Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「ヨハネ=イサク=キリスト」について
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第7章 二点の《洗礼者ヨハネ》の主題 」の「4 ヨハネ=イサク=キリスト」の気になった箇所を取り上げます。「カピトリーノ作品の少年が、イサクでありながらヨハネのような設定で表現されたものであるとすれば、それはこの両者の共通性、つまり、イサクもヨハネもキリストの死とそれによる救済を予告し、象徴するという点からではないだろうか。~略~イサクが背負っていた薪は、キリストが背負った十字架であり、十字架は『イサクの木』であるという。イサクは殺されることを免れ、代わりに羊が犠牲になったが、これはキリストの神性は殺されずにその人間性のみが死んだということを示しており、イサクはキリストであり羊はキリストの人間性である。~略~この少年は、一見『荒野の洗礼者ヨハネ』でありながら、実は『解放されたイサク』であり、霊肉を備えたキリストであるという重層的な意味を持つことになる。」これらの作品が描かれた時の画家の私的事情があったようで、それは次章で扱うテーマですが、そこに触れた箇所があったので取り上げておきます。「画家がローマに向ったのは、1606年に彼がローマで犯した殺人によって布告された死刑宣告に対して恩赦が出るという期待を持っていたからである。~略~画家が最後の旅にわざわざ携行した作品群も、カルヴェージの説く《ダヴィデとゴリアテ》と同じ文脈、つまり恩赦を求めるためのメッセージとして捉えられるのではないだろうか。少なくとも、画家はボルゲーゼ家をはじめローマにいるパトロンに贈るつもりでそれらを携行した可能性が高い。所在不明の作品《マグダラのマリア》は、主題からいってあきらかに、犯した罪に対する改悛と悔悟の表明であったろう。そしてこの変則的な《洗礼者ヨハネ》は、福音、つまり恩赦を待っているという画家の切実な状況を訴えるものではなかったであろうか。」今回はここまでにします。