Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 制作onlyの1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。来週になると如月会の親睦会やら車の定期点検、母の七回忌等があっていろいろ予定が詰まっていますが、今週はそうした用事がなく、1週間丸ごと制作だけで過ごせた日々で、まさに制作onlyでした。今週は壁に掛ける新作のレリーフとなる杉板の刳り貫き作業ばかりやっていたのですが、昨日と今日はそのレリーフを設置するパネルに木枠を取り付ける作業に入りました。画面とレリーフの間に僅かな空間を作るため、それらを保護する目的で、パネルの周囲に木枠を付けていくのです。壁に掛ける作品は造形空間に一定の範囲を与えることになりますが、それについては後日改めて自分の考え方を述べたいと思います。今週はそんなわけで制作の事ばかり考えていて、壁に掛ける作品の当初のイメージを掘り起こしてみたりしました。この作品の画面には油絵の具で色彩を施すことを計画していて、絵画性も充分存在している作品なのです。隣り合わせる色彩をどうするか、筆致をどうするか、それと組み合わさるレリーフの杉板材に、どのような効果を持たせるか、あれこれ考えたり試したりするのは楽しい時間です。陶彫作品にも砂マチエールに色彩を施した厚板材を合わせていくので、床置きの陶彫作品にも絵画性はあると思っています。絵画性における私の認識は、陰影のついた描写を可能な限りやらずに済ませようとするもので、絵の具の塗装は平塗を基本にします。杉板材のレリーフとの相性は平塗がいいと思っているからです。ただし、絵の具の掠れは大いに利用します。書をやっている元管理職の同僚と話している時に、書の掠れがその強弱により平面を超えた空間を演出できるのに着目しました。意図的に掠れを作るのもなかなか難しいかもしれませんが、私も壁に掛ける作品の中でやってみようと思っています。筆とそこに含ませる絵の具の量で加減していくのかなぁと考えていて、次の段階では平塗の処理をどうするか、試行してみたいと思います。
    新聞記事より「未完で…」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ。 横尾忠則」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「作品の完成を前にしながら最後の一歩が踏み出せずに終わることはつねにあると、美術家は言う。ピカソの『ゲルニカ』も、画面は描き損じたり消し忘れたりしたままで、そこに彼の迷いが垣間見えるから見応えもあると。人間はいつもどこかへ向かう途上にある旅の人、止まればいのちが途絶える過客であって、それ故にこそ自由も可能となるのだろう。『飽きる美学』から。」美術家横尾忠則氏はグラフィックデザイナーから画家へ転身し、鮮烈な作品を数多く制作しています。高校の同級生で俳優の竹中直人君は、昨年の夏に横尾氏にインタビューを行なっていました。その足で竹中君は私の個展に来てくれたので、横尾氏の現在の状況が生々しく伝わり、私には巨匠とも言える横尾氏が身近に感じられました。作品は常に未完成で、それが東京の画室に雑多に立てかけてあったそうで、その映像を見て私も刺激をもらいました。確かに作品を完成させようとすると、それをよく見せようとする意識が生まれ、その分作品はつまらなくなっていきます。銀座のギャラリーに展示した私の作品は、こんなにも退屈だったっけと思う節もあり、未完成な状態の時の方が何故か生き生きとした詩魂があるように思えてきます。だからといって陶彫作品は窯入れしなければ作品の体を成さないので、集合彫刻をまとめる時に、バランスを敢えて欠く部分を作ってみたりしました。それでも完成をしないというのは落ち着かない心の状態のままでいるので、現行の作品につい決着させたいと思ってしまうのは生真面目な自分の性格によるものなのか、完成していないと次へ進めないと自分の中で手枷足枷を嵌めてしまうせいなのか、その内心を自分で推し量る事さえ分かりません。ただ、未完の方が作品は面白いままだということは充分理解しているつもりです。
    新聞記事より「日本古来の発酵調味料」
    今日の朝日新聞「天声人語」に載った記事に目が留まったので引用いたします。「日本古来の発酵調味料のみそは、和食ブームに乗って海外でもおなじみになった。だが、宇宙でみそができあがったのにはさすがに驚いた。フリーズドライの宇宙食ではない。国際宇宙ステーション(ISS)で発酵させたという。米マサチューセッツ工科大などのチームが昨年、科学誌に論文を発表している。煮た大豆とこうじ、塩を混ぜて容器に入れ、発酵状況などを測定する機器とISSへ送った。約30日間保管され、無事に地球へ戻った。みそはできたが、味の違いが気になる。一緒に仕込み、米国などで発酵させたみそよりうまみ成分が多く、ナッツのような香ばしさが強かったという。一方で、日本のみそに存在する乳酸菌や酵母は検出されなかった。研究チームは、この風味を『宇宙テロワール』と呼ぶ。ワインづくりで聞くテロワールは、土壌や気候といった土地の個性が味に表れるのを指す。微小重力やロケットの振動などが影響したなら、確かに宇宙ゆえの味なのだろう。八丁みそに西京みそと、日本のみそも地域によって様々だ。〈ふる里の味噌はよき味噌これの味噌にひでて煮て食はば何もかも甘し〉斎藤茂吉。『ふるさとの味は宇宙みそ』の時代は来るか。」