2026.01.26
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第8章 聖母像の変装」は4つの単元から成っていて、今回は「1隠れキリシタンと潜伏キリシタン」と「2隠れキリシタン存続の様態」の2単元を取り上げます。「『潜伏キリシタン』とは、潜伏期の信者たちをいい、いっぽう『かくれキリシタン』とは、禁教の高礼が撤去された後もなお教会に復帰しない人びとである。~略~ただひとつ確実なことは、もともとキリスト教徒であった民衆が、指導者を失い、幕府の継続的な弾圧のもとで一種の地下組織を作って自分たちの信仰を防衛的に固守してきた結果に生じた状況であるから、歴史的にはキリスト教の特異な民俗的形式として扱うべきだするのが筆者の立場である。」さて存続の様態について取り上げます。「1633(寛永10)年から39(寛永16)年にかけて家光は包括的な鎖国令を布き、日本人の海外渡航禁止、キリスト教の禁止と信者の徹底排除、南蛮人や混血児の追放、海外貿易の制限、ポルトガルとの国交断絶などを実施した。これら一連の鎖国令と、1635(寛永12)年の中国船の長崎集中、1641(寛永18)年のオランダ商館の出島移転などを含めて、家光の寛永段階における鎖国政策は完成した。このように、1640年代までが『殉教の時代』で、主だった宣教師や武士キリシタンが殲滅された。この恐怖の記憶が民衆をして何ものにかえてでも信仰を秘匿するという決意をさせ、子孫をしてそれを守らせてきたものであることは確実である。~略~大橋(幸泰)氏は、幕府の対キリシタン弾圧にいくつかの段階があったと同時に、キリシタン民衆側の心性にも変化があったとする。それは両者の関係をダイナミックなものとしてみる視点であり、同時代の美術を考える上でもっとも参考になる。なぜなら、徹底したキリシタン弾圧が260年も継続したにもかかわらず、信仰を隠しつつ維持した潜伏キリシタンが少なからず存在していたという事実は、日本人の信仰心の強さとか、志操堅固などという精神主義的解釈では説明がつかないからである。大橋氏によれば、民衆の側には、かれらをキリスト教へと導き、かつ信者のために殉教した土豪への、土地を媒介とした民俗的な信仰が深く潜行し、それが自分らの信仰を『隠匿すること』を自己目的化したのだとする。」今回はここまでにします。