2025.12.29
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「2日本布教の四段階」について取り上げます。「秀吉の追放令(伴天連追放令)にもかかわらず、ポルトガル船は来航し、南蛮風俗は栄え、布教は黙認状態で継続していった。しかし、1583年ニコラオ来日とともに正式にはじまった画塾セミナリオは、公式機関が正式には開設を赦さなかったため、追放令以後は西九州地方に分散して活動した。初等、中等の学校であるセミナリオでは、初期には絵画、銅版画の制作は正規の授業ではなかったが《音楽は最初から必修である》、1590年以降は課外として教習が行われるようになった。」布教には段階がありました。「相互に重なりあう問題を整理しつつ、キリスト教美術の制作の場、様態、作者を中心として、筆者は、日本の初期キリスト教美術を以下の三段階に区分する。(1)第一期ー布教初期、1549-1579、画像輸入時代 (2)第二期ー布教中期、1579-1614、画像制作時代 (3)第三期ー禁教・迫害・潜伏時代、1614-1857、変装、変容時代 (1)に関しては、聖画像が主として宣教師によって外部から招来された時期であることを特徴とする。~略~(2)に関しては、日本人が自ら西欧画を模範として制作した聖画像が大量に生産された時期である。~略~(3)に関しては、迫害と潜伏の時期にあって、キリスト教画像であることを隠蔽する必要が生じたため、二つの方法で、その隠蔽を行なった時期である。第一は『聖像の変装』である。これは、キリスト、マリアの衣裳、髪型を日本風に変装させた聖画像で、隠れキリシタンの納戸に置かれたため『納戸神』または『御前様』と称された。第二には、特に聖母像にのみ起こった現象であり、仏像とされる対象をマリアとして崇拝する、いわゆる『マリア観音』である。これを『聖像の変容』と定義する。すなわち、日本の聖母像は、世界にも稀な経過を辿って変遷した。まずイエズス会宣教師の公式図像が導入され、次に、土着の画家によって、それが日本の様式と材料で描かれ、すなわち和様化され(ここまでは中国、東南アジアで起こったことと同じである)、最後に、その姿を仏教の観音に変容させたのである。」今回はここまでにします。