Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 「世俗化と大量生産の時代へ」について
    「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第8章 世俗化と大量生産の時代へ」の気に留まった箇所を取り上げます。「イタリアでロマネスクが成熟期を迎え、ピサの瀟洒な大聖堂のかたわらで、『斜塔』が傾き始めた頃、フランスではパリ近郊、イル・ド・フランスで新しい美術様式が逸早く完成をみた。1200年代初頭のことである。以後300年ちかくにわたってヨーロッパを席巻することになるこの新様式を、のちにルネサンス期のイタリア人は『ゴシック』と呼んだ。~略~一体と分断。ロマネスクの堂内には一体感が保たれているのに対して、ゴシックの堂内はいくつもの空間に分断されているような印象を受けるのだ。これは時代の社会・経済的な変化とも無縁ではない。~略~都市化と巨大化によって、ゴシックの領主層は聖堂全体ではなく、部分を寄進するようになった。大聖堂内の礼拝堂や、祭壇画、銀器その他の祭具である。~略~死後の安寧を願う彼らは、自分のために祈ってくれる聖職者を雇い、家族用の礼拝堂を大聖堂内に確保し、その維持費を支払う。堂内における礼拝堂の位置にもこだわる。つまり、楽園への道を保証してくれる聖人の聖遺物にできるだけ近い場所に陣取りたい。それはまた、寄進者自身へのステータスシンボルにもなったことだろう。~略~空間の巨大化と美の世俗化は、職人たちに大量の注文をもたらした。聖堂の規模が大きくなっただけでなく、そもそも注文主が多様化し始めたのである。それまで美術品の注文主といえば聖職者か領主層と相場は決まっていたところへ、新興の富裕層すなわち商人や商工組合が名乗りを上げ始める。町なかで別格な建築物は城と大聖堂だけというロマネスクの時代は去り、装飾美術の媒体や質は大きな変貌を遂げてゆく。このような美の交替劇の様子をもっとも顕著に示しているのは床装飾の分野である。~略~大量生産されたタイルは、たしかに工場によって多少の差はあったものの、模様・厚さ・大きさはほぼ均質だった。厚さは『やや厚め』が標準になったという。厚すぎると、粘土や釉薬など材料を無駄に多く使ううえ、乾きが遅く、運搬にも重く、生産ラインの効率化が図れない。かといって、薄いと、運搬途中で割れる恐れがある。」床が大理石からタイルへ変更したのも時代としての流れがあったようです。今回はここまでにします。
    「ロマネスクの作り手たち」について
    「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第7章 ロマネスクの作り手たち」の気に留まった箇所を取り上げます。「ロマネスクの作り手たちは、いわゆる『芸術家』ではなかった。そもそも『芸術家』という語が『ある技術に秀でた者』を指し、さらには彼らを称揚する意味あいで使われるようになるのは、ヨーロッパでも13世紀末からのことである。~略~なお、中世美術の作り手たちの自画像でもっとも多く描かれているのは、跪拝像でも、まして肖像でもなく、作業中の姿である。12世紀ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂のブロンズ扉には、天秤と大きなやっとこを手にするブロンズ職人リクィヌスとその助手の姿が今に遺る。」この時代には女性の作り手もいたようです。「女性の作り手の名が残るのは、じつはふたつのジャンルに限られている。ひとつは、写本である。筆写は力仕事ではないが、繊細さと根気が求められる。才能ある修道女が登用されたとしても不思議ではない。~略~女性の作り手の名が残るもうひとつのジャンルは、刺繍である。現存する作例は写本よりずっと少なくなる。布という素材の性質上、長い経年変化に耐えがたいからである。」また名がなくても個性が目立つ作り手がいたこともあったようです。「署名は残らないし、史料に名前が記されているわけでもない。その意味ではまさに無名であるにもかかわらず、きわめて独特な作風から作品群が帰属され、当人の移動経路まで推測できそうな稀有な作り手がある。『カベスタニの匠』。」さらに時代が新しくなると作り手の名が残るようになりました。「ロマネスク期も12世紀に入ると、作り手の名声は次第に高まってゆく。作品に名を残すだけでなく、作り手自身が顕彰されるようになるのだ。ヨーロッパでいち早く、優れた建築家や彫刻家が活躍し、その名が高々と掲げられたのは北イタリアだった。イタリアの美術史家エンリコ・カステルヌオーヴォは芸術家意識の高まりと、自治都市の成立との関連を示唆している。~略~自治都市の成立によって、注文主が司教や領主など封建領主層でななく、複数の人物からなる『市民』となったとき、讃え、喧伝すべきは注文主の寛容さや建設の意図ではなく、作り手の才能となったのではなかろうか。」今回はここまでにします。
    桜木町の「今村紫紅」展