味噌について私が思うのは、人の味覚は成長とともに育つのだということです。幼い頃、味噌の味なんて気にもしていなかったのが、味噌汁がうまいと感じたのは中学生の頃だったか、それは出汁についても同じで、ある程度大人にならなければ味覚が分からないものが確かにあると私は思っています。とりわけ海外生活をしていた時代に、日本食料品店で高価な味噌を購入して、下宿で味噌汁を作った時の感動を私は今も忘れることが出来ません。世界に日本古来の発酵調味料が広がっていったとしても、自分の味噌に対する好みを変えることは出来ないし、たとえ両親に育てられても、お袋の味なんていう郷愁は私にはありません。両親は濃い赤味噌が好きだったのに、私は出汁がかなり効いた薄味の味噌汁が好きなのです。それは家内の趣向に私が引っ張られた結果だと思っています。日本の味噌文化は豊潤で、それ故誇らしいとさえ私は思います。
    災害大国に生きる
    今日は3月11日で、15年前に東日本大震災があった日です。15年前に私は横浜市立中学校の副校長の立場で震災を経験しました。場所は横浜であっても影響は大きいものでした。当時は2日前に卒業式は終わっていて(今年は今日が市立中学校卒業式でした)、しかも2時半過ぎという時間帯はその日の在校生の授業も終わっていて、部活で残留している生徒しかいませんでした。それでも校庭に生徒たちを集めたら200人以上が校内に残っていました。隣にある小学校から児童の叫ぶ声が聞こえてきましたが、中学生は静かに列を作って、私たち教員の指示を待っていました。隣の小学生との差が成長に現われていると感じました。当時のNOTE(ブログ)を探し出し、その一部を掲載いたします。「ついにきたかと瞬時に思いました。職場で書類を作っていたのが午後3時近くでした。微妙な揺れがあったかと思ったら、大きく揺れだし、しばらく揺れが止まりませんでした。緊急放送のあと一時避難したら、また揺れがきました。揺れが落ち着いてから施設を点検し、5時過ぎに職場を出ました。電車が止まっているので歩いて自宅まで行こうとしたところに、職員の一人が家の近くまで車で送りましょうと声をかけてくれました。国道は歩いて帰宅する人であふれていました。」あれから15年経っても日本は災害が多いことを実感する毎日です。台風被害もあり、自宅の屋根が壊されたこともありました。日本が台風被害を直接受ける場所に位置していること、また活断層が海中にも多く存在し、地震や津波被害に遭う恐れがあることなど、日本は取り巻く環境からして災害大国と呼ばざるを得ないと思っています。地球温暖化で日本以外にもさまざまな被害に見舞われる国もあり、災害があるたびマニュアルを残している日本が、それらの国の指導的役割を担わなければならないかなぁと感じています。今日は工房で作業をしていたら、いつも聴いているFMヨコハマから震災があった時間に畠山美由紀さんの歌う「わが美しき故郷よ」が流れてきて、思わず黙祷をしてしまいました。畠山さんは気仙沼出身の歌手で、毎年この時期にこの歌が流れます。
    「庭園論の礎石」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第3章  ピクチャレスクと庭園」に今回から入ります。まず「1庭園論の礎石」を取り上げます。本単元ではウェイトリー「現代造園論」が中心になっています。「ピクチャレスクと庭園を考える際、まず最初に取り上げたいのはウェイトリーの庭園論である。~略~『序論』において著者の庭園論の基本が表明されているが、それは庭園は自然風であるべきことを推奨しながらも、人為性をより尊重するいう立場である。~略~木々を大きな塊として把握してその色彩を絵画的に描き出そうとする視覚的アプローチと、その塊の表面の粗さや滑らかさなどの多様性を感じ取る触覚的アプローチ、これら両方を彼は採用している。その上で、『何を植えるか、あるいは何を取り除くか』が決められるべきなのである。~略~『現代造園論』の風景の特徴は客観性と構図あるいは構成への配慮が優先されていることであり、その基本にあるのは鮮明な絵画的視点であるとまとめることができるだろう。『多様性の調和』の尊重は18世紀前半の自然観を継承しているが、ポープの時代にその背後にあった宇宙観・世界観をウェイトリーの描写において見出すことは難しく、そこでは殆ど視覚的、審美的な意味しか持っていない。この点においては、ギルピンのピクチャレスクの風景描写に極めて近い。~略~ウェイトリーの描写の特徴は視覚を中心にした客観性に留まるものではない。高度な客観性の他に、もう一つ彼の記述に特有であると言えるのは、対象の『性格』の尊重だろう。~略~廃墟が『表出』する『性格』には二通りある。『残存する建築様式や状態が表出する』、つまり現存の廃墟の視覚的外観が直接に喚起する『性格』と、廃墟がかつての姿を想像することから生じる『観念』即ち『性格』である。前者をウェイトリーは『変遷、老朽、荒涼』であるとする。一方、後者は目の前にはないものから想像力を働かせることによって得られるのであるが、特に廃墟がその姿が『不完全』で『曖昧』であるという『特質』を持つため、想像力が活発に働く余地があるという。~略~ウェイトリーの庭園風景は絵画に立脚した人為性が強調されたものだったが、その一方で彼はそれと対照的な『ワイルドな』風景にも惹かれていた。これら静と動という相対立する二つの方向性の共存は、すでに述べたようにピクチャレスクの風景の本質である。つまり、ウェイトリーの庭園風景はピクチャレスクであったと言ってよいだろう。」今回はここまでにします。