んだということである。これは、司祭も教会暦も、教書も一切なかった隠れキリシタンにとって、聖母マリア像が信徒の信仰の自己確認であり、数百年ものあいだ、カトリックの神父を待ち、その確認のキーになったのが聖母像であったことを示す意味深い事件であった。」今回はここまでにします。