    先日、横浜の桜木町にある横浜美術館で開催されている「今村紫紅」展に行ってきました。日本画家今村紫紅のまとまった作品を見るのは私には初めてのことで、今さらですが、横浜の地元に生まれ35歳で早世した画家をもっと早く知るべきだったと思います。紫紅は10代の頃に粉本模写をしていて、その技巧を見ると早熟の天才だったことが伺えます。その後、紫紅は多方面に主題を広げていきました。私が見たかった「護花鈴」も展示されていて、これは原三渓の支援を受ける契機になった屏風で、大胆に構成され、かつ緻密な描写が際立つ作品でした。さらに紫紅はこんな文章を残しています。「一体、芸術に理屈は入らない。理屈が這入ると窮屈になる。窮屈になっては描けない。描くには暢気でなければならない。~略~ここに暢気と云うのは決して遊蕩せよとの意味ではない。」展覧会を見ていくうちに紫紅の画境が年齢とは別に老成していっているのが分かりました。夭折の芸術家には何かしら歴史に名を残す輝きがあると私は考えていて、紫紅も例に漏れずベテランの境地にあるような作品が散見されました。それは古典に根ざした革新性とも呼べる何かで、説明のしようがないものが作品の根底に流れていると感じました。図録より引用いたします。「紫紅はあるとき御舟たちに、『今迄のものは人に見せる絵であったが、友達に見せるような絵を一度描いて見たい』と語ったとある。胸襟を開いて語り合える仲間に吐露したこうしたことばからは、紫紅が《近江八景》そして《熱国之巻》という二つの画期作で『新しい日本画』への突破口を見出してもなお、優れた古画という巨大な存在から放たれて自由にならなければと気負い、格闘し続けていたことがうかがい知れる。~略~押しも押されもせぬ日本画の革命児として、若くして斯界を牽引し、旋風を巻き起こしてきた画家が、友達に見せるためだけに描きたかった絵、それは紫紅にとって、一つの理想の絵画であったのだろう。」(内山淳子著)
    六本木の「河鍋暁斎の世界」展
    先日、東京の六本木にあるサントリー美術館で開催されている「河鍋暁斎の世界」展に行ってきました。河鍋暁斎は私の中で最も高評価な絵師で、展覧会には必ず行くようにしています。それは私が幼い頃から妖怪趣味があり、そこだけは親から疎まれていて、さらに成長につれて、嘗て自分が妖怪好きだったことを忘れていたのを思い出させてくれたのが絵師河鍋暁斎だったのです。神社仏閣には魑魅魍魎が棲んでいると幼い私は信じていて、大人になった私が河鍋ワールドで見た滑稽な画題と、前から抱いていたイメージが重なった瞬間でもあったのです。ともかく本展のイスラエル・ゴールドマン氏収集による作品の数々は、初めて見るものばかりで私の心は高まりました。河鍋暁斎がこうした画題を取り上げるようになった背景を図録より探っていきます。「暁斎は、幕末から明治初期の変わりゆく世の中で、絵師としての活路を見出すために狩野派の世界を超えて自らの創作領域を広げ、狂画を手がかりとして新しい絵のあり方を模索した。その結果、辿り着いたかたちが、本画と狂画の融合であった。卑俗で品格に欠けるとして狂画、そして狂画に深く関わった暁斎を批判する声は暁斎在世中から聞かれ、戦後の日本美術史研究においても暁斎の評価に否定的な影響を及ぼしたが、ダイナミックで、ユーモアにあふれ、現代の私たちにも通じる普遍的な生活感情が表現された暁斎の作品世界は、狂画なしには生まれ得なかった。~略~狂画の中で、動物、鬼、神仏は人にぐっと近い存在となる。動物の姿を借りて、当代社会を揶揄したり、恐ろしい存在、威厳のある存在、聖なる存在を人間くさく描くことで可笑しみを誘ったり、というのは狂画の手法である。これらの遊び心あふれた『けもの』『ひと』『おに』『かみ・ほとけ』の絵が明らかにするのは、暁斎の鋭くも、決して突き放したような冷たさはもたない、好奇心に満ちた人間観察の目である。」(定村来人著)また私は現代において若い世代に支持される劇画や戯画、アニメにも河鍋暁斎の世界が生きているように感じます。さらに日本人の民俗性にある闇の部分にも画風が照射しているように思えてなりません。
    汐留の「G・ルオー アトリエの記憶」展
    先日、汐留にあるパナソニック汐留美術館に「ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶」展を見に行きました。画家ルオーはキリスト教を主題とした油絵や版画を数多く残した巨匠ですが、私の若い頃はルオーの世界が理解出来なくて、何故ルオーの作風が認められているのか分からなかったのでした。厚塗りで技巧的でもなく、太い輪郭に平塗に近い筆致で描かれた風景や人物は、一見すると何が描かれているのか判別できないと思っていました。パナソニック汐留美術館にはルオーの常設展示があって、いろいろな企画展で訪れる度に、私はルオーの絵画を見ていました。自分の加齢のせいか、次第にルオーの世界が私の心に沁みわたってきて、絵の具の厚みと共に画家の内面性が重なり、蓄積された重厚な場面に惹かれていきました。私が学生の頃は絵画技巧の巧みさばかり目についていたので、ルオーを拒絶することさえあったのでした。ルオーの宗教観について図録にこんな語句がありました。「祈りの言葉を繰り返し唱えるかのようなルオーの瞑想的な制作姿勢の凝縮」とあり、まさに祈禱を伴い、寡黙に取り組んだ彼の姿勢の痕跡と言えます。本展の目玉は、制作の現場を再現した空間が提示されていて、ルオーの創作への息吹を感じることができました。図録より引用します。「200本を超える大小様々な筆、山のように積まれた油絵具のチューブ、パステルや木炭や墨やインク、液体画材用の数々のガラス瓶、多種多様なパレットナイフやスパチュラなどの道具、彩色のある額や裏打ち板、書き込みがされたカルトン(紙ばさみ)。こうした晩年のアトリエに残されている画材の豊富さと多様性は、複数の作品に手を加え続けたルオーが、様々な画材、技法等を自在に行き来していたことを物語る。また、画材ではないが、同じくアトリエに残る夥しい数のエボーシュ(画稿)は、彼の造形性や構想が最も純粋に現れた制作初期の痕跡であり、アトリエの中でもひときわ目を引く興味が尽きない作品群である。」(荻原敦子著)