2026.09.28 Monday
今日の朝日新聞「天声人語」に掲載された記事に注目しました。「ネパールでは、あらゆる場所に神様が宿っている。水と五穀豊穣の神はマチェンドラだ。干ばつにならないよう、盛大に祭りが開かれる。人々は川や泉で沐浴し、けがれを落とす。1950年代、ネパールに滞在した文化人類学者の川喜田二郎は、この国で水は聖なるものだと知った。そんな神聖な水が、突如、多くの命を奪った。ネパールと中国の国境地帯で土石流が起きて1カ月がたつ。約1500人の死亡が確認され、いまも日本人5人を含む5800人以上が行方不明のままだ。自然災害が起きるたび、人は神様の意思に違いないと行き場のない怒りと悲しみをおさめてきた。だが、災害の裏に人間の行いがあると言われたら、どうだろう。今回の土石流を起こした原因の一つに、気候変動があることが見えてきた。温暖化で雪が雨になり、氷で満たされていた亀裂や岩がもろくなって斜面が不安定になっていた、というのが研究者たちの見立てだ。ネパールの温室効果ガスの排出量は、世界全体の0.01%ほどしかない。温暖化の要因はほとんど他の国が作っているのに、甚大な被害が降ってくる。もはや、援助や支援といった枠組みだけでは、この不公正はなくせないだろう。川喜田は帰国後も、時折ネパールの生活を思い出した。モンスーンの余波で水浸しになった土地に、やがてジャガイモやエンドウが芽を出す。『宝玉のように輝いた小世界だった』と書いた。土石流がのみ込んだ村に、新たな命が芽吹くことを願う。」ネパールの災害だけでなく、日本でも最近のニュースは自然災害のことばかりです。線状降水帯という言葉を聞くたび、土砂崩れを起こすイメージが出来てしまっていて、どこかに避難しなければならない切迫感もあります。幸い私の家は工房も含めて丘の上にあるので水没する危険は少ないのですが、家から厚木街道方面へ行く坂道は樹木が倒れる危険があって心配です。地球温暖化も言われて久しいのですが、私たちが出来る身近な予防策はあるのでしょうか。
2026.09.27 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。先週、映画「オデュッセイア」を観に行ったことが契機になり、ギリシャ神話について少しばかり内容を調べてみました。私は20代の終わりにギリシャへ出かけて、エーゲ海沿岸に広がる遺跡を見て回ったことがあります。5年間に及ぶヨーロッパ生活にピリオドを打ち、本来は彫刻を学びに出かけたのに何の成果も得られず、自分にとっては無駄とも思われる時間の浪費があったと認めざるを得ない状態でした。最後に西洋彫刻の原点とされるギリシャに行ってみようと思い立ち、外国人労働者が帰省に使うバスに乗って、トルコやギリシャへ向かいました。ここでは貯金が途切れるまで滞在していく覚悟だったので、数か月間は留まることが出来ました。そこで見た古代都市の発掘現場が私の胸に刺さりました。発掘を終えた円形劇場や柱がそそり立つ神殿の廃墟と、まだ発掘を行なっている現場には生々しい出土品が散在していて、それらの概観が私の中で印象深く根を下ろしてしまいました。私の「発掘シリーズ」発想の原点はそこにあったと思っていますが、そこから創作が生まれ出るまで相当な時間を要しました。その間、陶を用いることや生活は教職に頼らざるを得なかったことなど、すんなりとイメージが熟成することはありませんでした。四苦八苦するうち漸く「発掘~鳥瞰~」が生まれてきました。私は創作の基盤を見出すことに精を出していたので、ギリシャの古代文化を学ぶことはしていません。学者ではない私が発想の原点となった古代文化を体系的に学ぶことは必要なのか、知識がなくても創作に困らないなら発掘現場の視覚的衝撃だけで充分ではないか、学術行為と創作行為には隔たりがあってもいいと私は今でも思っています。芸術家は学者である必要がないという結論ですが、創作に纏わるテーマの中には知識を掘り下げなければ納得のいかないものもあるのは事実です。場合に応じて知識が必要と考えるのが妥当かもしれません。
2026.09.26 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況も先週に続き、新作陶彫である6つの塔の二段目にあたる成形をやっていました。今週の火曜日は、清交会65周年記念展の搬入と展示作業が午前中にあり、午後は同展の受付をやることになっていて、工房に行くことは出来ませんでした。元校長たちが退職した時に清交会に所属し、自分の時間を豊かにするために絵画や写真、工芸、書などに取り組んでいることは、素晴らしいことです。私のように教職に就いた時から創作に邁進してきた者は少ないのですが、人生100年時代に退職後の過ごし方を考えるのは必要だと私は思います。自分の生きがいを見つけることは、長年従事してきた教育を礎にして、自分を羽ばたかせることでもあると私は考えるからです。そのために自分の内面を見つめることもあるでしょう。私は自己表現の一環として鑑賞を推進しています。今週は映画鑑賞をしてきました。