2025.12.26
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「1日本人と聖画像」について取り上げます。「それまでは宗教画の主流は建造物とくに教会建築に付属した壁画だったが、15世紀の末頃からイタリアでもアルプス以北で発展した小型の板に油彩またはテンペラで描いた、壁から独立した携帯可能な小型祭壇画が普及し、宗教画が携帯用になり、布教師がこれを全世界に携帯することができるようになったと彼(アンリ・ベルナール)は指摘する。したがって、ザビエルが鹿児島で見せたものも、そうした携帯用の祭壇画であっただろうと彼は推測し、『それ以来、ヨーロッパのタブローはポルトガル人の輸入品目となり、日本でもそれを模写制作するようになった』と書いている。」やがて、日本ではキリスト教に対する禁教令が出されます。「日本の信者から熱烈に慕われた聖母像であったが、1614年の禁教令以降、地上から聖母画像は姿を消した。しかしそれは消え去ったのではなかった。それ以降は変装と変容の時代に入る。しかし、信者を摘発し転宗を迫るための検閲の儀式としての『踏絵』には、効果的な画像として聖母像が用いられた。~略~日本の信者にとって聖母像はいかなるものであったかを最もよく語るのは、開国後の1865年3月17日に新たにパリからやって来たプチジャン神父によって建立された長崎の天主堂で起こった、劇的なキリシタン発見の事件である。このとき隠れた信者発見の決めてとなったのが、浦上の老婆がプチジャン神父に尋ねた『サンクタ・マリアの御像はどこ』という言葉だった。老婆はさらに聖母マリアの像を見て『そうだ確かにサンクタ・マリアだ。御子ジェス様を抱いていらっしゃる』と叫んだということである。これは、司祭も教会暦も、教書も一切なかった隠れキリシタンにとって、聖母マリア像が信徒の信仰の自己確認であり、数百年ものあいだ、カトリックの神父を待ち、その確認のキーになったのが聖母像であったことを示す意味深い事件であった。」今回はここまでにします。