映画はIMAXで撮影した映画「オデュッセイア」をIMAXの映画館に行って観てきました。大きな画面や重低音の音響は、壮大な物語を観るのに最適だなぁと思いました。トロイヤの木馬に潜ませた兵士たちを城内に侵入させ、見事にトロイヤの陥落を果たしたオデュッセイアは故郷に帰る道すがら、さまざまな知恵を尽くして怪物や兵士団を倒していきます。ギリシャ神話の中で語られる智将は、映像表現でしか見られない場面に幾度も遭遇し、私たち観客を満足させてくれました。まさにエンターテイメントなドラマは米国映画の特徴だなぁとも思いましたが、ギリシャ神話は西洋文化の礎でもあるので、私には少しばかり違和感もあり、それも含めて楽しめました。今週は記念展搬入と映画鑑賞の2つが印象的な1週間だったと振り返っています。
2026.09.25 Friday
昨日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰イアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧二喰イツクスガ如シ 中島敦」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「文字の『霊』を調べる老博士は、字を凝視するうち、意味のない線の交錯にしか見えなくなる。そして体に魂が住まうように、バラバラの線に意味を与えるのは文字の霊だと直観する。と同時に、文字を知ることが、見落としが増えたり、しゃっくりが出たり、臆病になったりと、生そのものに障ることに戸惑う。短編小説『文字禍』から。」文字は確かに線の交錯で出来上がっているので、そこに意味を見出さなければ、単なる構成物です。私は文字から意味を取り除いて、線の芸術として印を彫る場合もあります。文字も意味を理解しなければ、美術作品として鑑賞の対象にもなり得ます。漢字やアルファベットなら日本人の私でも意味は多少は理解できますが、国際社会で通用する文字の中には記号にしか見えないものも数多くあります。視覚的に見て美しいと思える文字は、美術として認識しているからに他なりません。私たちが馴染んだ漢字やひらがなは、美術として見るよりは、同時に意味が瞬時に出てくるので、これは中島敦流に言えば、そこに文字の霊がいるのだと言っているのです。美術作品を鑑賞する人の中には、意味が分からないと不安になる人がいて、この現象を思い起こしました。そこに意味を教える霊が存在しないからです。意味は自ら考える、誰も説明はしてくれない、文字を持たない造形美術や音楽において革新的な表現になればなるほど、旧知の霊はそこにいません。中島敦は夭折の小説家で、私はパラオで創作生活を送った彫刻家土方久功の書籍でその名前を知りました。土方久功との交流も興味深いものでした。また、横浜高等女学校(現横浜学園高)の教壇に立っていた時期があったので、親近感を持ちました。そのうち代表作を読みたいと思います。
2026.09.24 Thursday
今日の午前中は工房で陶彫制作をやっていて、午後になって家内を誘って、横浜市鴨居にあるエンターテイメント系映画館に、現在評判になっている映画「オデュッセイア」を観に行きました。ギリシャ神話に疎い私でもホメロスの名前くらいは知っていて、彼の描いたとされる英雄叙事詩を壮大なスケールで映像化したという情報を得て、これは絶対に観に行こうと決めていました。兵士を潜ませた木馬という奇策によってトロイヤを滅ぼしたオデュッセイアは、忠実な兵士たちを連れて、故郷であるイタケ島に帰還するまでの長い道のりが映画の荒筋です。そこで待つ妻に多くの求婚者が押しかけ、また父オデュッセイアの情報を得るためにスパルタに行った長男の成長も組み込まれていました。帰還では船団が使われ、食料調達に立ち寄る島々には怪物がいて、それらを智恵を駆使して乗り越えていく様子は、ヘラクレスやアキレウスのような怪物退治に長けた英雄ではなく、オデュッセイアはとても人間臭くて、ドラマとしては魅力的な解釈が成されていました。図録から物語の背景を探ると、こんな文章がありました。「『オデュッセイア』の核となるのは、古代ギリシャ文化における重要な理想と価値観を表現する二つの絡み合うテーマだ。その一つは”クセニア”(客人歓待)で、見知らぬ者でも丁寧にもてなすという慣習だ。~略~もう一つは”ノストス”(帰郷)で、これは文字通り故郷へ帰る旅路に加え、精神的に生まれ変わるプロセスも意味する。ここで言う精神的な再生プロセスとは、帰郷を果たし、欲するもの(愛する者との再会、失われた地位や富の回復、より成熟して生命にあふれる自己の形成など)を得るためには、自らの人間性を試し、あるいは作り変えるほどの試練を乗り越えなければならないというものだ。」オデュッセイアの妻の元で求婚者たちが傍若無人に飲み食いしていたのは、こうしたギリシャ特有の慣習のためだったのかと、図録を読んだ後で思いました。この映画はIMAXで撮影した情報があったので、それに応じて私たちもIMAXで観てきました。確かに画面が大きく迫力があり、非日常を楽しむには適した映画でした。